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 僕は小説を書くつもりなんてなかった。

 本や漫画を読んだり、アニメや映画を見るのが好きで、自分でも空想する癖があったから、そんな単なる思いつきをノートの端にメモしていただけで、ようするに、ザビエルやペリーの顔に落書きするのと同じようなちょっとした遊びにすぎなかったのだ。

 小説どころか、そもそも小学校の頃は遠足の思い出を作文に書くのが一番苦手だったし、中学の時は読書感想文が嫌いだった。

 ほとんどあらすじを書き写して――しかも、読まずに文庫本のカバーとか解説のところに書かれているのを書き写していたし――最後に一言、『主人公のように頑張ろうと思いました』なんて心にもないことを書き足し、原稿用紙のマス目をなんとか埋めて提出していたくらいだ。

 高校には同好会があって漫画を描いている生徒がいることは知っている。

 いわゆるオタクだけど、流行のアニメキャラを使った漫画――薄いとか謙遜してるけど本まで作っているらしい――を描いて、一軍女子からもキャーキャー喜ばれているやつもいる。

 ただ、そういう連中は元々絵がうまいのだ。

 だから、自分が思いついたアイディアを漫画の形に仕上げることができるんだろう。

 僕はまったく絵が描けないし、それどころか文章力だってない。

 だから、小説を書くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに、メモ書きを見られてしまったのは誤算だった。

「ねえ、小説書いてるの?」

「いや、ち、違うんだ」

 それは別のクラスの女子だった。

 彼女は小柄で、前髪も、後ろもまっすぐに切りそろえたボブヘアだ。

 座敷童になりそうな髪型だけど、窓の光に一本一本がウィンドチャイムの音が聞こえてきそうなほどきらめいて、細身の彼女にはとても似合っていた。

 廊下ですれ違ったことがあるだけで、名前も知らないし、もちろん話したこともない。

 ただ、よくうちのクラスの男子連中が、『俺らの学年にすげえかわいい女子いるよな』と、噂しているのは知っていた。

 普通だったら、僕みたいな非モテボッチ陰キャ男子とは絶対に接点などない並行世界の女子だったのだ。

「ふんふん、『下駄箱に入っていたラブレターで呼び出されて体育館裏へ行ったらクラスで一番人気のある女子が来て衝撃の展開』か。へえ、それで、この先どうなるの?」

 いや、それ、ただの思春期男子の願望なんですけど。

 こんな都合のいい話、本気で小説にするやつなんているわけないじゃん。

 よっぽどおめでたい妄想男子だよ。

 こんなのコンテストに応募したら、一次選考すら通らないで落ちるに決まってる。

 彼女は机に手をついて僕の顔をのぞき込む。

「この下駄箱のラブレターの相手って、誰なの?」

「いや、モデルなんていないから」

「ホントに?」と、彼女が僕の顔をのぞき込む。

 そう言ったつもりだけど、声が詰まってしまう。

「でもほら、登場人物の様子とか、ちゃんと書いておかないと読者に伝わらないじゃん」

 貴重なご意見ありがとうございますなんだけど、そんなこと言われても困る。

 だから、そもそも僕は小説なんて書くつもりないんだってば。

 荷物をまとめて、いや、捨ててでもいいから逃げ出したい。

「じゃあさ、私を参考にしたらいいんじゃない?」

 はあ?

「ねえ、ほら、私ってどんな感じ?」と、彼女が顔を寄せてくる。

 そ、そんなこと言われても……。

 目がかわいくて、髪がきれいで……かわいくてきれいだ。

 女子と見つめ合うなんて無理なのに近すぎて視線の逃げ場所がないし、なんかいい匂いまでしてきて頭に血が上って、元々ない語彙力が辞書をゴリラに引きちぎられたみたいに吹き飛んでいく。

 だめだ、頭が真っ白だ。

 ――逃げなきゃ。

「だ、だから、そういうんじゃないから」

 苦し紛れのセリフを絞り出し、僕は彼女から奪い返したノートを閉じた。

「本当は誰かをモデルにしてたんじゃないの?」

「違うってば」と、思わず声が荒くなっておさえた。「ただの空想なんだよ。小説とかドラマの最後に、『この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係がありません』って出てくるだろ」

「あんなの、お薬のパッケージに『用法用量を守って正しくお使いください』って書いてあるのと同じでしょ。常識的に分からない人なんていないんじゃない?」

「いや、区別できてないのは君なんだけど」

「あ、そうだったっけ。あはは。じゃあ、書いておかないとね」

 無邪気に笑う彼女に、僕も思わず吹き出してしまった。

 ジェットコースターみたいに振り回されて目が回りそうだ。

 と、少し離れた席から咳払いが聞こえた。

 焦って声が大きくなりすぎていたらしい。

 パーティションに隠れた先輩たちの視線がはっきりと分かる。

「ここじゃないところで話そうよ」と、彼女が耳元でささやく。

 だから、なんで話す前提なの?

