2X86年2月14日。


 あれも確か、せっかちな春の陽気が僕の肌を撫でた、バレンタインデーのことだった。

「なんだろ、これ?」

 家のポストに、差出人不明の茶封筒が入っていた。

 宛名は僕、山口朋文(ともふみ)
 
 何の気はなしに封を開け、中に入っていた三つ折りの紙を開いて……僕は急いで閉じた。


 ――余命通知書。


 噂には聞いたことがあった。なんてことはない都市伝説で、僕が趣味で書く小説の資料のひとつで、ありもしないフィクションのはずだった。

 ある日突然、差出人不明の手紙が自分のもとへ届く。
 中にはたった一枚の白い紙きれが入っており、そこには単調な文字で簡潔に書かれているのだ。
 自分の名前と、死因。そして、間近にまで迫った、死に至る年月日が――。

「これ、いたずら……だよな?」

 確認する方法はふたつ。
 ひとつ目は、当日まで普段通りに過ごして、実際に死を目の当たりにすること。
 ふたつ目は、この余命通知書は本人しか見ることができないらしく、他の人に見せてみること。
 ひとつ目は確認すると同時に既に手遅れになるので、必然的にふたつ目の方法しかない。だから僕は、ちょうどゴミ出しに出てきた母に訊いた。

「ねえ母さん、これ見えるよね?」

「はぁ? これって、どれ?」

 訝しげに僕を見る目は、冗談を言っているふうではなかった。本気で呆れていて、ため息交じりに首を振っている様子は、本当に見えていないようだった。

「ほら、意味不明なこと言ってないで、早く学校行かないと」

「ああ……って、ちょっ!」

 狭い玄関ですれ違った拍子に、母が持ったゴミ袋に手が当たって封筒と紙が地面へ落ちた。
 はらりと、三つ折りにされた紙が開く。


 余命通知書

 下記の通り、余命を通知する。
 
 氏名:海野 朋香
 
 死因:病死

 死亡年月日:2X――


 ――僕は、慌てて紙を拾い上げた。


「……っ! うそ、だろ……!」

 
 海野(うみの)朋香(ともか)

 余命通知書に書かれていたのは、僕の幼馴染で、大好きな人の、名前だった。


 *


 僕はそのまま、ふらつく足を叱咤しながらなんとか学校まで辿り着いた。
 ショックが大きく、正直学校どころじゃなかった。けれど、休むわけにはいかなかった。

 朋香に、会わないと……。

 どうしても確認しなければならなかった。
 明るくて天真爛漫。元気をそのまま人間に埋め込んだかのような彼女が病気で死ぬなんて、信じられなかった。
 これはきっと何かの間違いで、誰かのいたずらのはず。
 母さんの反応も、勘違いをしていたとか、ゴミ出しの時間が迫っていて適当に答えたとか、たちの悪いノリ方をしているとか、たまたまあの時見えなかったとか、そんなところのはず。
 教室に入れば朋香が太陽みたいな笑顔を振り撒いて、大きく手を振りながら「トモ~おはよーっ! はい、これ! 毎年恒例の幼馴染チョコだよー!」なんて叫んでくるはず。
 だからこれは、きっと――。

「――えー。海野さんですが、少々体調を崩したらしく、しばらく入院されるとのことです。ですので……」

 僕の希望は、朝のホームルームであっけなく打ち砕かれた。
 母さんは普通に反応しただけ。
 朝教室に入った時に朋香がいなかったのは遅刻じゃなくて。
 僕のところに届いたこの紙切れは、紛れもなく……。

「……っ、先生!」

「はい? 山口くん、なんでしょうか?」

「すみませんが、体調がすぐれないので今日は早退します」

「え?」

「本当にすみません」

 驚いて呼び止める先生の声を無視して、僕は鞄を引っ掴み教室から駆け出した。

 うそだ、うそだ……!

 くしゃりと、右手で握り締めた紙切れが音を立てた。


 **


 目の前にそびえ立つ圧迫感に、押し潰されそうになる。
 去年、祖父のお見舞いに来た時はそんな感覚はなかったのに、意味がわからない。
 僕はポケットから、メモ用紙を取り出した。

 尼野戸中央病院、C病棟、5階、502号室

 字を習っていたとは思えないほど汚く、殴り書いた文字。
 先ほど朋香の母親に電話して聞いた、朋香が入院している病室だ。

「ふぅ……」

 深呼吸をして、僕は小綺麗な自動ドアをくぐった。
 そのまま受付で手続きをし、案内されたエレベーターに乗って、5階を目指す。
 1分としないうちにエレベーターは目的の階につき、そのまま僕は彼女の病室のドアを軽くたたいた。

「はーい! どうぞー!」

 病院には似合わない、朗らかな声が響いた。僕はその声に誘われるように病室の中に入る。

「……朋香」

 彼女は、驚くほどいつも通りだった。
 病衣を着ている以外は、昨日となんら変わらない。
 黒く透き通るような大きな瞳も、血色の良い頬も、緑の黒髪も、何もかもが、僕の知っている海野朋香だった。

