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 翌日、教室移動中に廊下ですれ違ったとき、彼女が小さく手を振ってくれていることに気づいたけど、とっさに返せなかった。

 気を悪くしたんじゃないかと気になってその後の授業はまるで身が入らなかった。

 かといって、こちらから別のクラスまでわざわざ謝りに行くわけにもいかず、放課後までずっとモヤモヤした気持ちを抱えながら図書館へ向かった。

 自習室へ入ろうとしたら、入り口に城之内さんが立っていた。

「やっほー」

 昼間のことは気にしていないのか、陽気に手を振ってくれたのがとてもありがたかった。

 僕もちょっとだけ手を挙げて胸の前で振った。

「答え思いついたの?」

「えっ、何の?」

 あまりの天然っぷりに緊張が一気にほぐれたのも、むしろありがたかった。

「昨日のクイズ」

「あ、ああ」と本当に忘れていたという顔を隠そうともしない。「えっと、なんだっけ」

 ひどいなあ、もう。

 僕は昨日からずっと君のことが気になって気になって寝不足になるくらい寝付けなかったのに。

「スポーツが苦手な僕でもできるもの二つ。持久走とあと一つ」

「あ、そうだったね」と、視線を斜め上に向けながら笑ってごまかしている。「んーとね、スキー?」

「あ、おしい。スケート」

「なんで正解言うのよ」と、頬を膨らませる。「私が降参したみたいじゃん」

 とっくに興味を失ってたくせに、クイズの勝敗にはこだわりがあるらしい。

 僕には君の考えていることはさっぱり分からないや。

「でもすごいね、私スケートやったことないな」

「いちおう滑れるっていう程度だよ。フィギュアスケートみたいな技は全然できないからね」

「あれって、止まる時どうするの?」

「足をハの字型にして、くるっと回転すると止まるよ」

「想像できないや」

 廊下の床は少し滑るからやって見せようとしたけど、上履きだとやっぱりうまくいかない。

 へんに腰をひねって格好悪いダンスみたいになってしまう。

 城之内さんも僕と一緒に変なダンスを始めて笑っている。

「ねえ、こう? どう?」

 勉強に来た先輩たちが邪魔そうな目で僕らを見ていくので、スケート教室は中止になった。

 わきへどけた彼女が階段の下を指した。

「でも、おもしろかった。ねえ、ちょっとさ、図書室の方へ行かない?」

 三階の自習室にはレファレンス系の資料が置いてあるけど、小説などの本は二階の図書室にある。

 僕らは階段を下りて図書室に入った。

「犬上くんは読書する方?」

「あんまり小説は読まないかな。推理小説くらいだね」

 城之内さんは自分の好みを教えずに、小説コーナーの方へ歩いて行く。

 ここの高校の図書室はほこりをかぶった文学全集みたいな古い本がいっぱいあって、棚の間を歩くとカビ臭い匂いがまとわりつく。

 ちょっと息を止めながら歩いていると、北側の窓際の棚に真新しい背表紙が並ぶ文庫本コーナーで彼女が立ち止まった。

 ライト文芸と呼ばれる中高生向けの小説らしい。

「じょ……城之内さんは、どんな本読むの?」

 さりげなく言ったつもりだけど、名前を呼ぶのは初めてで、ものすごく緊張した。

「ん、私?」

 そんな僕の動揺にはまったく気づいていない様子で彼女は背表紙の文字を追っている。

「よくね、余命物を読むよ」

「ヨメイモノ?」

「ほら、病気とかであと半年しか生きられないとかそういう話」

「へえ、そういうのが好きなんだ」

「余命物ってね、私たちみたいに偶然出会った男女が、期間限定でお試しでつきあうっていうのが定番なの」

 そんな都合のいい出会いあるかよって思ったけど、おまえだろと、自分で自分にツッコミを入れてしまった。

 自習室と違って、図書室にはほとんど人の気配がない。

 ささやき声でも、彼女の声は良く聞こえた。

「犬上くんも余命物を書いてみたら」

「恋愛したこともないのに、恋愛小説なんて書けないよ」

 なんて言ってるくせに、図書室の隅でささやきあっていると、なんだか二人だけの内緒話をしているみたいで顔が熱くなる。

「自分で言ってたじゃん。『この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係がありません』って。妄想を書くんでしょ」

 それはそれで、思春期男子の都合良すぎる願望をさらけ出すようで恥ずかしい。

「でもさあ」と、彼女が一歩後ろに飛び退く。「現実の恋愛はそんなにいいものではないのかもね」

「え、なんで?」

 思わず声が大きくなって、彼女が口の前に人差し指を立てる。

 ――ごめん。

 図書室で会話してるって忘れてた。

「片思いで終わったり、つきあっても別れたり」

「ああ、そうか」

「妄想だったら、自分の思い通りになるでしょ」

 そういうものか。

 じゃあ、この恋にもいつか終わりが来るんだろうか。

 そもそも、これが恋なのかどうかすら分からないけどね。

「だから、私たちもつきあってみない?」

 ん?

