「……終わりにしたいの」
夜の海を見ながら、沙季さんがつぶやくように言った。
僕たちは、海岸に沿って走る道路から砂浜へ降りるコンクリートの階段の真ん中あたりに並んで座っていた。
三月。夜九時。
海岸に人影はない。こんな時期でも朝早くから海に出ているサーファー達の姿も、さすがにこの時間には見当たらない。
ここは沙季さんと二人でよく来た場所だ。
この辺りの海岸はサーフィンやボードセイリングといったマリンスポーツのスポットとして有名だ。でも僕も沙季さんも、マリンスポーツなんてしたことがなかった。ただここに座って、色とりどりのボードやセイルを眺めていた。
「今度、私たちもやってみようよ」
いつだったか、沙季さんが言っていたのを思い出した。結局、実現しなかった。
沙季さんはずっと、夜の海を見ている。
暗い。夜の海の色は、濃紺。夜空の色。宇宙の色。
耳に届いてくるのは、波の音だけ。すぐ上にある道路を走る車の音も、今は聞こえない。
「僕のこと、嫌いになった?」
沙季さんが見つめる海の方を見ながら、訊いてみた。
「そうじゃないけど……他に、好きな人ができたの」
沙季さんは正直な人だ。きっと、本当にそういうことなのだろう。
「卒業してからも、時々会えないかな?」
大学の卒業が迫ったある日、僕にそう言ってくれたのは沙季さんの方だった。
「私、前からヒロ君のこと、好きだったんだ」
まるで好きな音楽や映画のことを話すように、沙希さんは笑顔でそう続けてくれた。
あれから……ちょうど一年。
僕の名前は「ヒロ」という。太平洋の「洋」と書いて「ヒロ」。
洋は、広い海。でも僕は、海のないところで生まれ育った。
初めて本物の海を見たのは、小学一年の時。両親が連れ行ってくれた。初めて見る海は、青くて、大きかった。
それ以来、僕は海が好きになった。いや、海を見る前から、僕は海が好きだった。海に憧れていた。
だから僕は、キャンパスから海の見える大学を選んで進学した。そう、僕が通っていた大学は、太平洋を臨む高台にあった。
大学へ通える場所にアパートを借りた。大学よりもっと海に近い場所。海まで歩いて5分くらい。海がよく見えるところ、高台か海岸沿いに住みたかったけれど、適当な物件がなかった。景観のよい物件は賃料も高い。手が届かなかった。
借りたアパートは、海に向かって流れる、川? 水路? 沿いの住宅街にあった。二階建ての一階。間取りは1DK。申し訳程度の玄関から、短い廊下、ダイニングキッチン、六畳の洋室が縦に並ぶ。洋室の奥のサッシ戸を開けると、コンクリート敷の物干し用のスペース、テラス? があって、その向こうがすぐに水路だった。テラスの幅は2メートルくらい。
テラスと水路の間は金網のフェンスで仕切られていた。僕の胸くらいの高さ。フェンスから顔を出して下を見ると、コンクリートブロックの底を、海色の水が左から右へ、ゆっくりと流れていた。
水路の幅は30メートくらい。海に向かって段々に広くなっている。
対岸も住宅街。コンクリートブロックの上に住宅が並んでいた。
水が流れる方に目を遣ると、少し先に橋があった。海外沿いの道路の橋だ。橋の向こうにかろうじて海が見えた。橋桁の少し下、遥か遠くの水平線。水路の幅、橋の長さの、海。
二階の部屋からはもっとよく海が見えるのだろうけれど、僕が部屋を借りた時にはもう二階に空き部屋はなかった。
大学へは自転車で15分。朝、自転車を漕いで坂道を登るのは少しきつかったけど、振り返れば海が見えた。アパートのテラスから見るよりも遥かに広い海が。天気のいい日には水平線もしっかり見えた。帰り道は自転車を転がしながらゆっくりと坂道を歩いた。夕陽に染まる海を見ながら。
沙季さんは僕と同級生で、大学の同じゼミで知り合った。人付き合いが下手な僕に好意を持っていてくれていたなんて、少しも気付かなかったけど。
大学を卒業した後、明確な夢も目標もなかった僕は、そのまま大学に事務職員として残った。それまでと同じようにそこから海を見ていたかったから。アパートの契約も更新して、そのまま同じ部屋に住み続けることにした。引っ越すのが面倒だったから。
沙季さんは大きな会社に就職して、都会で働くことになった。
社会に出れば見える世界も変わる。会社にはきっと僕なんかよりずっと素敵な、しっかりした男性もたくさんいる。きっと、そういうことなのだろう。
「わかった」
僕は短く答えた。
「……ごめんね」
沙季さんが言った。沙季さんが謝るべきことなのだろうか。そんなことを思った。
「寒いね」
僕はそう返した。
「そろそろ帰ろうか」
沙季さんは黙ってうなずいた。
「駅まで送るよ」
僕が立ち上がると、少し遅れて沙季さんも立ち上がった。
「ありがとう」
そう言って、沙季さんが初めて、僕の顔を見た。
四月。大学の新学期が始まった。
慌ただしい毎日は沙季さんのことを忘れさせてくれていた。でもやっぱり、僕の心の中にできてしまった空洞はなかなか埋まらない。
気が沈む、という言い方がある。僕の場合は違った。空洞ができた分、自分の身体が軽くなってしまったように思えた。仕事をしていても、何となく身体がふわふわ浮かんでいるような気がした。強い風が吹けばすぐに飛ばされてしまいそうな。
遠くに見えるあの海の水が、僕の心の空洞を満たしてくれればいいのに。そんなことを思った。
そう言えば……
思い出した。前にも、こんなんことがあった。
小さい頃、僕は両親以外の人とうまくコミュニケーションを取ることができなかった。いわゆる「発達障害」だ。小学校に入学してからもクラスの人たちや先生と話すことができなかった。
ある日、両親が1メートル四方くらいの水槽を買ってきた。次の日、その中に1匹の熱帯魚がいた。
今から思えば僕の発達障害の治療のためだったのだろう。後になって、ペットを飼うことがと発達障害の改善に効果があるという話を聞いた。でも当時、僕の家はマンションだった。動物を飼うことは禁止されていた。それで、熱帯魚だったのだろう。
青かった。その熱帯魚は、きれいな青い色をしていた。
熱帯魚の性別はわからなかった。でも僕は、その熱帯魚を「ヒメ」と呼んだ。童話の「人魚姫」から連想した、のだと思う。
ヒメ。人魚のお姫様。僕の、お姫様。
それから毎日、僕は水槽の中のヒメに話しかけた。