「あれあれ? トモさー、学校はどうしたの?」

 くすりと、柔らかな微笑みが彼女の口元から零れる。思わず、ドキリとした。

「……早退、してきた」

「早退って、アハハ! 物は言いようだけど、つまりはサボってきたんでしょ~?」

「まあ、そうともいう」

「そうとしか言わないでしょ! また小説でも書いてて夜更かししたとか? あ、それとも〜、もしかして~、毎年恒例の幼馴染チョコが欲しかったのかな~?」

「ちがうよ。というか、幼馴染チョコとは名ばかりのロシアンルーレットチョコじゃないか。当たりはひとつだけだし」

「アハハッ! それがいいんでしょ~!」

 リノリウムの臭いが鼻につく病室で、彼女には似合わない真っ白なシーツの上で、朋香はあけすけに笑った。
 安心した。
 元気そうだった。
 いつもの朋香がそこにいて、僕はホッと胸をなでおろした。

「海野さん、検査の時間ですよ」

「あっ、はーい!」

「あれ、そうなのか。じゃあ今来たばかりだけど、僕はこれで……」

 安心したところで、ちょうど看護師さんが病室に入ってきた。学校をサボ……じゃなくて、早退してきた身でもあるので、今日は大人しく家で勉強しようと踵を返す。

「待って」

「え?」

 そこへ、唐突に朋香が僕の制服の袖を掴んできた。ガタン、と近くにあった椅子が倒れる。

「あ、えと、あのね……。トモが帰る前にその、これだけは伝えておきたくて」

 それまで向日葵みたく快活に笑っていた朋香が、なぜか俯いていた。困ったように眉をひそめ、目を右往左往させている。

「どう、したの……?」

「えとね。実は私……」

 落ち着きかけていた胸騒ぎが再燃を始める。
 外れてくれ、と願う。けれど――

「――結構大きめな、病気なんだ。きっともう、長くないの」

 外れて欲しかった予想通りの言葉を、彼女は口にした。

「その、今を逃すと、もう言えないような気がして」

 これは何かの間違いで。

「だからその……いきなり、ごめんね」
 
 ただの悪い夢で。

「じゃあ私、行くから」

 彼女が、幼馴染が、ずっと昔から好きで、未だに気持ちを伝えられていない好きな人が、余命を宣告されるほどの病気なはずがなくて……。

「トモ、来てくれてありがとうね。またね!」

 困ったような笑みを残して、僕よりも先に、朋香は看護師さんと病室を出ていった。
 僕はまだ、動けないでいた。

「うそ……だよな……」

 結局、面会時間の終了時刻になっても、朋香は戻ってこなかった。


 *


 夢を見ていた。
 今よりもずっと幼い、小学生の頃の夢だった。

「きゃははっ! ほーら、トモ〜! こっちーだよーっ!」

「ま、待ってー!」

 小学校低学年にとっては大草原にも等しい公園の広場で、僕は必死に朋香を追いかけていた。逃げる智香は本当に楽しそうで、高らかに笑い声をあげている。
 いつもからかわれてばかりだったけど、気弱な僕を元気づけてくれる彼女の笑顔が好きだった。

 また、ある時は。

「……」

「……」

「……あ〜〜っ! もうっ! じーっとして字書くのむりーーっ!」

「こら! 海野さん! 心を落ち着けなさい!」

 広々とした和室で、勢いよく立ち上がる朋香と、初老のおばさんの怒り声が響く。
 僕たちの親は仲が良く、示し合わせたかのように二人とも習わされていた習字。僕は結構好きだったけど、朋香はいつも暴れていた。

「心が遊びたい時は落ち着いた字なんて書けませーん!」

「屁理屈言わないの!」

「へへーん!」

 習字の先生には散々怒られていたけれど、僕は彼女の書く大胆な文字が好きだった。


「トモ〜! 一緒に帰ろー!」

 中学生になっても。

「トモー! 次の日曜に買い物行こうよ!」

 高校生になっても。

 ――もしかして~、毎年恒例の幼馴染チョコが欲しかったのかな~?

 病気になって、入院しても……。
 彼女は変わらず、そばにいてくれて、僕のことを考えてくれていた。

 ――実は私……結構大きめな、病気なんだ。きっともう、長くないの。

 困ったように笑って、病気のことを伝えてくれた。
 僕だったら、きっと言えない。
 入院した当日に、ずっと近くにいた幼馴染に、もう長くないなんて……。

 ――トモ、来てくれてありがとうね。またね!

 心配をかけないように笑って、「またね」なんて……。


「……っ」

 目が覚めた。
 朝の4時だった。
 病院から帰ってきて、そのまま夕ご飯も食べずにベッドに潜り込んだんだっけか。

「……っ、は、くっ……ううっ……」

 目頭が熱くなったのは、いつ以来だろう。
 視界がぼやけたのは、何年ぶりだろう。

 僕は、朋香のことが好きだった。
 昔からずっと好きで、今も好きで、これからも好きでいる自信があった。

 けれど、積もりに積もったこの気持ちを伝える自信は、なかった。
 幼馴染という関係を壊したくなかったから。
 なんてありがちで、女々しいんだろう。
 ただそれでも、心の底からの本音だった。
 今、朋香とくだらないやり取りをして、遠慮なしに笑い合えるこの関係が心地良かった。楽しくて楽しくて仕方なかった。
 もし「好き」という気持ちを伝えてしまったら、結果がどう転んでも今のままではいられなくなる。
 断られれば、きっと疎遠になってしまう。
 受け入れられれば、幸せかもしれないけれど、この心地良い関係が続くのかはわからなくなる。もしかしたら、ギクシャクしてしまうことだってありうる。
 それなら、不満のない今のままでいい。
 今のまま、ずっと、このまま……。

