「えー、早く210ページまで読んでよー! そこの9行目のセリフ、わたしのお気に入りなんだからー!」
「そう言われても、読むの時間かかるんだって」
「もー、毎回それじゃん!」

 こんな軽口を叩き合うのは何回目だろうか。
 最近になってやっと読むスピードが上がってきたように思うけれど、一か月に一冊のペースは河村さんからしたらまだまだらしい。
 今日もサークル室で河村さんと顔を合わせて、本についてあれこれ話したり読書をしたりして時間を潰していた。
 彼女に読書を勧められてから早くも11か月が経ち、大学2年の10月になった。
 時間割も変わったから、彼女とこうしてサークル室で会うのは、毎週月曜の2限から毎週金曜の3限へと変わった。

「にしても、志渡くんがしっかり読書にハマってくれて、わたしは嬉しいかぎりだよ」
「んー、まあ、この作者の話普通に面白いからね」
「だよねだよね!? まだまだ続刊あるから、楽しみにしててー!」
「思うけど、ほんとこのシリーズ長いよね?」
「長い、長い。けど、飽きなくて面白い!」

 去年読み始めた恋愛ミステリーものは最終巻を今年の5月に読み終わり、いまは同じ作者の別のシリーズを読み進めている。
 このシリーズはかなりの大作で、なんと全14巻もある。
 6巻まで読み終わったところで、いまは7巻目の序盤だ。
 シリーズの半分に差し掛かり、やっとここまできたかという気持ちと、残りはどんな話が待っているのかとわくわくする気持ちが入り乱れる。
 一話完結型なのだが前の話で出てきた人物がのちに繋がっていたりもして、飽きずに読めた。

「いやー、俺も志渡がここまで本にハマるとは思ってなかったな」
「増本くんもそう思った? 実はわたしもそう思ってた」
「勧めてきた本人がそれ言う?」
「わはは、ごめんごめん!」

 相変わらずサークル室の外で僕が彼らに関わることはないけれど、ここでだけは周りを気にせずいられるから、いつの間にかここで過ごす時間は僕にとってかけがえのないものになっていた。

「増本くんも読んでみればいいのに。結構面白いけど」
「いや、俺はパス! 文字見てると頭痛くなってくるんだよなあ」
「そうそう、わたしが誘った時もそう言って断ったよね。ほんとに面白いのにさ。ね? 志渡くん」
「う、うん」

 不意打ちで満面の笑みを向けられて、心臓が不整脈のように変なリズムを刻んで思わずどもった。
 一緒に過ごす時間が増えるうちにより一層彼女に惹かれて、最近ではばれてしまうんじゃないかと自分でも思うくらいに顔が緩んでしまうときがある。
 ここまで仲良くなれたのだから、もう少し頑張れば自分にもチャンスがあるのではと思ってしまうが、彼女に釣り合うわけがないと思いどうしても踏みとどまってしまう自分がいる。
 もたもたしているうちにほかの誰かと付き合ってしまうんじゃないかと何度も悩んだ。
 けれど、毎週決まった時間に僕や増本くんと会ってる時点でそういう相手はいないのだと勝手に予想し安心してもいる。
 一番の不安要素は増本くんだった。
 入学当初から増本くんと河村さんは行動を共にしていたし、増本くんが河村さんをサークルに誘ったのもそういう理由があるんじゃないかと勘繰っていた時期が正直あった。
 でも、どう見たってふたりから恋人らしい雰囲気は微塵も感じ取れないから、既に付き合っているかもしれないという可能性は度外視した。
 車で送って行ったり距離が近いと感じることは度々あるが、それはふたりの元々の性格に起因しているのかもしれない。




「次体育だから、俺は先に行くわ」

 そう言って増本くんが立ち上がった。
 腕時計を見ると次のコマが始まる20分前だった。
 着替えに時間がかかるからと、20分前になると体育館がある2号館に早めに向かう。
 教職課程を履修している彼は体育も必修科目に設定されていて、2年になってからは結構忙しそうだ。
 いまのコマが唯一の空きだと聞いたときは驚いたっけ。

 2年生になってから河村さんと過ごす時間は以前と変わらないままあるけれど、ふたりきりで会う時間は増本くんがいなくなってから次のコマの予鈴がなるまでのわずか10分間だけになった。
 前までの僕だったらたった10分でもふたりきりの時間があることを喜んだんだろうけど、毎週90分ふたりで会えていた去年と比べると、少し物足りなく感じてしまう。
 なんて、そんなことを思ってしまうのはきっと贅沢なんだろう。

 予鈴まであと5分といったところになり、区切りの良いところまで読み切った本にしおりを挟み鞄に入れた。
 次の講義は別々だから、今日会うのはこれで最後だ。
 そう思いながらふと河村さんを見ると、胸を押さえてうずくまっていた。

「ちょっ……、河村さん大丈夫!?」

 慌てて彼女のそばまで駆け寄り、目線を合わせるようにしてしゃがみ込むと、真っ青な顔で額に汗を滲ませて唇を嚙みしめているのが目に入った。
 今までこんな姿の彼女を見たことがなかったので狼狽えて119番にかけようとすると、彼女が震える手で僕の行動を制止した。

「……わたしのバッグ、取ってくれる?」

 手と同様に震える声で彼女は僕にそう言ったので、急いで彼女の鞄を取って渡した。
 ゆっくりな動作でそこからピルケースと水のペットボトルを取り出すと、大量の薬を水で一気に流し込んだ。
 その様子を成すすべがないまま見守るしかできなくて、無力とはこういうことなんだと思った。