もちろんヒメは何も答えてくれない。ただ、水槽の中をゆっくりと泳いでいるだけだ。それでもヒメが、僕が水槽の中に入れたエサを食べてくれると、それだけで嬉しかった。ヒメが正面を向くと、僕に話し掛けてくれているように思えた。
ヒメのお陰で僕の発達障害は少しずつ改善の方向に向かって行ったように思う。学校の先生や、クラスの中の何人かとは話ができるようになった。
でも……
ある日、ヒメが死んだ。
学校から帰ると、水槽の上にヒメが浮かんでいた。
その後のことはよく覚えていない。ただ、心の中に大きな空洞ができて、その分僕自身が軽くなってしまったような気がしたのは覚えている。
そう、今の僕と同じように……
それからしばらくして、両親が水族館へ連れて行ってくれた。きっと落ち込んでいた僕を慰めるためだろう。
水族館で、たくさんの魚を見た。大きな魚、小さな魚、赤い魚、黄色い魚。ヒメのような青い魚もいた。
僕は水族館の中ではしゃぎまくっていた。僕があんなにはしゃいだのは、たぶん生まれてから初めてのことだったと思う。
その日僕は、海を見た。生まれて初めて、本物の海を見た。水族館の中の展望レストランからだったと思う。
初めて見る海は、青かった。大きかった。水平線があることが不思議だった。
それ以来、僕は海が好きになった。いや、その時気付いた。海を見る前から、僕は海が好きだった。ヒメが生まれた、海。たくさんの魚たちがいる、海。僕の名前は、太平洋の「洋」。僕はあの海に、ずっと前から、憧れていた……
その日を境に、僕の発達障害は改善して行った。ヒメの後、魚を飼うことはなかった。しばらく空のままだった水槽もいつの間にか無くなっていた。
今では普通に人とコミュニケーションを取ることができる。とは言っても、今もけして人付き合いが上手なわけでなはない。話し上手なわけでもない。高校でも大学でも、「無口だ」「暗い」てよく言われた。
そんな僕に沙季さんの方から交際を申し入れてくれたのは、思えば奇跡に近い。でも、今ではそれも……
夜。大学から帰った僕は、テラスに出てぼんやりと水路を見ていた。
暗い水面が微かに光っていた。対岸の住宅の灯りを反射しているのだろう。
静かに流れる水の音が聞こえた。
海の方を見た。橋の向こうにわずかに見える海は、沙季さんと別れた、あの夜と同じ色をしていた。
その時。
『キンコンカンキンコン、キンコンカンキンコン、キンコンカンキンコン』
鉄琴をたたくような音がした。周りを見回して、ようやく気が付いた。ズボンのポケットに入れていたスマホだ。スマホが鳴っている。僕はスマホを取り出した。
『津波警報』
画面に大きくそう表示されていた。
津波? 地震のような揺れは感じなかった。それなのに津波? そう思った。
その表示のすぐ下。
『沿岸部の方は直ちに高台など安全な場所に避難してください』
沿岸部? ここは……沿岸部だけど。
スマホのニュースの画面を開いてみる。
『日本近海の太平洋で海底火山噴火』
海底火山?
さらに。
『太平洋沿岸に津波警報』『1時間程度で津波到達の恐れ』
すぐにまたスマホが鳴った。今度は電話の着信音。母親だ。僕は受信ボタンをタップした。
「大丈夫? 津波警報が出てるよ。あなたのとこ、海に近いから」
「うん、今は大丈夫」
「すぐに避難するのよ」
「うん、わかった」
そう答えた。
続けてまた電話が入った。今度はアパートの大家さんだ。大家さんは年配のご婦人で、アパートから少し離れた高台に住んでいる。
「すぐに避難してくださいね」
大家さんも母親と同じことを言った。
「大学まで行けばきっと安全ですよ」
大家さんが続けた。
「わかりました」
僕はそう答えた。
二人からの電話がなかったら、きっと僕はそのまま海を見ていたんだろう……そのまま津波に飲まれて海に吸い込まれてしまったら……それならそれで……
そんなことを少しだけ思った。
いや、だめだ。もしそんなことになったら、両親も悲しむだろうし、大家さんにも迷惑がかかる……
そんなことを思いながら、僕は大学に向かって自転車を漕ぎ出していた。
大学に着いた。建物の窓には明かりが灯っていた。すでに避難してきた人たちがいるのだろう。学生や職員だけじゃなくて、近くの住民の人たちも避難してきているのかもしれない。僕はいつもの仕事場の事務室に向かった。
事務室には既に何人か職員がいた。事務室に入るとすぐに来客用の応接スペースがある。低いテーブルとソファ。テーブルの上にパソコンが置かれていて、職員の先輩たちが何人か、ソファに座ったり、その後ろに立ったりしてそれを見ていた。
僕に気づいた先輩職員が僕の方を振り向いた。僕が会釈をすると、黙ったまま軽く手を上げてまたすぐにパソコンの方に向き直ってしまった。職場での僕の存在はそんなものだ。
パソコンには上空から見た海底火山の噴火の様子が映し出されていた。人工衛星の画像だろう。海面から大きな煙のかたまりが盛り上がってくる様子が何度も繰り返されていた。
僕は自分の事務机に向かった。机の上の自分専用のパソコンを立ち上げ、テレビに繋げた。
テレビでは、緊張した面持ちのアナウンサーがしきりに海の近くに住む人たちへの非難を呼び掛けていた。
スマホにラインが入った。沙季さんからだった。別れた後も、沙季さんとのラインはそのままにしてあった。
『大丈夫?』
少し考えてから、返事を打った。
『大丈夫。今、大学にいます』
『よかった。気を付けて』
『沙季さんも……』そう打ちかけて、やめた。沙季さんの家は海からはだいぶ離れたところにある。僕が心配する必要はない。僕が死んだら、今でも沙季さんは、悲しんでくれるだろうか? そんなことを、少しだけ思った。
深夜。日付が変わった。パソコンに繋げたテレビは点けたままにしていた。テレビでは各地の海岸や港の様子が映し出されていた。海岸沿いの道路や桟橋に波が打ち付けられている。でも、建物や車が波に飲まれるような画像はない。大きな被害はないようだ。
画面の下の方には各地で観測された津波の高さがテロップで表示されていた。1メートルくらいのところが多いけど、中には2メートル近いところもあった。
僕のアパートは、どうだろう。テレビにはこの近くの様子は映し出されていなかった。この程度ならアパートまで津波が届くことはないだろう。そう思った。でも、アパートのすぐ裏は水路だ。津波は水路を登ってきたかもしれない。