「……っ、はぁ……。僕、は……」

 でも、それは叶わなくなった。
 朋香に恋人ができたわけでも、進路の分かれ道が現れたわけでもなかった。
 先の長くない病気という、最も予想外の理由だった。

「僕は、僕は……」

 暗闇に満ちる静寂のなかで、僕は決めた。
 我ながら、なんて自分勝手なんだろうと思う。自己満足に過ぎない、情けない決断だ。
 だけど、やっぱり僕は、このまま朋香とお別れするわけにはいかない。

「朋香に……伝えないと」

 どうやら今日も、学校をサボることになりそうだった。


 *


「あれー? トモ、今日学校は?」

「休み」

「え、今日平日だよ? 休みじゃないでしょ」

「まぁ、サボったともいう」

「ぷっ、あはははっ! 真面目な顔してなに言ってるのー! そうとしか言わないってば!」

 昨日あんな雰囲気で別れたのに、朋香はいつも通りの笑顔で迎えてくれた。
 本当に、朋香は強い。

「いいんだよ。どうせこの時期は期末テストに向けた復習ばかりだし」

「おーおーさすが。毎回学年1桁キープの猛者殿は言うことが違いますなぁ」

「うるさいな。からかうなよ」

 いつもの調子で言い合いながら、僕は壁際の椅子に腰掛ける。
 どう、切り出したらいいだろうか。
 病院食が美味しくないと愚痴り出す朋香に相槌を打ちつつ考える。テストと違って、これには答えがない。空欄をただ埋める期末テストなんかより、よっぽど難しい。

「あーあ。薄味の煮物よりポテチが食べたいなぁ。あ、ポッキーでもいいな。ねねっ、下のコンビニで買ってきてくれない?」

「え、いいのか? 食べても」

「うん! もちろん良くないよ〜!」

「なら……って、おい! 危うく頷きかけただろ!」

「ちぇー」

 本当に、なんて伝えたらいいんだろう。
 いつもみたいに、くだらない話ならできるのに。

「あーあ! トモがポッキーの話するから本当に食べたくなったじゃん!」

「いや、ポッキーの話を始めたのは朋香だろ」

「同じ『朋』の字がつくから同罪です〜。というわけで、ほら! 責任とってコンビニへゴー!」

「はぁ?」

 まるで意味不明な理論でゴリ押してくる朋香。呆れた視線を向けても、満面の笑みで返される。

 まあ、ちょっと頭を冷やすか。

 なんだかんだで好きな人の頼みには逆らえず、僕はおもむろに病室を後にした。
 病院の1階にあるコンビニに行くと、不幸か幸いかポッキーが売り切れており、僕は道路を挟んだ向かい側にあるコンビニに行く羽目になった。

「ふぅー……どうしたらいいんだろ」

 僕の足を止める赤信号。変わってほしいようで、変わってほしくない。そんな曖昧でもどかしい感情が、心に渦巻いている。
 なんて言えばいいんだろうか。
 どんな言葉なら、この気持ちを伝えられるんだろうか。
 そもそも、口にしていいんだろうか。
 口にしたところで、想いを伝えたところで、ただ悲しいだけなんじゃないのか。
 というか、伝えてどうするんだろうか。朋香を、困らせるだけなんじゃないのか。
 それならいっそのこと、心の奥底にしまったほうが、いいんじゃないのか。
 いろんな感情が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。そのどれもに、答えは出ていない。
 けれど。ひとつだけ確かなことがあった。
 僕は、朋香がその最期を迎えるときまで、ずっとそばにいたい。
 それだけは、幼馴染としても、友達としても、好きな人としても、唯一変わらない想いだ。

「……よし」

 コンビニの棚の前。目当てのポッキーを手にして、僕は心を決める。
 戻ったら、朋香に言おう。
 僕の気持ちを、想いを。
 ロマンも、シチュエーションもあったものじゃないけど。
 朋香の言葉を借りるなら、「今を逃すと、もう言えないような気がする」から。

「……あれ?」

 けれど。
 病室に戻ると、朋香はベッドにいなかった。
 代わりに目に入ったのは、ベッドテーブルに置かれた一冊のノートだった。
 何気なくパラパラとめくって、僕は目を見張った。

『1月7日。検査結果が出た。原因不明の体調不良は、どうやら病気らしい。しかも、治療法は確立されていなくて、余命も宣告された。あと1年だってさ。呆れる。笑える』

 朋香の、日記だった。


 *


『1月8日。余命1年とか言われても、どうしたらいいかわかんない。だから、とりあえず日記をつけることにした。って言っても、なにも書くことないんだけど』

『1月10日。危うく二日坊主になるところだった。こんなんじゃ、トモに笑われちゃうな』

『1月11日。入院の日にちが決まった。よりにもよって、バレンタインデーの日らしい。チョコレート、どうしようかなー』


 そこには、朋香らしくない綺麗な整った文字で、余命宣告をされてからの朋香の日々が綴られていた。
 学校での出来事。
 なんてことない友達との会話。
 最近見たドラマの感想。
 病気のこと。
 心に溜め込んだ、気持ち……。


『1月30日。普通に学校に通えるのも、あと2週間程度らしい。とりあえず、先生には体調不良で入院ってことにしといてって言った。戸惑っていたみたいだけど、まあこれでいいのかなとは思う。1年もあるんだし、その間にどうするか考えよう』

