かちゃりとドアを開ける、こちらを気遣うような静かな音で薄っすらと目を覚ました。

「この時間って空きだったっけ?」

 パイプ椅子を3つほど並べて寝ころんでいた僕の上に、そんな言葉が降ってきた。
 寝ている僕に構うことなくいぶかしげに問われたその声に、さっきの気遣うような所作は一体なんだったんだと問いたくなる。
 しぶしぶ顔に乗っけていた本をどけて声の主を見ると、同学部の河村(かわむら)(すみ)だった。

「空きじゃない。ちょっとした息抜き」
「つまり、さぼりってことね。いけないんだー」
「出席日数足りてればいいから。それより、僕が寝てると思ってドア静かに開けたんじゃなかったの」

 うとうとしてぼんやりする頭のまま体をゆっくり起こし、睡眠を妨害されたことをほんの少しだけ恨めしく思って尋ねてみる。
 するとふっとひとつ短いため息をつき、彼女は腰に手を当てながらさも当然のように言う。

「開けたら志渡(しど)くんしかいなかったし、気遣う必要ないと思って。ほかの人がいたらさすがに気にするし、そもそも声なんてかけないけど」
「ふーん……」

 ほかの人には声をかけたりしないというその言葉に、ほんの少しだけ心が浮足立つ。
 そんな気持ちを彼女に悟られないようにして、真顔を貫けるよう努力する。
 少しでも気をゆるめると、彼女に対する気持ちが漏れ出てしまいそうになるから。
 ついつい言葉も冷たくなってしまう。

「というか、僕にも少しくらい気遣いがあってもいいと思うんだけど」
「そんな小さいこと、気にしない、気にしなーい!」

 彼女は小柄な見た目に反して、大きな声でわははと笑った。いつでもそうだ。彼女は結構豪快なのだ。
 この人ほど見た目と性格が一致しない人物を、僕はこれまで見たことがない。
 綺麗な茶色の長い髪はいつでもつやつやで、天使の輪が輝いている。白いレースのロングスカートをはいていれば、元々の容姿も相まっていいとこのお嬢さんのように見えるくらいだ。
 それなのに、足は大股に開いているし大きな二重の目を細めて、大口を開けて大声で笑う。
 そんな彼女の姿に、今度は僕がため息をつきたい気持ちになる。

「というか、河村さんだってさぼりなんじゃないの? 僕のこと言える立場?」

 パイプ椅子を僕の横に並べなおし、座りながら本を開いた彼女に今度は僕が皮肉を込めて言う。
 今のこの時間は、必修科目だ。同学部の彼女がここにいる時点で、僕と同罪も同然だ。
 勝ち誇ってそう問うと、彼女はタコのようにむっと口を突き出した。

「わたしは今登校してきたんですー! 病院行ってからだったから間に合わなかっただけだし。教授には事前に伝えてありますー! ただのさぼりの志渡くんと同じにしないでくださーい!」

 わざと語尾を伸ばして僕とは違うのだと必死に訴える姿に、「ごめん。体調は問題ない?」と、うろたえながらも彼女に聞く。
 彼女には生まれつきの持病があるらしく定期的に通院しているようで、こうして講義に間に合わない日もあるのだと以前聞いた。
 そう覚えているのに何の気なく彼女を責めるような質問をしたことを反省する。

「具合が悪くて行ってるわけじゃないし大丈夫だよ、毎回そんなに気にしなくても」
「いやまあ、そうなんだろうけどさ……」

 病気とか通院とかそういうことを聞くと、やっぱり気にしてしまうのは人の性だと思う。
 好意的に思う人が相手なら、なおのことだ。
 彼女は普段つらい素振りをひとつも見せないし、なんならその辺の健常者よりよっぽど健康的に見えるから、余計に気になってしまうのだと思う。

「わたし、辛気臭いの一番嫌いなんだよね。いい加減、毎回空気暗くするのはやめてよね! この通り元気なんだし!」
「そうは言っても、通院してる事実に変わりはないでしょ」
「だからあ、定期健診みたいなものだから本当に大丈夫なんだって!」
「定期健診で異常が見つかる場合もあるんだから、少しは用心した方がいいって言ってるだけ」