僕が心配していたのは、今のアパートに住むことができなくなって、引っ越さなければならなくなることだった。あの部屋が好きだった、わけではない。ただ、そうなったら面倒だなって、そう思った。
何度か繰り返して押し寄せていた波も、夜明け頃には治まっていた。津波警報は注意報になった。僕はパソコンを閉じて、椅子に座ったまま、少しだけ眠った。
翌朝。津波注意報も解除になった。大学の周辺に大きな被害はなかったようだけど、それでも大学は臨時休校になった。
学生たちの安否確認と休校を知らせるメールの発信は僕たちの仕事だった。
昼過ぎ、一通りの仕事を済ませて建物から外へ出た。空は、晴天だった。僕は自転車を転がして、アパートへ向かった。遠くに見える海は、何事もなかったかのように、穏やかだった。
アパートは無事だった。部屋のドアを開けて、玄関から中を覗く。部屋の中の様子は部屋を出る前と少しも変わってない。灯りを点けてみた。点いた。電気は大丈夫だ。
部屋の中に入る。短い廊下の左側に浴室、右側にトイレと洗面台がある。洗面台の水道から水を出してみた。大丈夫。きちんと出る。廊下の先はダイニングキッチン。左側の壁沿いがキッチンスペースになっていてシンクとコンロがある。シンクの水道も大丈夫だった。水が出る。ガスコンロも大丈夫。きちんと火が付いた。その奥の洋室にも変わった様子はない。
テラスと水路の様子を確かめようと思い、奥の部屋のサッシ戸を開けて外を見た。テラスの隅に置いてあった掃除道具が散乱していた。掃除道具を入れていた段ボールの箱はビショ濡れになって潰れていた。テラスまで水が押し寄せてきたということだ。もう少しで床上まで浸水していたところだ。ギリギリセーフ、だった。ここより海岸に近い家ではもっとたいへんなことになっているかもしれない。そう思った。
水路の方に目を向けた。庭と水路を仕切る金網のフェンスの向こう側に海藻のかたまりのような物が見えた。直径は、30センチくらい。フェンスとその下の水路のコンクリートブロックの間のわずかな隙間。そこに引っかかるように。まるで、金網にしがみつくようにして。
きっと津波で海から運ばれてきたのだろう。水をかけて水路に押し流してしまおうか、そう思った。でも今日は天気がいい。そのままにしておいても、すぐに乾燥して風に飛ばされてしまうだろう。そう思い直した。
その時。その海藻のかたまりの中から細い棒のような物が突き出しているのに気が付いた。二本。長さは数センチ。色は……白、いや、ほとんど透明だ。
その棒は、動いていた。円を描くように動いていた。それは、「手」に見えた。よく見ると、先端には細い指のようなものもあった。ただ円を描いているだけでなく、その指はしきりに何かを掴もうとしていた。
その「手」は、助けを求めている。僕にはそう見えた。
僕はテラスに出て、海藻のかたまりの近くにしゃがみ込んで金網越しに覗き込んでみた。海藻のかたまりはゼリーのような物で覆われていた。その真ん中あたりから小さな手が突き出していて、細い指を閉じたり開いたりしながら円を描いている。
フィギュアだろうか。そう思った。でもその手は生き物のように動いている。よくできたおもちゃだろうか。突き出した手の周りは海藻に囲まれていて見えない。
中にいる物が何なのか確かめてみようと思った。
水路のブロックの上、フェンスの向こう側にはちょうど海藻のかたまりが乗る幅、30センチくらいのスペースがあった。僕は金網によじ登り、水路に落ちないように気を付けながらそのスペースに降り立った。
水路の対岸からは僕の姿は丸見えだ。普段ならこんなことをしていたら怪しまれたかもしれないけど、今なら津波の後片付けという言い訳が立つ。
僕は右手で金網を掴みながら、左手を伸ばして突き出た小さな手のすぐ上、もしそれが本当に手であれば、たぶん「顔」があるあたりを掻き分けてみた。
宝石があった。青い、宝石。そう、それは宝石に見えた。僕は宝石に詳しいわけじゃない。でも、知っている宝石に例えるなら、それは、サファイア。青いサファイア。
でも……宝石だとすれば、かなり大粒だ。海藻を掻き分けた部分だけでも、直径3センチくらいはある。ひょっとしたら、海藻のかたまり全体が、大きな宝石を包み込んでいるのかもしれない。
よく見ると、海藻の中のサファイアの、その中にまた、小さな宝石があった。二つ、並んで。周りの宝石よりも一段と輝いて見える。きらきらと。波打つように。
それは……ダイアモンド。
ようやく理解した。目だ。浮かんでいる二つ宝石は、目だ。ということは、目の周りの宝石は、顔。思えば、突き出た手のすぐ上だ。そこに顔と目があっても不思議じゃない。
だとすれば……やっぱり、フィギュア?
もちろん人間じゃない。動物か、魚? でもこんな動物も魚も見たことない。
僕は、その顔に自分の顔を近づけた。
二つの目が、揺れていた。海藻を包むゼリーか、あるいは中の水分のせいでそう見えるのかもしれない。でも……違う。僕は思った。
泣いている。その目は、泣いているんだ。助けて、て言っている。その目は、僕に、僕に向かって、助けて、て言っている。
かたまりから突き出た手はずっと円を描くように動いている。生きている。おもちゃじゃない。この手も、そしてこの目も、確かに生きていて、僕に助けを求めているんだ。
助ける? でも、どうすればいい? 水の中に返してあげればいいのだろうか。このまま水路に投げ入れてやる? 水面までは2、3メートルはある。ちょっと乱暴だ。それにこの、生き物? が、本当に水の中に住む生き物なのかどうかもわからない。でも、このままにしておいたらきっと、海藻と一緒に干からびてしまうだろう。どうしよう。
「ちょっと待ってて」
そう言って僕はまた金網をよじ登り、一旦部屋に戻った。
洋室の向こうにあるダイニングキッチンのコンロとシンクの下は戸棚になっている。僕はその戸棚からビニール袋とビニール紐を引っ張り出した。そしてビニール紐をフェンスの高さより少し長めにハサミで切って、その一方の端をビニール袋の取っ手の部分に結び付けた。それを持って、僕はまたテラスに走った。
フェンスの前でもう一度海藻のかたまりを見た。小さな手は、まだそこにあった。
僕はビニール袋に結び付けた紐のもう一方の端を金網の一番上に縛り付けて、ビニール袋を水路側に落とした。海からの風に袋がたなびいた。僕も再び金網をよじ登り、水路側に降りた。