『2月2日。体調悪い。しんどい。もう、なんで私が病気にならなくちゃいけないんだろう。意味わかんない』

『2月5日。ちょっと泣いた。お母さんとお父さんに心配された。二人ともごめん。親不孝な子どもでごめん』


 悪いとは思いつつも、僕はページをめくって読み進めていった。
 僕の前ではあんなに笑っていたけれど、朋香は日記の中で泣いていた。
 僕も悲しくて、泣きそうになった。
 それと同時に、心底自分に腹が立った。
 日記によれば、朋香は1月の初めに体調不良が続いて病院に行っていた。僕はそのことに、何ひとつ気づかなかった。あんなにそばにいたのに、気づかなかった。幼馴染失格だと、思った。


『明日から入院だ。チョコは作ったけど、今年はお父さんにしか渡さないと思う。というか、渡せないんだけどね。それに――』


「……っ、これ……」

 滲む視界をこすりながらページをめくっていると、ある日の日記に目が留まった。
 日付は、2月13日。昨日。入院する日の、前日。


『――好きな人もいないし、トモにあげる幼馴染チョコもそろそろやめようかなって思ってたし、ちょうどいいや』


 不覚にも、僕の気持ちに対する返事が、書かれていた。

「……そっ、か……」

 見なければよかったと思った。
 見てよかったとも思った。
 朋香に直接言う前に答えを知れて――。

「――トモ」

 後ろから声が聞こえた。
 振り向くと、点滴スタンドに掴まった朋香が立っていた。

「それ、見ちゃったの?」

 また、困ったような笑顔を浮かべている。
 僕は思わず、頭を下げた。

「……うん。ごめん」

「ううん、べつにいいよ。トモなら。幼馴染だし。まぁ、ちょこっとだけ恥ずかしいけど」

「そっ、か……」

 今度は、なんでもないふうに笑った。心がキュッと締まる。

「あ、一応言っておくけど、幼馴染チョコをやめるのはトモのことが嫌いになったとかじゃないからね! 幼馴染として、友達として、私はトモのこと好きだから!」

「うん、知ってる」

 知っていた。
 でも、その先がもしかしたらあるのかもって、期待してた。

「良かった〜! もし変なふうにとられてトモに嫌われちゃったらどうしようかと!」

「大丈夫。そんなことで嫌わないって。何年一緒にいると思ってるの」

 嫌うはずない。
 でも、傷つきはした。主に、僕自身のせいで。僕自身の、身勝手な気持ちのせいで。

「ありがとう〜! あ、ポッキー買ってきてくれたの? 一緒に食べよー!」

 だからこの気持ちは、心の奥底にしまいこんで、いつも通りに僕は笑っ――


「――……っ、朋香! 好きだ!」


 言葉が、勝手に口から飛び出していた。


 *


 病室には、気まずい沈黙が流れていた。せっかく、朋香が元に戻しかけてくれていたのに。

「……えっと、ごめん。よく聞こえなかった。もう一度、いい?」

「朋香、好きだ」

 でも。僕は戻せなかった。戻したくなかった。
 一度口から出た想いは、止まってくれなかった。

「朋香。僕も、朋香のことが幼馴染として、友達として、好きだ。でももっと、もっと好きなんだ。ずっと昔から、朋香のことが、女の子として好きなんだ」

 顔が熱い。火が吹くようにという言葉があるけれど、嘘偽りなくその通りに、熱い。

「朋香の笑顔が好きで、一緒にいて心地良くて、楽しくて、もっと一緒にいたいって思うんだ」

 手汗も、意味不明なくらい滲んでいた。

「朋香のそばにいたい。たとえ余命宣告されたんだとしても、最期まで一緒にいたい。悲しくても、辛くても、ずっとそばにいたいんだ」

 朋香は無言だった。
 口を閉ざしたまま、真剣な眼差しで僕の言葉を聞いてくれていた。

「だから、その……僕と、恋人になってくれないか?」

 だから僕も、最後まで想いを伝えた。
 朋香が僕のことを異性として見ていなくてもいい。
 幼馴染のままで、友達のままでもいい。
 困らせるかもしれないけれど、伝えたかった。
 いなくなる前に、消えてしまう前に、どうしても伝えたかった。
 僕の人生にとって朋香は大切な人で、大好きな人で、かけがえのない人なんだって――。


「……トモ。ありがとう。すっごく嬉しい」


 しばらくの沈黙のあと、朋香は笑顔を浮かべた。


「でも、私はトモの気持ちに応えられない。トモはやっぱり、私にとっては一番大切な『幼馴染』だから」


 それは、何度も目にした、困った笑顔だった。


「トモは、とっても素敵な幼馴染だよ。私だって、近くでトモの幸せを見ていたかった。だけど、私はきっともうすぐ死んじゃう。最後まで頑張るつもりだけど、きっとトモよりは早く死んじゃう。悲しいけど、仕方ないの。だから、トモが私の分まで長生きして、そして幸せになって」


 僕をなるべく傷つけないよう、優しい言葉までかけてくれた。


「だから……ごめんね」


 そして。予想していた言葉を、朋香はゆっくりと口にした。


「…………ううん。こちらこそ」


 僕はどうにか、それだけを返した。

 心は、意外なほどすっきりしていた。


 **


「……」

 群青色に染まった窓の外を眺めながら、私は先ほどの言葉を思い出していた。

 ――朋香! 好きだ!