 彼女が心配なだけなのに素直にそう言えなくて、いつも言い合いが加速してしまう。
 これは僕の悪い癖だ。

「わたしが軟弱って言いたいわけ? 色白いし細いし、わたしよりよっぽど志渡くんの方が不健康そうな見た目してるくせに!」
「はあ? それは余計なお世話なんだけど!」
「おーい。外まで声聞こえてる。ここ壁薄いんだから気をつけろって」

 言い合いがヒートアップしてきたタイミングで、ドアが音を立てて開いた。
 ドアを開けた本人はなぜかびしょ濡れで、持っている黒い傘からはぽたぽたと水が滴っていた。

増本(ますもと)くん!」

 聞いてよ、と言わんばかりに河村さんが増本源太(げんた)に詰め寄った。
 その姿に胸の端っこがもやっとしたけれど、これもいつものことだ。
 僕がひどいだのなんだの、彼に愚痴をこぼしている。
 常習化してきたそのやり取りに呆れるように、彼は彼女の話にうんうんと相槌を打ちながらも、半分は僕を憐れむみたいに目配せした。

「って、今気づいたけど、増本くんなんでそんなずぶ濡れなの?」
「河村さん、アホなの? どう見たって雨に降られたんでしょ」
「アホってなに!?」
「はあ、もういい加減にしようよ……」

 怒らせるような言い方をする僕も悪いのはわかっているけれど、ぷんぷんと音が付きそうなほど口を尖らせる河村さんがおかしくて、だけどかわいくて。わざと意地の悪い言い方をしてしまう。
 相変わらず沸点の低い彼女と不毛なやり取りを続けていると、さすがに痺れを切らしたように増本くんが大きなため息をついた。

「とりあえずくだらない言い合いは置いといて、早く帰った方がいいよ。この後の講義、全休講だってさっき案内出てたよ。暴風雨で電車も遅延してるみたい」
「えっ、なんで!? あ、ほんとだ。外すごい雨じゃん! しかも風つよっ! わたし学校来た意味まったくないじゃん」
「僕も1コマ分無駄に時間過ごした」
「それは自業自得でしょっ!?」

 そんなやり取りをしながら小さな窓から外を覗けば、確かにひどい天気だった。
 まだ15時前だというのに、空の様子も相まっていつもより薄暗い。
 11月も半ばに差し掛かり、ここ最近は天気の悪い日が増えたなと感じる。

「とりあえず、河村さんはもう帰るでしょ? 俺、送っていくよ」

 僕と同様に河村さんが病気持ちだと知っている彼は、いつからかこういう日に彼女を車で送っていくようになった。
 こういう光景を目の当たりにすると、僕も早く免許を取るべきだったと後悔する。

「いつもごめんね、ありがとう。けど、今日中に教務課に行かないといけないから、少しだけ待っててくれる?」
「今日じゃなきゃだめなの? すごい天気だし、今から行くことないんじゃない?」
「うーん。そうなんだけど、できれば早い方がいいからこれから行きたいな。待たせちゃうけど……」
「待つのは全然いいけど、飛ばされないように気を付けて行くんだよ。というか、一緒に行こうか?」

 増本くんが河村さんを気遣うようにそう言うと、「そのくらい大丈夫だってば! でも、ありがとう。急いで戻ってくる!」とスカートを翻しながら小走りでバタバタと出て行った。
 そんな後ろ姿に「戻る時連絡入れろよー!」と増本くんが大きな声で呼びかけると、遠くから「はーい!」というこれまたバカでかい返事が聞こえてきた。

「やっとうるさいのがいなくなった……」

 ぐったりと脱力してパイプ椅子にもたれかかり、薄汚れた天井を見上げる。
 まるで嵐が去ったかのように静かになり、ほんの少し寂しくなる。
 けれど、清々したという態度を大げさなくらいしてみせる。