 最初から真空だったみたいに、彼女は空気なんか読まない。

 ぐいぐいと迫る彼女の圧に窒息しそうで僕は自習室から逃げ出した。

 なのに、森の熊さんみたいに彼女が後からついてくる。

 ただ、どうも歩く姿が変だった。

 小柄で華奢なのに、太った人みたいに体を揺するような歩き方だ。

 左右で違う靴を履いてきてしまった人みたいにも見える。

 それでも彼女は一生懸命僕を追いかけてくる。

 図書館と校舎をつなぐ渡り廊下まで来たところで、僕は根負けして立ち止まった。

 逃げた僕の態度を責めることなく彼女がわびる。

「ごめんね、図書館に居づらくさせちゃって」

 後ろめたさに、さすがの僕も胸が痛む。

「いや、べつに、気にしなくていいよ。こちらこそ、先に出てきちゃってごめん」

『逃げた』という言い方を避けた僕は卑怯者だけど、それでも精一杯だった。

 そこからは二人並んで昇降口へ向かって歩いた。

 女子と二人で話しながら歩くなんて初めてのことだったから、つながれてるわけでもないのに、二人三脚の練習をしてるみたいにぎこちなかった。

 と、段差もないのに、彼女がつまずいて前によろけた。

 ――危ない。

 僕はとっさに手を伸ばして、彼女の肩を支えようとした。

 踏みとどまったから触れ合うことはなかったけど、急に距離が縮まって全身の血が沸騰する。

 なんだかラブコメのお約束みたいな展開に彼女がクスリと笑う。

「優しいんだね」

 ――そんなことないよ。

 僕は人との間に壁を作って生きてきたんだから。

 昇降口まで来たところで、彼女が下駄箱を指さした。

「犬上くんは一組でしょ。私三組だから、靴履き替えたら待っててね」

 ――え?

「なんで僕の名前知ってるの?」

 僕らの高校には名札がないし、ジャージやスポーツバッグなどにも名前の刺繍は入っていない。

 ま、まさか、僕のこと……前から気になってたとか?

 おいおい、これこそ思春期男子の妄想みたいな話じゃないかよ。

 そんな夢みたいな話あるわけないだろ。

 だって、イケメンでも、スポーツマンでも、陽キャでも、お笑い系でもなんでもないただのモブ系地味男子なんだぞ。

 もしかして、超能力か何かか?

 ――それとも。

 運命で最初から決まっていたとか?

「だって、ここに名前書いてあるじゃん」と、僕が図書館からずっと手にしていたノートを指さす。

 あ、ああ、なんだ……。

 ノートの裏にクラスと名前が書いてあるのを見ただけだったのか。

 だよな、と脱力してしまった。

 どうも、小説の話なんかしてるから、なんでもラブコメ的展開と結びつけてしまうんだろうか。

 靴を履き替えて先に外に出たところで、いったん落ち着こうと、大きく息を吸ってみた。

「ねえ、犬上くんってさ、もしかして猫好き?」

 ――え、あ?

 変なタイミングで話しかけられてむせてしまった。

 ころころ話が変わってついていくのが大変だ。

「いや、べつに、なんで?」

「犬って感じじゃないから」

 なんだそりゃ。

 まあ、べつに顔が犬っぽいとかもないけどね。

「ていうかさ、名前のせいでみんなから犬の話ばかりされてうんざりしてるかなって思ったから」

 お心づかいはありがたいけど、そんなに話しかけられること自体ないのが情けない。

 ――君に話しかけられたことが僕にとっては奇跡なんだからね。

「どっちかって言うと、犬よりハシビロコウに似てるかも」

 何それ?

「じっとしてて動かない鳥だよ。知らない?」

 僕はスマホを取り出して、その場で検索してみた。

「そんなに似てる?」

「うん」

 僕らはしばらくの間ハシビロコウのように無言で画面を見つめていた。

 穴の開いた風船みたいにまるで話が膨らまない。

 気まずさを抱えたまま、どちらからともなく校門へ向かって歩き出す。

「ま、べつに私だってお城に住んでるわけじゃないからね」

 どういうこと?