 びっくりした。本当にびっくりした。
 まさか、告白されるなんて思ってもいなかったから。

 ――もっと、もっと好きなんだ。ずっと昔から、朋香のことが、女の子として好きなんだ。

 嬉しかった。本当に嬉しかった。
 余命を宣告されてから辛くて泣いてばかりだったけど、今日はとっても心が温かい。

 ――朋香の笑顔が好きで、一緒にいて心地良くて、楽しくて、もっと一緒にいたいって思うんだ。

 感動した。本当に感動した。
 トモが私を大切にしてくれているのは知っていたけど、言葉にして伝えてくれるなんて。感動のあまり、泣きそうになった。

 ――朋香のそばにいたい。たとえ余命宣告されたんだとしても、最期まで一緒にいたい。悲しくても、辛くても、ずっとそばにいたいんだ。

 幸せだった。本当に幸せだった。
 20年にも満たない短い人生だったけど、こんなにも私のことを想って、考えてくれる人がいた。それだけで、私が生きた意味はあった気がした。
 
 ――だから、その……僕と、恋人になってくれないか?

 でも。
 私はトモの告白を断った。
 トモを異性としては見れない。あくまでも幼馴染。
 だから、恋人にはなれない。
 事実としてそうなのだから、仕方ない。
 映画や小説みたいに、実は私も好きでしたなんて、そうそうあることじゃない。特に、幼馴染なら尚更だ。だってだって、小さい頃からずっと一緒にいるんだよ? 兄弟みたいなものなんだよ? さすがに、いまさら異性としては見れないでしょ。申し訳ないとは思うけど、冷静に考えたら当たり前でしょ。無理でしょ。


 ――だから、その……僕と、恋人になってくれないか?


「…………っ……くっ……」


 そう。当たり前なんだ。仕方ないんだ。
 普通に考えて、冷静に考えて、そうじゃないとおかしいんだ。


「ううっ……ひっく……」


 そうだよね。これで、良かったんだよね。


「うううっ……ああっ…………」


 誰か、だれか……教えてよ…………。


「ああああぁぁっ………!」


 もう、限界だった。
 堪えていた涙が、決壊したダムのように溢れてきた。
 私は必死でシーツに顔を埋めた。
 泣き声が聞こえないように。
 誰にも知られないように。

 もともと、私はクラスメイトや友達だけでなくトモにも病気のことを伝える気はなかった。
 なんて言えばいいかわからないし、未練や後悔が残りそうだし、泣かないでいられる自信がなかったから。
 だから、家族にだけ看取られて、ひっそりと人生を終えるつもりだった。

 その気が変わったのは、昨日の朝だった。
 病院に行くために玄関を出ようとした時に、ふと郵便受けに一枚の茶封筒があるのを見つけた。中を開いて、私は驚愕した。


 余命通知書

 下記の通り、余命を通知する。
 
 氏名:山口 朋文
 
 死因:自殺

 死亡年月日:2X26年2月14日(享年20歳)


 噂程度に聞いたことがあった、死が近づくと突然送られてくるという余命通知書。
 けれど、それは病気になった私のものではなく、トモの余命通知書だった。

 意味がわからなかった。
 本物かどうか確かめようとあとから来たお母さんに見せるも、まったく見えていないようだった。ただでさえ心配そうな表情がさらに深くなっただけだった。私もただでさえ憂うつな気分がさらに沈み込んだ。

 トモの余命通知書が来たこともさることながら、一番ショックだったのはトモの死因だった。

 自殺。
 しかも、今から2年後だった。

 一番に頭をよぎったのは、私の病気だった。
 もし私が宣告された余命通りに人生を終えたのだとしたら、その約1年後。
 そして思い当たる理由としては、私が病気のことをひた隠しにしていきなり死んでしまうことだ。

 あの優しいトモのことだ。
 私が重い病気になって、余命宣告までされて、苦しんで悲しんで死んだことに責任を感じてしまうかもしれない。そんなことないのに、どうして気づかなかったんだって、どうして寄り添ってやれなかったんだって、思ってしまうかもしれない。
 しかも、少なからずトモは私のことを異性として意識してくれていると思う。言葉にはしてくれないけど、どちらかと言えば好いてくれていると思う。そしてそれが、さらにトモの罪悪感に拍車をかけてしまうかもしれない。
 それを苦にして、思い悩んで、自殺してしまうのだとしたら――。


「ううっ、ああああぁぁぁっ……………!」

 私は、なんとしても変えたかった。
 トモの絶望を、トモの未来を、トモの人生を。

 私も昔から大好きで、好きで好きで仕方がないトモには、幸せでいてほしかった。

 そのために、トモには病気のことを正直に話した。
 まさか入院した当日に、学校をサボってまで病院に来てくれるとは思ってもみなかった。
 戸惑ったけれどどうにか平静を装って、別れ際にはしっかりと伝えられた。その夜は、安心と寂しさでこっそり泣いた。

 さらに入念にするために、日記を偽造した。
 もうすぐ終わってしまう私の人生。
 付き合っても、恋人になっても、切なくて、悲しいだけだ。
 トモの気持ちには、応えるわけにはいかなかったから。トモへの未練や想いをつらつらと書いた日記は隠して、まるで興味のないふりをした日記を作った。死んだあとに、トモに見られても大丈夫なように。