「もう随分ここに馴染んだみたいだな」

 僕の様子にほっとしたような表情を浮かべて、増本くんはそう言った。
 さっきまで河村さんが座っていた古びたパイプ椅子に彼が座ると、軋んで音を立てる。

「4か月も経てばさすがにね」
「そこそこな頻度でこんなとこにいる方がまれな気もするけど」
「確かに。けど、まあまあ居心地いいよ」
「そうかあ? でも、そう思うならよかったよ」
「僕もそこそこ来てるけど、2~3回に1回は会うってことは、増本くんもそこそこ来てるよね」
「河村さんも、な」

 そう呟くように言って笑う増本くんは、お人好しだと思う。
 皮肉交じりで人を少しバカにしたような言い方をついしてしまう僕にも、普通に接してくれるから。
 それは河村さんも同じことだけど。
 ……普通に過ごすだけならば、本来僕みたいな人間は、増本くんや河村さんのような人達とは相容れる存在ではないのだろう。
 少しの偶然が重なりあって、たまたまめぐり合わせただけなのだ。






 河村純と増本源太は、今年入学した同学部の中でひときわ輝き目立つ存在だった。
 教室の隅っこでひとりでいるような僕でさえ、彼らの名前を知っているくらいだった。

 河村さんはまさにお人形のような容姿、と例えるのが一番わかりやすいだろうか。
 リカちゃん人形、と言えばきっと多くの人には伝わるだろう。
 背中まであるストレートの長い茶色の髪はいつも整えられ、眉毛のラインで切りそろえられた前髪は、丸くて大きな二重をより際立たせていた。
 身長は150センチ前半くらいだろうか。小柄で華奢な体型も、彼女のかわいらしい雰囲気を突出させるひとつの要素だろう。
 
 増本くんは大人数のグループの中心人物で、いつでも誰かと一緒に行動していた。
 毎日隣りにいる人が変わるから、誰とつるんでいて誰と一番仲が良いのか入学して早くも7か月経つ今でも把握していないけれど、その輪の中にいつも河村さんがいたことだけはしっかりと頭に残っている。

 河村さんと同じく、彼もただでさえ目立つ容姿をしていた。身長は175センチくらいで平均的だけど、さわやかで清潔感のある身だしなみに整った顔貌を兼ねそろえていて、女子がこそこそ話すのが嫌でも耳に入るくらいだった。
 切れ長のアーモンドアイと通った鼻筋に、健康的に焼けた小麦色の肌の彼は、男の僕から見てもかっこいいと思える。

 増本くんと違って染めてもいない生まれたままの黒い髪に、中学の時から変化のないヘアスタイル。いつでもTシャツとジーンズでいるような地味で飾り気のない日陰がお似合いの僕は、彼と対極になるような存在だと思う。
 いつでも人当たりの良い笑顔を浮かべていて見るからに友達も多く、僕と彼のなにかを比べるなんておこがましく思えるくらい、彼は陽の当たる側の人間だ。
 過剰な表現なんかじゃなく、心からそう思えるほどに彼は人として出来すぎているようにさえ感じる。
 そんな完璧な彼と欠陥だらけの僕がどうして知り合うことになったのかは、増本くんの性格が良すぎるから。この一言に尽きると思う。

 そもそもの話になるが、大学に入った方が将来安心だからという不明瞭な理由で進学を勧める両親に流され、僕は今この場にいる。
 高校の時よりもたくさんの人が集まる場に毎日行かなくてはというのがまず億劫だったし、なにより自由になるお金が早く欲しくて、卒業後は進学ではなく就職を希望していた。
 けれど、進学に乗り気じゃない僕に不安を覚えた両親が進学費用を出してくれると言うので、大学を出た方が初任給もいいからと思い至り、その提案に迷わず甘え今に至る。親のすねかじりもいいところだ。

 この大学で特別やりたいことがあったわけじゃない。自分の学力でそこそこの努力で入れるところになんとか滑り込んだだけで、必要な講義だけ受けて単位を取り、卒業だけしようと決めてとりあえず入学した。
 大学生活は僕にとって就職するための前段階にしか過ぎないと思っていたから、わざわざ自分から友達を作ろうとも思わなかったし、必要ないとも思っていたくらいだった。
 元来人付き合いが苦手で人間関係が希薄な方だったし、ひとりでいても不審がられない大学生活はそれほど窮屈しなかった。