「……悪いんだけど、椅子に座らせてもらえる?」
「わ、わかった」

 しゃがみ込んだままの彼女の体を支えるように持ち上げて、近くのパイプ椅子に座らせた。
 初めて触れた彼女の身体は自分が想像していたより細くて薄く、少し力加減を間違えたら簡単に折れてしまいそうだと思った。
 始業のチャイムからも既にいくらか時間が経ち、彼女の呼吸も落ち着いてきた。
 きっとさっき飲んでいた薬が効いたんだろう。

「ごめんね、講義遅刻になっちゃうね」
「なに言ってるの? こんな時にそんな心配しないでよ。……それより、いつからこんなに具合悪いの?」

 薬をピルケースに入れて常備しているってことは、こうなる可能性が高かったってことじゃないのだろうか。
 それともいままで気が付かなかっただけで、ずっと薬を服用していたのだろうか。

「わたし前に、持病があるって言ったでしょ?」
「……うん」
「詳しく話したことなかったけど、生まれつき心臓が悪くてね? たまに、こうやって発作がでちゃうんだ。そうなったときのために薬はもらってて、いつも持ち歩いてるの」 

 だから心配するようなことはなにもないのだと、彼女は力なく笑った。
 必要以上に気遣わなくていいと前々から彼女は僕に訴えてきたけれど、こうして苦しそうなのを目の当たりにして心配しない方がおかしい。

「……ほんとに大丈夫なんだよね?」
「わはは、ほんとに大丈夫! 前から思ってたけど志渡くんって意外と心配性だよね。ほんとに心配しないで、大丈夫だから」
「一言余計だし。……というか、そう言うならそもそも心配させるようなことにならないでよ」
「その通りだよね、ごめんね」

 いつも通りの軽い言い合いをする元気は多少あるらしくて、ほんの少しだけほっとする。

「今日はもうさすがに帰るでしょ? 家の人迎えに来れるの? タクシー呼ぼうか?」
「お母さん家にいるはずだから電話してみる」
「うん、そうしな。迎え来るまでここにいるから」
「ありがとう……」

 まだ少し顔色の悪い彼女を横目に、今度は彼女のすぐそばにパイプ椅子を持ってきて自分も腰かけた。
 数十分前にしまったばかりの本をまた取り出し、ぱらぱらとめくる。
 彼女が言っていた210ページ目の9行目に早く辿り着きたくて、いつもより文字を追うスピードが自然と早くなった。
 途中で気になって何度か彼女の様子を確認したけれど、壁際に沿うようにして置いたパイプ椅子に座って体を預けたまま目をとじて、薄く開いた唇からは寝息が漏れていた。

 しばらくして、机に放りだされていた彼女のスマホが小刻みに震えだした。
 画面には「お母さん」と表示されているから、きっと迎えが着いたんだろう。

「河村さん、起きて。電話」

 声をかけながら河村さんを小さく揺り動かすと、微かなうめき声をあげて彼女は目をあけた。
 寝ぼけ眼のまま僕からスマホを受け取り、ぼんやりとした声で河村さんは電話に出る。
 あまり内容を聞かないようにと、気持ちばかり彼女に背を向けて手元の本にまた視線を落とすけど、「大丈夫」とか「心配ないよ」とか、もはや彼女の口癖になっているのではないかと思われる言葉が度々聞こえてきた。
 「じゃあ、待ってるね」と電話を終える合図があったので、振り返って彼女の方をそっと見る。

「お母さん、駐車場に着いたみたい。これからここまで迎えに来てくれるから、もう大丈夫。4限目は必修だから、志渡くんはもう行かないと」

 そう言って河村さんは僕に行くよう促した。
 けれどいくら短い時間といっても、ついさっきまで具合が悪くぐったりしていた人をそうですか、わかりましたと置いていけるほど、僕は薄情ではない。

「心配だし、お家の人が来るまでここにいるよ」
「……ありがたいけど、でも、いいの?」
「なにが?」
「ほらー……、なんていうか、わたしと勘違いされちゃっても」

 珍しく彼女が歯切れ悪く言うので、なんのことだかわからず首をかしげたけれど、次の言葉でやっと理解する。

「こんなとこでふたりでいたって知られたら、うちのお母さん、志渡くんのこと彼氏だと勘違いすると思う」
「ああ、そういうこと」
「……志渡くんは、いいの? わたしと、その。勘違いされても」

 恐る恐るといったふうに、河村さんは僕にたずねてきた。
 大きな丸い目で僕を見上げて、不安そうに。
 その表情が意味するものがなんなのか、恋愛経験に乏しい僕でもさすがにわかった。
 僕の恥ずかしい勘違いでなければ、きっと河村さんも少しは僕と同じ気持ちでいてくれているのだろうと。

「勘違いしたい人は、勝手にしてればいいんだよ」
「……それもそっか」

 自分自身にも言い聞かせるようにそう言うと、河村さんは少しだけ残念そうに眉を下げていた。
 そう見えたように感じたのが僕の勘違いであっても、そうあってほしいと願うから、勝手にそう思うことにした。
 冬休みに入る直前のクリスマス、彼女に告白しようとひそかに心に決めて。
 けれどやっぱり自信はないから、どうか勘違いじゃないようにと切に願った。