紐を手繰り寄せ、ビニール袋を手に持って海藻のかたまりに近づく。右手で金網を掴みながら、左手でかたまりの下にビニール袋を差し入れる。それからかたまりを押して袋の中に押し込もうとした。ゼリー状のかたまりは思ったよりもしっかり張り付いていて、なかなか動かない。かたまりの中の生き物とまた目が合った。すがるような目。
僕は一瞬だけ右手を離して、両手でかたまりを押した。うまくいった。海藻のかたまりはその中の生き物ごとビニール袋に収まった。でもその重みでビニール袋が水路の方に落ちてしまった。
「うわ!」
僕は声を上げた。次の瞬間、ドサッ、とうい感触とともにビニール袋は静止して、フェンスのすぐ下に宙づりになった。僕が結び付けた紐がしっかりと袋を掴んでいた。ほっとした。
僕は紐を引き上げて再び塀の上に袋を置いた。中を覗いた。海藻しか見えない。生き物は海藻の下に埋まってしまったようだ。
驚いただろう。
「ごめん」
僕は謝った。
ビニール袋の取っ手をしっかりと結んで、金網をよじ登った。フェンスの上にまたがって、袋を引き上げる。ずっしりとした重みが感じられた。今度はテラスに向かってゆっくりと袋を下ろす。袋の中の海藻のかたまりとその中の生き物は、無事にテラスに着地した。
僕もテラスに飛び降りた。紐をほどいて両手で袋を持ち上げる。そのまま部屋に入ると、浴室に走った。
薄暗い浴室に灯りを点けて、中に入る。浴槽にお湯は張っていない。僕はビニール袋を持ったまま空の浴槽に入って、クリーム色の浴槽の底に、そっとビニール袋を置いた。
取っ手の結び目を解き、袋を横にした。袋の中に手を入れる。ヌルッとしたゼリーと海藻の感触。袋の底を引っ張りながら、中にある海藻のかたまりを浴槽に掻き出した。海藻のかたまりが回転しながら浴槽に滑り出す。
その中央に、その生き物は、いた。僕の方に背中を向けて、海藻の中に顔を埋めていた。崩れかけた海藻のかたまりの中心の部分を抱きしめるようにして、うずくまっていた。
その生き物が、僕の方に向けているのが背中であること、そしてその生き物がそういう姿勢を取っていることは、生き物の全体の形から判断できた。でも……それにしても……
その生き物、それは、「人魚」だった。
そう、人魚。でも、僕が知っている、絵本やアニメに出て来るような「人魚」とは、違う。全く違う。
その背中には、白くて細い、柔らかそうな、触手、が、生えていた。毛、ではない。触手だ。白、ていうより透明に近い。海藻のかたまりから突き出ていた「手」と同じ色。でもあの「手」よりもはるかに細い。「手」は二本だったけど、背中の触手は、無数にある。それが、肩、そう、人間で言えば肩のあたりから、背中、そして腰のあたりにかけて、Ⅴ字型にびっしりと生えている。海藻の中に埋めた頭の後ろから首のあたりにも生えているように見える。
腰から先の下半身……その形は、魚。いや、魚よりもイルカに近い。その色は、海藻に埋まっていた顔と同じ、青い、サファイア。鱗はない。
先端にあるのは、尾ひれ。その形もイルカに近い。尾ひれの先端の方は、触手と同じようにほぼ透明だ。
その生き物は、その姿勢のまま、動かない。僕の扱いが乱暴だったから、気を失ってしまったのか。あるいは死んでしまったのか……僕は顔を近づけた。
その時。その生き物が、動いた。クルリッ、と回転して、うつ伏せの姿勢になって、僕の方に頭を向けた。そして両手を突いて、ゆっくりと、上半身を起こした。生き物が、顔を上げた。僕に向かって、顔を上げた。
あの目が、僕を見ていた。真っ直ぐに僕を見上げていた。サファイアの中で、一段と輝いていた、ダイアモンド。
大きな目、だった。大きな、ていうのは僕の印象であって、実際の大きさは1センチもないだろう。でも、顔全体に対する比率、て言う意味では、やっぱり、大きな、目。
海藻のかたまりの中で、その目は、揺れていた。泣いていた。僕に助けを求めていた。
そしてその目は……今も揺れている。喜んでいるのか、驚いているのか……わからない。でも、怖がっては……いない。僕に向かって、「ありがとう」て、そう言っている。僕にはそう見えた。
目の下には小さな鼻孔があった。けして高くはないけど、人間の鼻のようなふくらみもある。高くない、ていうのは、これも顔全体のバランスから見た僕の印象だ。
そしてその下に、丸く開いた、小さな口。ぽかん、と、開けた、口。
サファイアの中に開いた、小さな鼻と口。本物の宝石なら、あり得ない。
顔全体の印象は……少女。あどけない少女の顔に見える。でもその色は、サファイア。人間の少女、ていうより、やっぱり、フィギュア……か。
その表情は、驚いているようにも見える。珍しい物を見て。もちろん珍しいに決まってる。人間を見るのは、きっと初めてだろう。僕だって、こんな生き物を見るのは初めてだ。
背中に生えていた触手が、顔の上、人間ならば、頭髪が生えている部分にも生えていた。触手は、顔を隠さないように真後ろに流れて、背中までに届いている。だからそれは……髪の毛に見えた。長くて、柔らかな、透明な、髪。
頭から首、肩の形も人間とほぼ同じ。肩の感じも、少女らしく見えた。そしてその肩から伸びる、細い腕。その色は、身体と同じ青から、先端に行くにつれ、白、そして透明へと徐々に変化している。手の先端には指があった。細くて長い、五本の指。この手がさっき、海藻のかたまりの中から僕を呼んだ。そして今は、浴槽の中で自分の上半身を支えている。
下半身は今、真っすぐに伸びてきれいな流線形を描いている。全長は、20センチくらいだろうか。
触手以外の身体の色は……やっぱり、青。サファイアの青。全身が透明な膜のような物で覆われているようにも見える。
クリスタルの中の、サファイア。いや、違う。思い直した。
海だ。青く輝く、海だ。白い触手は、波。海と波。この生き物は、海の一部をそのまますくい上げてきたような、そんな生き物だ。
「はじめまして」
僕はその生き物に話しかけた。
驚いたのか、生き物はまたクルリッ、と後ろを向いて、海藻の中に潜り込んでしまった。
顔を近づけると、海藻の中からあの目が僕を見上げていた。照れているように。恥ずかしがっているように。
取りあえず生き物を無事に保護することはできた、ようだ。でも、こらからどうしよう……どうすればいい?