 これまでの人生で友達と呼べる人は片手で足りるくらいで、大勢が集まる場に赴けば「あんな人いたっけ?」と口々に言われてしまうくらい存在感の薄い僕がなぜ増本くんと知り合うことになったのかは、少しの偶然と彼の人の良さが起因している。

 入学してからは人間関係で困らなくなったものの、中途半端にできてしまう空きコマがやっかいだった。
 卒業できる最低限の単位だけだと、時間割に無駄な空きができてしまうのだ。
 大学内にカフェコーナーも食堂もあるし、90分くらい簡単にしのげるだろうとたかをくくり、必要ない単位を取るのは無駄だからと穴ぼこだらけのまま履修登録を終えてしまった。
 学内に友達がいないことがここで災いして、いわゆる「楽単」の情報も得られなかったから登録しなかったし、最初こそ快適だったカフェや食堂での時間潰しも毎日続くとだんだんと苦痛になってきた。
 初期の頃こそ暇つぶしに音楽を聴いてみたりうたた寝をしてみたりしてやり過ごしたけれど、これといった趣味もないから毎週決まった時間に予定もなく時間が過ぎるのを待つだけなのはしんどかった。

 さらに僕を苦しめたのは「ひとり」だったということだ。
 高校と違って大学は単独でいても茶化されることはないし、誰も干渉してこない。
 けれど、ひとりでいるということはやっぱり目立つもので、毎週同じ講義を受けていると、この人いつもひとりだなと自然と気づいてしまうものである。
 講義室の後ろ側が僕の好む席だったのと、僕もそうだったから余計に自分と同じような人が目についていただけかもしれない。
 けれど、いつも同じ人がひとりで講義を受けていると、知り合いでもないのにその人が視界に入ってくるようになった。
 それに気づいたときに、僕も周りからそう見られているかもしれないと感じるようになってしまった。
 そうなってくると、これまで僕が使ってきた時間潰しの場所でいつも通り過ごしていても、人目がどうしても気になってストレスを感じるようになってきた。

 そんな大学1年の7月半ば、「楽単」を履修し損ねいつものごとく食堂で肩身狭く時間をやり過ごしている時に増本くんから声をかけられたのだ。

「この時間、よくここにいるよな? 俺もこの時間空きで、いつも来るんだ。ちなみに俺のお気に入りの席はあそこ」

 突然かかった背後からの声に驚きつつも振り返ると、僕のいる席の少し奥を指さしながら彼が立っていた。
 2人掛けの席に彼がいつも持っているリュックが置いてあり、ひとりということが見て取れた。

「……ひとりなんですか?」
「ああ、いつも大勢でいるから、ひとりでいると逆に目立つよな」
「いや……、はい」

 初対面だから、得意の人見知りが発動した。
 彼は目立つから僕が知っていてもまったく不思議じゃないけれど、彼の目に僕が留まっていたことが少し気恥ずかしく、また気まずくもある。

「あっ……! 同学部で同学年だからてっきり同い年かと思ってたけど、もしかして年上だったりします? だったらごめんなさい、ため口失礼でしたよね」

 視線をそらして少しうつむいていた僕の様子を見てなにか勘違いをしたのか、増本くんは申し訳なさそうに謝った。
 確かに大学は、同学年の生徒が全員同い年とは限らない。
 こうやって学内で初めての人と話すときは、結構気にするものなのかな。
 僕は自分から誰かに声をかけることがないからそういう気苦労はわかりようもないけれど、彼を見ているとコミュ力が高いというのも案外大変なのかもしれないなと思う。