「私、城之内茉里乃って言うの」

 思いがけず自己紹介してもらって、彼女の名前を知ることになった。

「なんだったらシンデレラって呼んでくれてもいいけど」

「お城に住んでるわけじゃないのに?」

 彼女はウフフと口元を押さえながら笑った。

「いい返しだね」

 そうかな。

 運動部のかけ声やら遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏を背中に校門を出ると、黄色く色づいた銀杏並木の歩道を歩く。

 女子と下校するなんて生まれて初めてで、緊張で膝が震えるし、誰かに見られてないかとか余計なことばかり気になってしまう。

「私ね、前から犬上くんのこと気になっててさ」

 彼女の言葉が外国語のように聞こえた。

「名前を知ったのはさっきだけど、犬上くんっていつも図書館にいたでしょ。受験生でもないのに、一年生のうちからあそこにいるのって目立つじゃない」

 ボッチだからとは言わないでおいた。

 少し余裕が出てきたせいか、『前から気になっててさ』という言葉がようやくはっきりとした形になって、ついニヤけてしまう。

 さっき思ってた妄想が現実だったなんて、逆にびっくりだった。

 これって、夢パートじゃないよね。

 ほっぺたをつねりたくなるのを我慢して僕は鼻に浮いた汗を指でぬぐった。

「勉強してる姿を見て、なんとなく、私と同類なんじゃないかって思ってたんだ」

 共通点なんてないでしょ。

 接点だってなかったはずなのに。

「たとえば?」

「スポーツ苦手でしょ」

 ああ、否定的な面か。

「そうだね。音痴だし、絵も下手だね」

「私も運動できなくて、できることが勉強だけだったのよ。だからこの学校に来たの」

 勉強しかできないなんていうと嫌味みたいに受け取られがちだけど、僕みたいなガリ勉男子からすれば、たとえばサッカーが得意だっていう人は爽やか青年みたいに見られるのって、そっちの方がずるいと思うんだよね。

 そういう理屈なら、たしかに僕と彼女は同類なのかも知れなかった。

「でもさ、犬上くんだって、一つくらいなら得意なスポーツあるんじゃない?」

「たしかに、一位とか代表選手に選ばれるってレベルじゃないけど、人並みよりかはできるのは二つあるね」

「すごいじゃん、二つもあるなんて。私なんか一つもないもん」

 いやいや、そんなたいした内容じゃないから。

「デデン!」と、彼女はいきなり立ち止まって人差し指を立てた。「では、ここで、犬上義彦クイズ!」

 はあ?

 何それ?

「犬上くんの得意なスポーツは何でしょうか」

「え、僕が自分で答えるの?」

 彼女はきょとんとした表情で首をかしげた。

「私が答えるんだよ」

 ――え、あ、ん?

 自分で出題して自分で回答。

 セルフサービス式のクイズなんて聞いたことないよ。

 しかも、正解を知ってるのは僕って、どういうシステムなんだろ。

 再び歩きながら彼女がいきなり手を差し出した。

「じゃあ、ヒントください」

「ヒントって、どんな?」

「ねえ、それは球技ですか?」

「違います。球技は全部苦手だね。ボール投げたら後ろに飛んでいくし、サッカーなんか、いつも空振りで、『犬上、スルーばっかしてんなよ』とか怒られてたから、僕の存在をスルーしてくれればいいのにっていつも思ってた」

「球技じゃないってことは、なんだろ。鉄棒とかも苦手そうだし……」

 華麗に僕の話をスルーして考え込んでいる。

 スルーしてくれればいいのにって、そりゃあ言ったけどさ。

 少しは相手にしてください。

「あ、分かった。マラソンでしょ」

「正解。持久走だね」

「やっぱり道具を使わないから?」

「うん。あと、瞬発力はないんだけど、長距離走なら、持久力勝負でしょ。苦しくても我慢して走ればゴールできるじゃん」

「苦しくても我慢する人のこと、なんて言うんだっけ?」

「マゾとかMとかっていうやつ?」

 まじめに答えたものの、女子とそういう話をするのは照れくさくて、顔が熱くなる。

 なのに、彼女は全然気にしていないようだった。

「うん、そうそう。犬上くんはマゾなんだね」

 いや、あの、勝手に決めつけないでよ。

 べつに、そんな性癖ないんだけどな。

 痛いの嫌いだし。

「うーん。で、あと一つは何だろ」

 また僕をスルーして答えを考えている。

 でも、こんなに真剣に僕のことを考えてくれる人は初めてだ。

「全然思いつかないよ。くやしい」

 と、大通りの終点にあるロータリーまで来てしまった。

 僕らの高校の最寄り駅は向かい合って二つある。

「犬上くんって、あっち?」と、私鉄の駅を指す。

「うん。城之内さんはJR?」

 残念そうに彼女がうなずく。

「時間切れかあ。じゃあ、今日はここまでだね」

「さっきの答えだけど……」

「ダメ!」と、彼女が手のひらを僕に突き出す。「明日までに考えてくるから、言わないで」

 意外と頑固な面もあるらしい。

「ああ、もう、答えが気になってしょうがないけど、頑張って考えるからね。また放課後、図書館で会おうね」

 バイバイと手を振って彼女は去っていった。

 一人残された僕は歩道に散らばる落ち葉に向かってため息をついた。

 僕も気になってしょうがないよ。

 ――君のことが。