僕は考えた。「人魚」のようなこの生き物は、やっぱり海に住んでいたのだろう。きっと津波でここまで運ばれてきてしまったのだ。であれば、海に返してあげるのが一番いい。
水路に投げ入れるのは、やっぱり乱暴だ。そんなことできない。バケツか何かに入れて、海岸まで行って、海に放してあげるのがいいだろう。
でも……こんな生き物、今まで見たことない。新発見かもしれない。あるいは僕が知らないだけだろうか。いずれにしろ、一度専門家に見てもらった方がいいのでは……そう思った。
大学へ行けば生物の専門の教授がいるだろう。明日、大学へ行ったら教務課の主任に話して専門の教授を紹介してもらおう。ひょっとしたら、僕が新生物の発見者になるかもしれない。有名になりたいとは思わないけど。
それなら、今日はとりあえず、このまま……
決めた。僕はこの「人魚」を、このまま一晩、浴槽の中に置いておくことにした。
人魚は海藻の「ベッド」に潜り込んだままだ。このままでいいだろうか。
今更ながら気が付いた。人魚はさっき、海藻の中から起き上がっていた。ということは、空気中でも呼吸ができるということだ。しかし人魚の体形は、やはり水中向きに思えた。であれば、水の中の方が快適だろう。そう思った。
僕は人魚を残したまま浴槽を出て洗い場に立った。そして浴槽の脇の壁から出ている水道のレバーを持ち上げた。蛇口から浴槽に向かって勢いよく水が落ち始めた。
その音に反応したのか、人魚が海藻の中から顔を出した。そこでまた気が付いた。人魚が海に住んでいたとすれば、真水は有害かもしれない。ましてや水道水だ。僕は慌てて水を止めた。
人魚は水道水が出ていた蛇口を見上げている。水を欲しがっているように見える。僕は、レバーをゆっくりと上げて、少しだけ水を出してみた。水道水が水滴になって浴槽に落ちる。
人魚が海藻から這い出してきた。滑るように蛇口の下に移動して、その顔に水滴を浴び始めた。やっぱり水が欲しいのだ。
レバーをもう少しだけ上げてみた。水滴が細い水の柱になった。人魚は身体を回転させて、全身に水を浴び始めた。僕は更にレバーを上げて、水の勢いを強くした。人魚は水の柱の周りをクルクルと廻り始めた。喜んでいる、ように見えた。
どうやら水道水も苦手ではないらしい。僕はほっとした。水道水を嫌がるようであれば、海岸まで行ってバケツで海水を汲んで来なければならないだろうと思っていた。浴槽をいっぱいにするには海岸まで何往復もしなければならなかっただろう。
浴槽の底に水が溜まってくると、人魚は浴槽の中を泳ぎ始めた。狭い浴槽の底を回遊するように。
早い。なかなかのスピードだ。その姿は、かっこいい。美しい。両腕を後ろに伸ばして、尾ひれを上下に波打たせる。映画やアニメで見たことがある、人魚の泳ぎ。まさに、人魚だった。
浴槽の3分の2くらいまで水が溜まったところで水道を止めた。人魚は一旦泳ぐのをやめて、水面に顔を上げた。水の止まった蛇口を確かめるように見上げると、すぐにまた泳ぎ始めた。
人魚は回遊を続ける。僕は浴室の床に座り込んで、浴槽の縁に肘をついて、中を泳ぐ人魚の姿を追い続けた。飽きなかった。いつまでも見ていることができた。
いつの間にか海藻のベッドはバラバラになっていた。人魚はどこで眠るのだろう、そんなことを考えた。
どれくらい時間が経っただろう。人魚が泳ぐのをやめて、水面に顔を出した。蛇口ではなく、僕の顔を見ている。僕を見上げながら、丸い口をパクパクと動かしている。
僕にはわかった。「お腹が減った」、そう言っているのだ。
どうしよう。人魚は、何を食べる? 魚? 肉? 人魚といっても、この人魚はまだ子供に見える。生まれたての赤ちゃんかもしれない。であれば、まず。
「ちょっと待ってて」
僕は立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、飲みかけの牛乳のパックがあった。食器棚から小さめの皿を取り出し、牛乳のパックと皿を両手に持って浴室に戻る。
僕が浴室に入ると、水の中に潜っていた人魚が顔を出した。僕は浴槽の縁に皿を置いて、そこに牛乳を注いだ。人魚はいったん水に潜ると、すぐに皿の前に顔を出した。そして、浴槽の縁に手をかけて、身体を乗り出すようにして、皿に顔を付けた。あっという間に皿の牛乳がなくなった。
人魚が顔を上げた。顔が牛乳で白くなっていた。その顔が可愛くて、僕は笑ってしまった。人魚が少し恥ずかしそうな表情をしたように見えた。
人魚は一旦水に潜って、また顔を上げた。顔はきれいになっていた。また口をパクパクと動かしている。僕は皿に牛乳を注いだ。人魚がまた皿に顔を付ける。そうやって、結局人魚はパックに入っていた牛乳をすべて飲み干してしまった。
お腹がいっぱいになったのか、人魚は浴槽の底に沈んで猫のように丸くなった。そのまま眠るのだろうか。
急に僕も、眠くなった。ポケットに入れてあったスマホで時刻を見た。夜の11時を回っていた。昨夜もほとんど眠っていない。明日は大学に行かなければならない。僕も睡眠を摂らないと。
もう一度人魚の様子を確認する。丸くなったまま動かない。もう眠ってしまったのか。僕は顔を近づけて浴槽の底を覗き込んだ。
人魚が少しだけ顔を上げて僕を見た。きらきらと輝いていた目が、横に細くなった。目を閉じたのだ。
すぐに顔を伏せて、一度、尾ひれを振った。おやすみのあいさつ、ていうことか。
「おやすみなさい」
僕も人魚にそうあいさつして、立ち上がった。浴室の出口でもう一度、振り返って浴槽を見た。浴室の扉は開けたまま、僕は浴室の灯りを消した。
翌朝。洋室のフローリングに敷いた布団で眠っていた僕は、スマホのアラームで目を開けた。
すぐに浴室へ向かった。灯りを点けて浴槽を覗き込む。人魚はもう目を覚ましていて、浴槽の中を回遊していた。
僕に気が付いた人魚が水面から顔を出した。スイ、と僕の方に近寄ると、浴槽の縁に手をかけて、身を乗り出した。僕を見上げる。そして口をまた、パクパクと動かし始めた。お腹が減った、ていうことだ。
僕はキッチンへ行って冷蔵庫を開けた。牛乳は昨夜、全部人魚にあげてしまった。食べ物は……スライスされてパックに入った、ハムとチーズがあった。戸棚を開けると食パンがあった。
ハム、チーズ、食パン。人魚は食べるだろうか。
僕は一枚の食パンを半分にちぎった。そしてそれをさらに小さくちぎってから、手のひらの上で軽く丸めた。人魚が食べやすいように。それからハムとチーズを一枚ずつ、包丁で細かく刻んだ。人魚の口の大きさは数ミリだ。その口に入るように。それを皿に乗せて、浴室へ入った。人魚は浴槽の縁に手と顔を乗せて、僕のことを待っていた。
人魚の目の前に皿を置いた。人魚が皿に顔を付けた。前の日に牛乳を飲んだ時と同じように。そして食パンとハムとチーズを食べ始めた。噛んでいるような様子はない。小さな口から吸いこんでいるように見える。
間もなく、皿の食べ物はきれいになくなった。人魚が顔を上げた。浴槽の縁につかまったまま僕の顔を見ている。口をまたパクパクさせている。まだ足りないということだ。
僕はキッチンへ戻って、ちぎった食パンの半分を自分の口に咥えると、残りの食パンとパックの中のハムとチーズを全部、細かく刻んだ。それを皿に乗せると皿は山盛りになった。
浴室へ行って浴槽の縁に皿を置くと、人魚はすぐに山盛りの食べ物の中に顔をうずめた。僕は食パンを食べながらその様子を見ていた。皿からパンやチーズの欠片がこぼれる。僕はそれを拾って皿に戻してあげた。
皿は再び空になった。人魚は水の中に潜って、皿から落ちて水に浮いていた食べ物の残りを水の中から器用に吸い込んだ。
浴槽の中に落ちた食べ物もきれいになくなった。人魚が浴槽の底に沈んで丸くなった。満足したのだろう。
スマホで時刻を見ると、出勤時間になっていた。急がないと遅刻する。まだまだ人魚といっしょにいたかったけど、仕方がない。
「行ってきます」
そう言って、僕は浴室を出た。
大学に向かって自転車を漕ぎながら、僕は考えていた。
大学へ着いたら、教務課の主任に人魚のことを話す。信じてもらえないかもしれない。それでも、生物学の教授か、とにかく専門家を紹介してもらって……
それから、その専門家といっしょにアパートへ戻って、人魚を見てもらう。主任もいっしょに来るかもしれない。ひょっとしたら、もっと大勢の人がいっしょに来るかもしれない。人魚は、驚くかな……
人魚が新発見なら、マスコミにも紹介されるかもしれない。あの人魚が、ニュースで全国に、いや、全世界に紹介される。
その後、人魚は……大学の研究室で飼われることになるのだろうか。大学に大きな水槽はあっただろうか……それともプールで?