「いや、同い年。増本くん、だよね」
「そう、増本! 増本源太っていうんだ。よろしくな!」

 彼は名乗った後、人懐っこい笑顔で白い歯を見せながら僕に笑いかけた。
 こういうところが、人気の理由のひとつでもあるのだろう。

「ごめん。話しかけておいてなんだけど、君の名前って……」
「志渡(りつ)だよ。よろしく」
「志渡、な。覚えた! それで、いきなりなんだけど……」
 
 きょろきょろと周りを見渡したあと、彼はささやくように僕にこう言った。

「テニスサークルに入らない?」と——。






 そうして増本くんの紹介で入ったのが、僕がいまいるこの場所が活動拠点である「テニスサークル」だ。
 だけどテニスサークルとは名ばかりで、テニスをするために入っている人は実際はほんの何人かだった。
 真面目にテニスをやっている実力のある人たちは、もうひとつ別にある正式な部活動と言われる方で活動しているからだ。
 入学するまで知らなかったが、大会常連校らしく何度も表彰台に上っているらしい。

 サークルとして学校側に正式に認められると、大学敷地内にある部室棟のうちの一室を大学から与えられるので、所属している者はそこを自由に使うことができた。
 僕が入学する数年前にこのサークルは設立されたらしく、どう申請して承認を得たのかはいささか疑問ではあるけれど、僕にとってはありがたい場所でしかないので深くは考えないことにしている。
 長机が2つほどとパイプ椅子が何脚か乱雑に置かれただけの、お世辞にも綺麗とは言えない部屋だけど、1コマ分の時間を潰すのには程良い空間だ。

 所属している人の大半が流行りのオンラインゲームを空きコマに友達とやりたい人、時間つぶしをしたい人などで、いわゆる「場所がほしい人」がこのサークルに籍を置いていた。
 みんな、僕と同じような理由だ。
 こんなふうにとてもゆるいサークルなので、入っても所属者の紹介もなかったし、大学の醍醐味でもある歓迎会と称した飲み会すら開催されない。
 ただ居場所がほしいだけの僕にとって、いまとなってはぴったりの場所になった。

 週3日ほど、決まった時間にこの部室を僕は使っている。
 たまに先客がいるけれど、僕から話しかけることもなければ、あちらから声をかけられることもない。
 目があえば会釈をするくらいで、その距離感がとてもありがたい。

 河村さんとはじめて顔を合わせたのも、増本くんがきっかけだった。
 僕が彼に入部を誘われたのと同じ日に、同様にして彼女もサークルに入ったのだ。
 対面して会話をするまで、彼女のことをいいとこのお嬢さんのようだと思っていたけれど、それは半分本当で半分は全く当てはまらないと気づかされた。
 見た目は確かにそう見えるけれど、実際彼女が口を開けば、意外と口は悪いし、はきはき大声で喋る。
 大股で歩いたり動きもがさつだし、くるくるとよく表情が動く。

 遠くからしか見たことがなかった彼女を目の前にしたら、僕が想像していた河村純という女性像からあまりにもかけ離れすぎていた。
 だけど、逆にそれが新鮮で、僕は少しずつ彼女に興味を持つようになり、惹かれていったのだ。



「そういえば増本くんは、なんでこのサークルに入ってるの?」

 出て行ったきりなかなか河村さんが戻って来ないので、この際だからと今まで気になっていたけどあえて聞かなかった質問を投げかけてみた。
 すると彼は少しだけ言いづらそうに、ぽつりと言葉を発した。

「いやー……、ずっと周りに人がいると、気が休まらないだろ? 俺にとってここは逃げ場なんだ」
「あー、なるほど」

 人気者には人気者特有の悩みがあるらしい。
 思えば食堂で声をかけられたあの時間は、楽単と呼ばれる講義の真っ最中だったはずだ。
 現に彼を取り巻いていた人たちはその時周りにいなかったし、その人たちは楽単を履修しているのだろう。
 きっと増本くんはそれを知ってて、わざと履修科目に選ばなかったのだと思った。

「ひどいだろ?」
「いや、別にそんなことは思わないけど」
「そう? そう言ってもらえるとちょっと安心するわー」

 言いながら増本くんは大きく伸びをした。
 それを見て、僕も同じようにうんと背筋を伸ばした。

「ちなみになんだけどさ」
「ん?」
「僕をサークルに誘ったのはなんで?」
「ごほっ……、いや、それはさー……」
 
 この際だからパート2で、これまで気になっていたことの2つ目の質問を投げかけると、増本くんはそんなことを聞かれるのを予想していなかったのか少しだけ息を詰まらせていた。