 そして今日。急遽(きゅうきょ)、トモにポッキーを買いに行かせた。
 これまた予想外にも、トモは今日も学校を休んでお見舞いに来てくれた。トモの顔はいやに真剣で、大切なことを伝えに来てくれたんだと察した。どうにか我慢できたけど、本当は飛び上がるほど嬉しかった。
 そんな覚悟を決めて来てくれたトモには申し訳ないけれど、これ幸いと私は偽造した日記をトモに読んでもらうことにした。
 ポッキーを買いに行かせて、ベッドテーブルに偽造した日記を置いて、私はトイレにでも行ったフリをして、トモが日記を読んだ頃に戻って……それで、諦めてほしかった。最期のその時まで、幼馴染としていたかった。

 けれど、トモはそれでも私に気持ちを伝えてくれた。

 私も好きだよって、大好きだよって、喉まで出かかった。必死に耐えた。大変だった。
 正面から抱きつきたかった。大好きなトモの温もりを感じたかった。必死に耐えた。しんどかった。
 トモの前で大泣きしそうになった。すべてを吐き出したかった。必死に耐えた。もう死にそうだった。

 すべて耐えて、私は「トモを異性として見ていない幼馴染」を演じた。トモが帰ってからも、面会時間が過ぎて絶対にトモが戻ってこないと確信できる今まで、私は必死に必死に我慢した。

「うううっ…………ぐすっ……ひっく…………っ!」

 私は最期の瞬間まで、トモの幼馴染でいるのだ。

 大好きな人が、長生きできるように。

 かけがえのない人が、幸せでいられるように。

 絶対に、演じ切ってみせる。

 私の心を、殺してみせるんだ――。


 *


 朋香が亡くなってから、2年が過ぎた。
 僕は何度も授業をサボったけれど、なんとか無事に高校を卒業していた。
 うららかな春の陽気を感じながら、緩やかな坂を登っていく。

「朋文ー! おはよう!」

 大学の校門をくぐったあたりで、ふいに声をかけられる。振り返れば、大学のオリエンテーションから仲良くしている友達が手を振っていた。

「やあ、おはよう。今日は何限から?」

「俺は1限なんだよ〜。もうめっちゃねみい」

「僕も1限だ。途中まで一緒に行こう」

 なんてことない会話に花を咲かせ、講義棟に入ると、ふいに肩を叩かれた。

「やっ、二人ともおっはー!」

「よっ、おはよう! 今日も朝から元気だな」

「おはよう。相変わらずだね」

「もう! 二人してなによー!」

 今度は高校から一緒の、同じゼミの友達だった。どこか朋香に近い雰囲気を持っていて、朗らかな笑顔もよく似ていた。

「朋文ちょっと聞いてよー。今日朝から良いことあったんだー!」

「へぇー。どんなこと?」

「あのね! さっき駅でね」

 変わらない、いつもの風景。
 のんびりとした、何気ない日常。
 幸せだな、と思った。
 朋香との日々で、改めて実感したことだった。

 朋香は、僕をふってからも特に態度を変えることなく接してくれた。投薬治療で辛いはずなのに、そんな素振りは微塵も見せなかった。だから僕も特に触れず、可能な限りそばで楽しい話題を振り続けた。
 朋香はお節介にも、自分の友達を紹介してきたりなんかもした。「私なんかよりよっぽど女の子らしくて可愛いんだよー!」なんて言って。さすがにそういう関係にはならなかったけど、その子とは今もこうして仲良くしている。

「ねねっ! 朋文は今度の日曜空いてる?」

「午後からなら。午前はお墓参り行くから」

「朋香ちゃんの、だよね。私も行こうと思ってたから、良かったら一緒に行こうよ!」

「うん、そうしよっか」

 朋香のことを唯一話せる友達。彼女から話を聞いたところによると、生前朋香には好きな人がいたらしい。けれど、何度聞いてもはぐらかされるばかりで、遂には誰か教えてもらえなかったそうだ。


『好きな人もいないし、トモにあげる幼馴染チョコもそろそろやめようかなって思ってたし、ちょうどいいや』


 ふと、以前病室で見た朋香の日記が脳裏をよぎる。あの日記には、僕や友達、病気に関する朋香の想いがいろいろと綴られていたけれど、好きな人のことは書かれていないどころか、いないと書かれていた。