そして、研究される。どんな場所に住んで、どんな風に生活するのか。何を食べるのか。身体の構造は、どうなっているのか。レントゲンで? まさか生きているまま解剖されることはないだろうけど……
採血されて、遺伝子を調べられる。どんな風に進化したのか。そして、どんな風に、生殖するのか……
──ヒメ
突然、ヒメのことを思い出した。僕の部屋にいた熱帯魚の、ヒメ。ヒメも、あんな青い色をしていた。
水槽に浮かんでいたヒメの姿を思い出した。大学で研究されたら、あの人魚もあんな風に……
大学に着く前に、僕の心は決まっていた。
あの人魚のことは、誰にも話さない。あの人魚のことは……僕だけの秘密だ。
夜の海を見ながら、沙季さんがつぶやくように言った。
僕たちは、海岸に沿って走る道路から砂浜へ降りるコンクリートの階段の真ん中あたりに並んで座っていた。
三月。夜九時。
海岸に人影はない。こんな時期でも朝早くから海に出ているサーファー達の姿も、さすがにこの時間には見当たらない。
ここは沙季さんと二人でよく来た場所だ。
この辺りの海岸はサーフィンやボードセイリングといったマリンスポーツのスポットとして有名だ。でも僕も沙季さんも、マリンスポーツなんてしたことがなかった。ただここに座って、色とりどりのボードやセイルを眺めていた。
「今度、私たちもやってみようよ」
いつだったか、沙季さんが言っていたのを思い出した。結局、実現しなかった。
沙季さんはずっと、夜の海を見ている。
暗い。夜の海の色は、濃紺。夜空の色。宇宙の色。
耳に届いてくるのは、波の音だけ。すぐ上にある道路を走る車の音も、今は聞こえない。
「僕のこと、嫌いになった?」
沙季さんが見つめる海の方を見ながら、訊いてみた。
「そうじゃないけど……他に、好きな人ができたの」
沙季さんは正直な人だ。きっと、本当にそういうことなのだろう。
「卒業してからも、時々会えないかな?」
大学の卒業が迫ったある日、僕にそう言ってくれたのは沙季さんの方だった。
「私、前からヒロ君のこと、好きだったんだ」
まるで好きな音楽や映画のことを話すように、沙希さんは笑顔でそう続けてくれた。
あれから……ちょうど一年。
僕の名前は「ヒロ」という。太平洋の「洋」と書いて「ヒロ」。
洋は、広い海。でも僕は、海のないところで生まれ育った。
初めて本物の海を見たのは、小学一年の時。両親が連れ行ってくれた。初めて見る海は、青くて、大きかった。
それ以来、僕は海が好きになった。いや、海を見る前から、僕は海が好きだった。海に憧れていた。
だから僕は、キャンパスから海の見える大学を選んで進学した。そう、僕が通っていた大学は、太平洋を臨む高台にあった。
大学へ通える場所にアパートを借りた。大学よりもっと海に近い場所。海まで歩いて5分くらい。海がよく見えるところ、高台か海岸沿いに住みたかったけれど、適当な物件がなかった。景観のよい物件は賃料も高い。手が届かなかった。
借りたアパートは、海に向かって流れる、川? 水路? 沿いの住宅街にあった。二階建ての一階。間取りは1DK。申し訳程度の玄関から、短い廊下、ダイニングキッチン、六畳の洋室が縦に並ぶ。洋室の奥のサッシ戸を開けると、コンクリート敷の物干し用のスペース、テラス? があって、その向こうがすぐに水路だった。テラスの幅は2メートルくらい。
テラスと水路の間は金網のフェンスで仕切られていた。僕の胸くらいの高さ。フェンスから顔を出して下を見ると、コンクリートブロックの底を、海色の水が左から右へ、ゆっくりと流れていた。
水路の幅は30メートくらい。海に向かって段々に広くなっている。
対岸も住宅街。コンクリートブロックの上に住宅が並んでいた。
水が流れる方に目を遣ると、少し先に橋があった。海外沿いの道路の橋だ。橋の向こうにかろうじて海が見えた。橋桁の少し下、遥か遠くの水平線。水路の幅、橋の長さの、海。
二階の部屋からはもっとよく海が見えるのだろうけれど、僕が部屋を借りた時にはもう二階に空き部屋はなかった。
大学へは自転車で15分。朝、自転車を漕いで坂道を登るのは少しきつかったけど、振り返れば海が見えた。アパートのテラスから見るよりも遥かに広い海が。天気のいい日には水平線もしっかり見えた。帰り道は自転車を転がしながらゆっくりと坂道を歩いた。夕陽に染まる海を見ながら。
沙季さんは僕と同級生で、大学の同じゼミで知り合った。人付き合いが下手な僕に好意を持っていてくれていたなんて、少しも気付かなかったけど。
大学を卒業した後、明確な夢も目標もなかった僕は、そのまま大学に事務職員として残った。それまでと同じようにそこから海を見ていたかったから。アパートの契約も更新して、そのまま同じ部屋に住み続けることにした。引っ越すのが面倒だったから。
沙季さんは大きな会社に就職して、都会で働くことになった。
社会に出れば見える世界も変わる。会社にはきっと僕なんかよりずっと素敵な、しっかりした男性もたくさんいる。きっと、そういうことなのだろう。