 え?

『だから』のつながりがおかしい気がして、また僕はとっさに返事ができなかった。

 相変わらず彼女は自分のペースで話を進める。

「でさ、この恋を小説にすればいいんじゃない?」

 やっぱり、つきあうって言ってるんだよね。

 それは悪くない提案だった。

 僕と彼女の接点。

 あり得なかった二つの世界の交錯。

 ――その時が初めてだった。

 僕が本気で小説を書こうと思ったのは。

 小説を書くために恋をする。

 恋をするために小説を書く。

 小説も恋も、どちらもするつもりじゃなかったのに、いつのまにかそういう流れの中に巻き込まれていた。

 ならば、身を任せてしまえばいい。

 そうでもしないと、非モテボッチ陰キャ男子に恋なんて一生無理なんだから。

 僕の書いた小説を彼女に読んでもらうところを想像するだけで頭がぼうっとしてくる。

 感想なんかもらえたら、どれほどこっちが感動するんだろうか。

 読者が待ってる物語を書く。

 想像しただけで、もう、なんだか、いてもたってもいられなくなってきた。

 妄想の物語の中では、僕はイケメンで、彼女と夢のような恋をするんだ。

 どんなセリフを言うんだろう。

『俺に惚れるなよ。火傷するぜ』

 いやいやいや。

 何言ってんだよ。

 さすがにそれはないだろ。

「ちょっと」

 ――ん?

 だいぶ調子に乗りすぎていたらしい。

「なによ、もう妄想してるの?」と、彼女が眉を寄せて僕をにらんでいた。

「あ、いや、ごめん」

「順番って大事でしょ。まずはちゃんと返事を聞かせてくれないと。つきあうの? 小説書くんでしょ」

 選択肢なんてない。

「はい、すみません」と、僕は彼女と正面から向き合って頭を下げた。「よろしくお願いします」

「じゃ、約束ね」と、彼女が右手の小指を立てた。

 指切りってやつだ。

 いざとなると、なんだか照れくさいし、女子の手に触れるなんて、地獄に落ちるんじゃないだろうか。

 非モテボッチ陰キャ男子の妄想は極端に揺れ動きがちだ。

「ほら」と、彼女が僕の鼻の穴に突っ込みそうなほど小指を突き出す。「約束する時は指切りをするんでしょ。この恋はもう始まってるの」

 覚悟を決めろ、勇者ヨシヒコよ。

「分かったよ。やりますよ」

 僕は恐る恐る彼女の小指に自分の指を絡めた。

「じゃあ、別れる時は針千本をおまけして針一本でいいよ」と、彼女が手を揺らす。

 通販でも見かけないほどのディスカウントだ。

「でも、よく考えたら、一本だって痛いよね」

「うん、だけど、千本買ってくるのももったいないし」

 どうやらその程度のカレシらしい。

 じゃあ、僕は代わりに棘のついた薔薇を千本贈ろうかな。

 ――なんてね。

 指切りを終えて彼女が微笑む。

「じゃあ、さっそく、小説向きのクサいセリフ言ってみてよ」

 え、あ……。

 今心の中で思っていた妄想を見透かされたみたいで鼻血が噴き出しそうなほど頭に血が上る。

「そんな無茶だよ」

「いいから。ここで決め台詞をどうぞ」と、手を差し出す。

「だから、いきなり無理だってば」

「ほらほら、よく考えて」と、いたずらっ子のような目でたたみかけてくる。

 いや、あの、急にそんなこと言われたって、頭の中が猛吹雪で遭難しそうなんですけど。

 さっきの『俺に惚れるなよ。火傷するぜ』とか、『千本の薔薇』とか、言葉は浮かぶんだけど、顎が震えて声にならない。

 言えないよ。

 そんな恥ずかしいセリフ言えるわけないって。

 彼女は鞄からノートを取り出すと、筒のように丸めてポンポンと僕の肩をたたいた。

「あー、キミね、全然ダメだね」

 鬼の演出家かよ。

 ベレー帽でもかぶせてやりたい。

「それ、昭和の漫画家だから」

 ――なんで分かる?

「犬上くんはね、すぐ顔に出るのよ」

 だからって、そこまで分かるものかな。

「君の考えてることなんかお見通しだよ」

 彼女は両手の親指と人差し指を直角にして四角い枠を構えると、そこから向きを変えて図書館の窓に広がる青空をのぞきこんだ。

「うーん、なんかいい構図ないかな」

 それ、画家がやるやつだろ。

 小説関係ないじゃん。

「芸術家っぽいポーズでしょ」

 ――だから、なんで分かる?

 もう何が何だか分からない。

「ねえ」と、彼女がいきなり振り向く。「恋って、最高の芸術だよね」

 それは君とだから……だろ。

 あの時、そう言えなかったことを、僕は後悔することになる。