「……怒らない?」
「……怒るかどうかは聞いてから決める」
「えー、それってちょっとずるくね?」
「ずるくないよ、まったく」

 こんなふうに言いよどむということは、失礼な理由で僕を誘ったと白状しているようなものだ。
 大方予想はついているけど。

「正直にぶっちゃけると、講義もいつもひとりで受けてるし、食堂でも同じ時間にひとりでいるし、友達いないんかなって思って」
「つまり僕を憐れんでってこと? だいぶはっきり言ってくれたね」

 わざと握りこぶしをつくって見せて殴るモーションをしてみると、増本くんは大げさなくらいのけぞった。

「いや、待って待って! 違うんだって! 違うくはないけどさ、志渡もちょっと目立つから、俺と同じ理由かもしれないとも思って」
「同じ理由ってなに?」
「は? いや、だからさー。いや、自分で言うのもなー……」

 言いにくそうに頭をぽりぽり搔いている増本くんの姿に、疑問しか湧いてこない。
 意を決したように、増本くんが口を開く。

「いや、ほら。自分で言うのもなんだけど、俺ってモテるじゃん?」
「え? うん。だから?」
「だからあ! そういうことなんだって! 志渡だってそういうことで苦労したことあるだろ!? 好きでもない女子が毎日近くにいたりすると、ちょっと疲れるじゃん? だから、女除け的な意味でもひとりでいるのかなって思ったんだよ」

 そんな彼の言葉に拍子抜けして、一瞬固まってしまう。
 ありえなさすぎるその想像に、さっき握った拳を本気で彼にぶつけたい気持ちになる。

「いや、まったくないけど」

 モテる人と僕の悩みを一緒くたにしないでほしいと切に願う。
 生まれてこの方僕はモテたことなんて一度もないし、もしそうだったらどれほど幸せだったろうと思うくらいだ。
 人間関係自体は苦手だけど、女の子と付き合うことに興味がないわけではまったくないのだ。
 僕の言葉に今度は増本くんが驚いたようで、目を見開いて僕の顔をまじまじと見つめてきた。

「……まじで?」
「まじだよ。大まじだよ。っていうか、男と見つめ合う趣味ないんだけど」
「へー……、その顔で、か? 性格に難ありって見抜かれてたのかな。志渡、口悪いしあんまり優しくないもんな」
「なんかすごい失礼な言葉が聞こえてきた気がするんだけど?」

 ごめんごめんと心のこもっていない謝罪を口にしながら、「いや、身長か? でも、俺も別に特別高くもないしな……」などと、まだぶつぶつと小さく失礼なことを呟きながら、増本くんはうんうんと唸っていた。



「ごめんっ! お待たせ!」

 勢いよくドアを開けて、やっと河村さんは戻ってきた。
 出て行ってから30分くらいは経っただろうか。
 もう一度外を眺めてみると、雨足はさらに強まっているように見えた。

「遅かったね。じゃ、帰ろっか。送っていくよ」
「本当にごめんね。よろしくお願いします」
「全然オッケーだよ」

 申し訳なさそうに言う河村さんと立ち上がった増本くんを見て、帰り支度をしながら僕も同じように立ち上がった。
 黒い大きめのショルダーバッグを肩にかけ、「じゃあね」とドアに向かった背中に声がかかる。

「志渡も送ろうか? ついでだし、天気も悪いから乗っていきなよ」
「いや、反対方向だから悪いよ。歩いてすぐだし、なんとかなるよ」
「本当に平気か?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。増本くんも運転と河村さんに気を付けて帰りなよー」
「ちょっとそれどういう意味!?」
 
 最後に河村さんをからかって、背中を向けたまま彼らに手を振った。
 送ってもらえばよかったと後悔したのは、早くもその日の夜のことだった。