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その日、彼女が借り出したのは『余命物』だった。
カバーに書かれたあらすじによれば、だんだん色素が薄くなって透明になる病気にかかったヒロインが淡雪に溶け込んで消えてしまう物語だ。
図書室を出て渡り廊下を歩きながら彼女がつぶやいた。
「私もこうだったらいいのにな」
え?
「雪みたいに消えてしまえばいいのに」
なんで?
「泣ける小説のヒロインみたいにきれいに死にたいな」
どうして?
僕らまだ高校生なのに、死ぬ話に憧れるの?
そもそもそんなきれいな病気なんてないんだし。
正直なところ、僕は小説を読んで泣きたいという気持ちが理解できなかった。
冒険にわくわくしたり、探偵気取りで推理小説の謎に挑んで見事などんでん返しに驚嘆したり、小説というのは楽しみのために読むものだと思っていたからだ。
「最後は病気が治った方がいいんじゃないの?」
「あのね」と、呆れ顔が返ってくる。「地球温暖化で彼女は雪にならずにすみましたなんてお話、誰が読むのよ。そんなのハッピーエンドでもなんでもないよ」
喧嘩をするつもりはなかったからそれ以上は反論しなかったけど、やっぱり納得したわけではなかった。
現実だってつらくて悲しいことばかりなのに、わざわざフィクションで上塗りすることはないんじゃないだろうか。
――フィクション……か。
『この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係がありません』
だよな。
哀しさや切なさをフィクションの世界に閉じ込めてしまえるからこそ、小説を読むのか。
現実の世界でだまされたり裏切られたら立ち直れないくらい落ち込むけど、推理小説のラストでだまされれば爽快な娯楽になる。
だけど、それはべつに矛盾などしていない。
泣ける小説を読んだからといって、自分が死ぬわけじゃないんだもんな。
むしろ、自分じゃないからこそ、安心して泣けるんだろう。
傾いた心のバランスを元に戻すのにも役立つのかもしれない。
でも、だとしたら。
彼女はなぜバランスを取ろうとしているんだろう。
昇降口で靴を履き替え外に出る。
並んで歩く城之内さんがうつむきながらかすかに鼻歌を歌っている。
何の曲なのかは分からないけど、考え事をしているようだった。
「ねえ、あのさ」と、遠慮がちに僕を見る。「私を犬上くんの小説のモデルにしてよ。でさ、ヒロインが死んじゃえば泣けるんじゃない?」
僕にそんなの書けるわけないじゃないか。
――君が死ぬ小説なんて。
「なんでそんな……」
「だってさ、小説の中でなら、死んでも永遠に生き続けることができるじゃない」
「フィクションだからね」と、僕は頬を引き上げて笑顔を作った。
「そう、フィクションだから」と、彼女も微笑む。
でも、その笑顔は一瞬で消えた。
「ごめんね」
――え?
「ハッピーエンドじゃなくて」
「べつにあやまることないよ」
そもそも書けるかどうかすら分からないんだから。
銀杏の黄色い葉が散らばる歩道を、彼女は葉っぱをよけながら歩いている。
密集して落ちているところでは爪先立ちになったりして、子供みたいだ。
どんな結末が待ち受けているのかも気になるけど、僕にとっては、今のこの二人だけの時間があるだけで満足だった。
「ねえ、交換日記形式にしない?」
「え?」
「日記っていうかさ、犬上くんが小説を書いて、私はそれの感想を書くの」
「そんなにすぐには書けないよ」
「アイディアのメモとかでもいいからさ。例えばそれに私が続きの話を考えてもいいし」
「ノートのやりとりは放課後の図書館で?」
「恋愛小説っぽくて良くない?」
キラキラした目で見つめられると断れない。
「だけど、続けられる自信がないな」
「べつに毎日じゃなくていいんじゃない」
まるで僕の心を見透かしたかのように彼女が先に予防線を張る。
「どうせさ、長くて一年、早ければ半年、もしかしたら三ヶ月かもしれないし」
「やるなら、さすがに一つの作品が完結するまでは続けたいな」
「じゃあ、決まりね」と、彼女はさっきメガホンの代わりに丸めていたノートを僕に押しつけた。「このノート、使ってね。国語で半分使ってあるから、万一、誰かに見られてもオリジナル小説だなんて気づかれないよ、たぶん」
え!?
準備万端?
僕はようやく罠に誘い込まれていたことに気づいて苦笑してしまった。
チョロい非モテ男子なんだな、僕は。
駅前のロータリーで彼女と別れてからも、僕は小説のことを考えていた。
僕に書けるんだろうか。
君に喜んでもらえるような最高の小説なんて。
家に着いて、さっそくこれまでの妄想メモを集めてみたけど、書き始める前に壁に当たってしまった。
アイディアのメモを集めてみても、それは穴だらけのパズルの断片であって、決してストーリーにはならないのだ。
悩むだけ悩んだものの、結局一文字も書けなかった。
やっぱり無理なんじゃないかな。
早くも僕はリタイアしそうだった。
だけど、僕らに残された時間はほんのわずかしかなかった。
現実はフィクションを越えて大きく動き出していたのだった。