 朋香は、いったい誰のことが好きだったんだろう。

 今となっては知るよしもないけれど、やはり気になってしまう。
 そして、羨ましいと思ってしまう。
 やっぱり僕は、朋香のことが好きだったから。

「朋香……」

 彼女は、想いを伝えられたんだろうか。
 あるいは、結局伝えることなく墓場まで持っていってしまったんだろうか。


『好きな人もいないし、トモにあげる幼馴染チョコもそろそろやめようかなって思ってたし、ちょうどいいや』


 僕の心に刺さった一文。
 朋香らしくない、とても綺麗で整った、落ち着いた字面。朋香は習字が苦手だったけど、なんだかんだで成果は出ていたみたいだ。


「……落ち着いた、文字?」


 唐突に、言いようのない違和感が胸を衝いた。周囲の風景が白く塗りつぶされていく。


「――あ〜〜っ! もうっ! じーっとして字書くのむりーーっ!」


 幼い朋香が、目の前で勢いよく立ち上がる。
 

「――心が遊びたい時は落ち着いた字なんて書けませーん!」


 くしゃりと無邪気な笑顔を浮かべて、鉛筆を振り回している。

 心に湧き上がった違和感。
 あの朋香が、余命宣告されてから書き始めた日記を、あんなに綺麗な文字で書けるだろうか。


「――私はトモの気持ちに応えられない。トモはやっぱり、私にとっては一番大切な『幼馴染』だから」


 今度は、病衣姿の朋香が笑った。


「――トモが私の分まで長生きして、そして幸せになって」


 眉をひそめて、何かを我慢するような笑顔。
 違和感は、どんどん大きくなっていく。


 ――だから……ごめんね。


「…………っ!」

 気がつくと、僕はバスの車内にいた。
 運転手さんが僕を見下ろしており、回送案内のアナウンスが流れている。

「お兄さん、高校生? 疲れてるとこ悪いんだけど、終点に着いちゃったから降りてくれるかな?」

「ああ…………はい」

 どうやら、僕は病院からの帰りのバスで寝てしまっていたらしい。前方にある電光掲示板には、今日の日付である「2/15」の文字と、「20:36」という現在の時刻が……

「……っ! そうだ、行かないと……!」

「あ! ちょっ、お兄さん!?」

 呼び止める運転手さんの声を振り切り、支払機にICカードを叩きつけて、僕は駆け出した。

 朋香――っ!

 もう一度、僕の気持ちを伝えるために。


 *


 タクシーを降りてから、僕はひたすらに走っていた。

「はっ……はっ……!」

 車がほとんどない病院の敷地内に入ると、空いていた非常口から中へと入る。

「……っ、ふぅ……ふう……っ」

 声をひそめて、誰もいないのを確認する。看護師さんに見つかったら即アウトだ。なんとしても、見つかるわけにはいかない。

 朋香……今、行くから……っ!

 昨日から、何度も自分のことをバカだと思った。朋香のそばにいながら朋香のことを何も知らない。幼馴染失格だと自分をこきおろしてきた。
 けれど、まだ足りなかった。足りていなかった。

『好きな人もいないし、トモにあげる幼馴染チョコもそろそろやめようかなって思ってたし、ちょうどいいや』

 あの日記の文字。
 あれは、朋香の本当の文字じゃない。
 朋香はいつもそうだった。楽しい時も、悲しい時も、怒っている時も、辛い時も、その時々の感情が書いている文字に現れていた。いやに大きくポップに書かれていたり、荒々しく書き殴られていたり、消し跡が多かったり、よれよれに文字が滲んでいたり……。

 でも。あの文字には感情が込められていなかった。
 無感情のまま、それこそ習字でなぞり書きの練習をしているみたいな字だった。
 余命宣告をされてから書き始めたにしては、あまりにも違和感のある文字だった。あまりにも、整いすぎていた。

 そして。ここ2日の間に何度も見た、困ったような笑顔。
 僕のことを気遣って、僕のことを傷つけないように考えての笑顔。
 でもきっと、それだけじゃない気がした。
 それに僕は、朋香にそんなふうに、笑ってほしくなかった。
 そんなふうに笑うくらいなら、泣いてほしかった。

 階段を昇り、看護師さんの見回り経路の間を縫って、まっしぐらに彼女の病室を目指す。

 そして僕は、病室のドアを開けた――。


 **


 私の心を、殺してみせるんだ。

 繰り返し繰り返し唱えてきた、おまじない。
 心を殺して、演じて、笑え。
 そう思って、頑張ったのに。


「…………朋香」


 呆然とした。
 夢かと思った。
 いやというか、これは夢だ。
 だって、ありえない。
 もうとっくに面会時間は過ぎているし、2時間以上前に窓からトモが帰る姿を見ているし、なによりトモが戻ってくる理由がない。

「朋香……」

 それなのに、なぜだろう。
 確かな実感があった。
 目の前の彼は、間違いなく「彼」だった。
 私の幼馴染で、大好きな人で、残りの人生の全てをかけてもいいと思えるほどかけがえのない人。
 柔らかく、優しく、私の名前を呼んでくれる、最愛の人。

「ト、モ……?」

 震え、しわがれた声で、私はその名前を呼ぶ。
 目の前の彼は優しく微笑み、小さく頷いた。

「なんで……どうして……」

 あとからあとから疑問が湧いてくる。
 けれど、それよりも、なによりも大切な気持ちが込み上がってきて。
 私の冷え切った心が、温かさを取り戻していく。

「どうして…………戻って、きちゃうの……」

「だって、今の朋香には……泣いてほしいから」

 ふわり、と優しい香りが私を包み込んだ。
 求めて止まなかった温もりが、私の仮面を甘やかに溶かしていく。

「やめて………私、は……だいじょ、ぶ……だから……」

 笑う。懸命に笑う。
 そうだ。私は、大丈夫なんだ。

「お願い、朋香。もう、いいんだよ」

 よくない。よくないよ。だって、だって……

「わたし、は…………」

「朋香」

 ギュッとされた。
 彼の声以外の、すべての音が聞こえなくなった。

「辛かったね」

 仮面が、割れた。

「あああっ…………ああああぁぁ……っ!」

 私は泣いた。
 みっともなく泣いた。
 大好きな人の腕に抱かれて、心の底から枯れるほど大泣きした。

「私……わたし……トモに、生きていてほしくて……っ!」

「うん」

 拙い言葉で、心に抱えていたものをすべてぶちまけた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……! 私、トモにひどいこと……言っちゃって……!」