「わかった」
僕は短く答えた。
「……ごめんね」
沙季さんが言った。沙季さんが謝るべきことなのだろうか。そんなことを思った。
「寒いね」
僕はそう返した。
「そろそろ帰ろうか」
沙季さんは黙ってうなずいた。
「駅まで送るよ」
僕が立ち上がると、少し遅れて沙季さんも立ち上がった。
「ありがとう」
そう言って、沙季さんが初めて、僕の顔を見た。
四月。大学の新学期が始まった。
慌ただしい毎日は沙季さんのことを忘れさせてくれていた。でもやっぱり、僕の心の中にできてしまった空洞はなかなか埋まらない。
気が沈む、という言い方がある。僕の場合は違った。空洞ができた分、自分の身体が軽くなってしまったように思えた。仕事をしていても、何となく身体がふわふわ浮かんでいるような気がした。強い風が吹けばすぐに飛ばされてしまいそうな。
遠くに見えるあの海の水が、僕の心の空洞を満たしてくれればいいのに。そんなことを思った。
そう言えば……
思い出した。前にも、こんなんことがあった。
小さい頃、僕は両親以外の人とうまくコミュニケーションを取ることができなかった。いわゆる「発達障害」だ。小学校に入学してからもクラスの人たちや先生と話すことができなかった。
ある日、両親が1メートル四方くらいの水槽を買ってきた。次の日、その中に1匹の熱帯魚がいた。
今から思えば僕の発達障害の治療のためだったのだろう。後になって、ペットを飼うことがと発達障害の改善に効果があるという話を聞いた。でも当時、僕の家はマンションだった。動物を飼うことは禁止されていた。それで、熱帯魚だったのだろう。
青かった。その熱帯魚は、きれいな青い色をしていた。
熱帯魚の性別はわからなかった。でも僕は、その熱帯魚を「ヒメ」と呼んだ。童話の「人魚姫」から連想した、のだと思う。
ヒメ。人魚のお姫様。僕の、お姫様。
それから毎日、僕は水槽の中のヒメに話しかけた。
もちろんヒメは何も答えてくれない。ただ、水槽の中をゆっくりと泳いでいるだけだ。それでもヒメが、僕が水槽の中に入れたエサを食べてくれると、それだけで嬉しかった。ヒメが正面を向くと、僕に話し掛けてくれているように思えた。
ヒメのお陰で僕の発達障害は少しずつ改善の方向に向かって行ったように思う。学校の先生や、クラスの中の何人かとは話ができるようになった。
でも……
ある日、ヒメが死んだ。
学校から帰ると、水槽の上にヒメが浮かんでいた。
その後のことはよく覚えていない。ただ、心の中に大きな空洞ができて、その分僕自身が軽くなってしまったような気がしたのは覚えている。
そう、今の僕と同じように……
それからしばらくして、両親が水族館へ連れて行ってくれた。きっと落ち込んでいた僕を慰めるためだろう。
水族館で、たくさんの魚を見た。大きな魚、小さな魚、赤い魚、黄色い魚。ヒメのような青い魚もいた。
僕は水族館の中ではしゃぎまくっていた。僕があんなにはしゃいだのは、たぶん生まれてから初めてのことだったと思う。
その日僕は、海を見た。生まれて初めて、本物の海を見た。水族館の中の展望レストランからだったと思う。
初めて見る海は、青かった。大きかった。水平線があることが不思議だった。
それ以来、僕は海が好きになった。いや、その時気付いた。海を見る前から、僕は海が好きだった。ヒメが生まれた、海。たくさんの魚たちがいる、海。僕の名前は、太平洋の「洋」。僕はあの海に、ずっと前から、憧れていた……
その日を境に、僕の発達障害は改善して行った。ヒメの後、魚を飼うことはなかった。しばらく空のままだった水槽もいつの間にか無くなっていた。
今では普通に人とコミュニケーションを取ることができる。とは言っても、今もけして人付き合いが上手なわけでなはない。話し上手なわけでもない。高校でも大学でも、「無口だ」「暗い」てよく言われた。
そんな僕に沙季さんの方から交際を申し入れてくれたのは、思えば奇跡に近い。でも、今ではそれも……
夜。大学から帰った僕は、テラスに出てぼんやりと水路を見ていた。
暗い水面が微かに光っていた。対岸の住宅の灯りを反射しているのだろう。
静かに流れる水の音が聞こえた。
海の方を見た。橋の向こうにわずかに見える海は、沙季さんと別れた、あの夜と同じ色をしていた。
その時。
『キンコンカンキンコン、キンコンカンキンコン、キンコンカンキンコン』
鉄琴をたたくような音がした。周りを見回して、ようやく気が付いた。ズボンのポケットに入れていたスマホだ。スマホが鳴っている。僕はスマホを取り出した。
『津波警報』
画面に大きくそう表示されていた。
津波? 地震のような揺れは感じなかった。それなのに津波? そう思った。
その表示のすぐ下。
『沿岸部の方は直ちに高台など安全な場所に避難してください』
沿岸部? ここは……沿岸部だけど。
スマホのニュースの画面を開いてみる。
『日本近海の太平洋で海底火山噴火』
海底火山?