「大丈夫だよ」

 砕け散った仮面のかけらを越え、私の感情は涙となってとめどなく彼の服を濡らした。

「私も……っ、トモのこと、大好きなのに…………っ!」

「うん……ありがとう」

 トモは頷きながら、ときおり鼻をすすりながら、ずっと私の背中をさすってくれた。頭も撫でてくれた。手も握ってくれた。とても、温かかった。

「トモ……トモ…………っ!」

 トモはずっと、私のそばにいてくれた。

 ずっと手を握っていてくれた。

 私にはできない、優しい笑顔を浮かべて――。


 *


 ――拙い笑みを浮かべて、僕は朋香の背中を撫で続けた。

「ぐすっ……ううっ、トモ……」

 こんなに朋香が泣いているのを見るのは初めてだった。思わず僕の目頭も熱くなる。
 朋香は涙声になりつつも、すべてを話してくれた。
 病気のことも、余命のことも、我慢していた気持ちのことも、ぜんぶ話してくれた。
 なかでも驚いたのは、朋香のところにも余命通知書なるものが送られていたことだった。

「これ、なんだけど……」

 おずおずと、朋香は一冊のノートに挟まれた封筒を僕に手渡してきた。表には、「海野 朋香 様」と書かれている。

「……」

「えと、見える?」

「うん、見える」

 はっきりと見えた。僕のところに今朝届いたのと変わらない茶封筒。

「そだ、これ。僕のところに送られてきた、余命通知書」

「あ、うん……」

 朋香も、僕の手からしっかり余命通知書を受け取った。やはり、見えているらしい。
 さっきも話していたけれど、どうしてお互いの余命通知書が入れ替わる形で送られてきたのかはわからない。どっちも見えるし、よけいに不思議だ。

「案外、入れ間違ったのかもしれないね」

「ははっ、確かに」

 このなかに、僕の余命通知書が入っている。朋香の話では、僕は2年後に自殺をするらしい。今の僕には考えられないけれど、確かに朋香の病気のことをまったく知らずにいて、いつの間にか朋香が死んでしまったとしたら、僕は自分のことを許せなかったかもしれない。
 けれど、今は違う。
 朋香の気持ちを聞いて、想いを受け取って、僕は自ら命を断とうなどとは微塵も思っていないし、思う気もない。
 だから僕は、僕の余命通知書を茶封筒ごと破り捨て――

「「――え?」」

 声も重なった。
 その前に重なったのは、茶封筒を開けもせずに破る音だった。

「トモ、いいの?」

「いや、朋香こそ……。さっきも言ったけど、僕よく見てなかったから、朋香の、その……死亡年月日とか、わからないよ?」

「ああ、うん。いいの」

 僕の問いかけに、彼女は朗らかに笑う。

「余命宣告されても、やっぱり私は諦めずに生き抜きたいから。死ぬ日から逆算して生きる生き方は、私らしくないから」

 僕の自殺とは違い、朋香は病気で、余命宣告までされている。悔しいけれど、死亡年月日が大きく変わる可能性は少ない。
 余命宣告されたうえで、自分の死ぬ月日を知るか、知らないか。
 それを託して、朋香が出した結論だった。
 さすがだと思った。

「それより、トモのほうこそいいの?」

「うん、僕もいいや。朋香のためにも、遠い未来にその日が来るまで、しっかり生きていきたいからね」

「ふふっ。そっか!」

 朋香は嬉しそうに、くしゃりと笑う。涙の跡は、まだ乾いていないけれど。

「ねっ、トモ」

 ふいに、彼女が僕の名前を呼んだ。

「ん? なに?」

 ゆっくりと、彼女のほうへ視線を向ける。

「本当に、ありがとう……! 大好きっ!」

「ああ、僕も――っ!?」

 唇に、柔らかな感触があった。
 驚きのあまり、言葉を失う。

「……んっ……へへっ!」

 顔を離した朋香は、どこか満足そうで。

「……ったく」

「どう? 私らしいでしょ?」

「ああ、まったくだ……!」

 僕もまた、大好きな彼女を強く抱き締めた。


 ***


 僕は未だに、あの時の感触を覚えている。

 それから海野朋香は、729日生き抜いた。
 そして僕はその30倍、2万日を超える日々を生き抜いてきた。

 朋香の死後、僕は彼女の本当の日記帳を引き継いだ。あの日、彼女が余命通知書を挟んでいたノートだった。手渡された朋香の想いを胸に、今日まで僕も日記を綴ってきた。
 けれど、どうやら僕もここまでらしい。
 あの日のことは、趣味の小説形式で書いたけど、どうだっただろうか。朋香は、どんな感想をくれるだろうか。
 これはいわゆる、あとがき。これで、最後の日記を終えようと思う。

 奇しくも今日は、2月14日。2X86年2月14日だ。
 60年の節目となる彼女の命日。
 彼女に贈る締めくくりの物語に、これ以上はないだろう。


 最後に、大好きな幼馴染、海野朋香へ。


 余命報告書

 下記の通り、僕の余命の結果を報告する。
 
 氏名:山口 朋文
 
 死因:病死(ほぼ老衰!)

 死亡年月日:2X86年2月14日以後(享年おそらく80歳)

 所感:最高の人生だった。

 備考:ずっとそばにいてくれて、ありがとう。