さらに。
『太平洋沿岸に津波警報』『1時間程度で津波到達の恐れ』
すぐにまたスマホが鳴った。今度は電話の着信音。母親だ。僕は受信ボタンをタップした。
「大丈夫? 津波警報が出てるよ。あなたのとこ、海に近いから」
「うん、今は大丈夫」
「すぐに避難するのよ」
「うん、わかった」
そう答えた。
続けてまた電話が入った。今度はアパートの大家さんだ。大家さんは年配のご婦人で、アパートから少し離れた高台に住んでいる。
「すぐに避難してくださいね」
大家さんも母親と同じことを言った。
「大学まで行けばきっと安全ですよ」
大家さんが続けた。
「わかりました」
僕はそう答えた。
二人からの電話がなかったら、きっと僕はそのまま海を見ていたんだろう……そのまま津波に飲まれて海に吸い込まれてしまったら……それならそれで……
そんなことを少しだけ思った。
いや、だめだ。もしそんなことになったら、両親も悲しむだろうし、大家さんにも迷惑がかかる……
そんなことを思いながら、僕は大学に向かって自転車を漕ぎ出していた。
大学に着いた。建物の窓には明かりが灯っていた。すでに避難してきた人たちがいるのだろう。学生や職員だけじゃなくて、近くの住民の人たちも避難してきているのかもしれない。僕はいつもの仕事場の事務室に向かった。
事務室には既に何人か職員がいた。事務室に入るとすぐに来客用の応接スペースがある。低いテーブルとソファ。テーブルの上にパソコンが置かれていて、職員の先輩たちが何人か、ソファに座ったり、その後ろに立ったりしてそれを見ていた。
僕に気づいた先輩職員が僕の方を振り向いた。僕が会釈をすると、黙ったまま軽く手を上げてまたすぐにパソコンの方に向き直ってしまった。職場での僕の存在はそんなものだ。
パソコンには上空から見た海底火山の噴火の様子が映し出されていた。人工衛星の画像だろう。海面から大きな煙のかたまりが盛り上がってくる様子が何度も繰り返されていた。
僕は自分の事務机に向かった。机の上の自分専用のパソコンを立ち上げ、テレビに繋げた。
テレビでは、緊張した面持ちのアナウンサーがしきりに海の近くに住む人たちへの非難を呼び掛けていた。
スマホにラインが入った。沙季さんからだった。別れた後も、沙季さんとのラインはそのままにしてあった。
『大丈夫?』
少し考えてから、返事を打った。
『大丈夫。今、大学にいます』
『よかった。気を付けて』
『沙季さんも……』そう打ちかけて、やめた。沙季さんの家は海からはだいぶ離れたところにある。僕が心配する必要はない。僕が死んだら、今でも沙季さんは、悲しんでくれるだろうか? そんなことを、少しだけ思った。
深夜。日付が変わった。パソコンに繋げたテレビは点けたままにしていた。テレビでは各地の海岸や港の様子が映し出されていた。海岸沿いの道路や桟橋に波が打ち付けられている。でも、建物や車が波に飲まれるような画像はない。大きな被害はないようだ。
画面の下の方には各地で観測された津波の高さがテロップで表示されていた。1メートルくらいのところが多いけど、中には2メートル近いところもあった。
僕のアパートは、どうだろう。テレビにはこの近くの様子は映し出されていなかった。この程度ならアパートまで津波が届くことはないだろう。そう思った。でも、アパートのすぐ裏は水路だ。津波は水路を登ってきたかもしれない。
僕が心配していたのは、今のアパートに住むことができなくなって、引っ越さなければならなくなることだった。あの部屋が好きだった、わけではない。ただ、そうなったら面倒だなって、そう思った。
何度か繰り返して押し寄せていた波も、夜明け頃には治まっていた。津波警報は注意報になった。僕はパソコンを閉じて、椅子に座ったまま、少しだけ眠った。
翌朝。津波注意報も解除になった。大学の周辺に大きな被害はなかったようだけど、それでも大学は臨時休校になった。
学生たちの安否確認と休校を知らせるメールの発信は僕たちの仕事だった。
昼過ぎ、一通りの仕事を済ませて建物から外へ出た。空は、晴天だった。僕は自転車を転がして、アパートへ向かった。遠くに見える海は、何事もなかったかのように、穏やかだった。
アパートは無事だった。部屋のドアを開けて、玄関から中を覗く。部屋の中の様子は部屋を出る前と少しも変わってない。灯りを点けてみた。点いた。電気は大丈夫だ。
部屋の中に入る。短い廊下の左側に浴室、右側にトイレと洗面台がある。洗面台の水道から水を出してみた。大丈夫。きちんと出る。廊下の先はダイニングキッチン。左側の壁沿いがキッチンスペースになっていてシンクとコンロがある。シンクの水道も大丈夫だった。水が出る。ガスコンロも大丈夫。きちんと火が付いた。その奥の洋室にも変わった様子はない。
テラスと水路の様子を確かめようと思い、奥の部屋のサッシ戸を開けて外を見た。テラスの隅に置いてあった掃除道具が散乱していた。掃除道具を入れていた段ボールの箱はビショ濡れになって潰れていた。テラスまで水が押し寄せてきたということだ。もう少しで床上まで浸水していたところだ。ギリギリセーフ、だった。ここより海岸に近い家ではもっとたいへんなことになっているかもしれない。そう思った。
水路の方に目を向けた。庭と水路を仕切る金網のフェンスの向こう側に海藻のかたまりのような物が見えた。直径は、30センチくらい。フェンスとその下の水路のコンクリートブロックの間のわずかな隙間。そこに引っかかるように。まるで、金網にしがみつくようにして。
きっと津波で海から運ばれてきたのだろう。水をかけて水路に押し流してしまおうか、そう思った。でも今日は天気がいい。そのままにしておいても、すぐに乾燥して風に飛ばされてしまうだろう。そう思い直した。
その時。その海藻のかたまりの中から細い棒のような物が突き出しているのに気が付いた。二本。長さは数センチ。色は……白、いや、ほとんど透明だ。
その棒は、動いていた。円を描くように動いていた。それは、「手」に見えた。よく見ると、先端には細い指のようなものもあった。ただ円を描いているだけでなく、その指はしきりに何かを掴もうとしていた。
その「手」は、助けを求めている。僕にはそう見えた。
僕はテラスに出て、海藻のかたまりの近くにしゃがみ込んで金網越しに覗き込んでみた。海藻のかたまりはゼリーのような物で覆われていた。その真ん中あたりから小さな手が突き出していて、細い指を閉じたり開いたりしながら円を描いている。
フィギュアだろうか。そう思った。でもその手は生き物のように動いている。よくできたおもちゃだろうか。突き出した手の周りは海藻に囲まれていて見えない。
中にいる物が何なのか確かめてみようと思った。
水路のブロックの上、フェンスの向こう側にはちょうど海藻のかたまりが乗る幅、30センチくらいのスペースがあった。僕は金網によじ登り、水路に落ちないように気を付けながらそのスペースに降り立った。
水路の対岸からは僕の姿は丸見えだ。普段ならこんなことをしていたら怪しまれたかもしれないけど、今なら津波の後片付けという言い訳が立つ。
僕は右手で金網を掴みながら、左手を伸ばして突き出た小さな手のすぐ上、もしそれが本当に手であれば、たぶん「顔」があるあたりを掻き分けてみた。
宝石があった。青い、宝石。そう、それは宝石に見えた。僕は宝石に詳しいわけじゃない。でも、知っている宝石に例えるなら、それは、サファイア。青いサファイア。
でも……宝石だとすれば、かなり大粒だ。海藻を掻き分けた部分だけでも、直径3センチくらいはある。ひょっとしたら、海藻のかたまり全体が、大きな宝石を包み込んでいるのかもしれない。
よく見ると、海藻の中のサファイアの、その中にまた、小さな宝石があった。二つ、並んで。周りの宝石よりも一段と輝いて見える。きらきらと。波打つように。
それは……ダイアモンド。
ようやく理解した。目だ。浮かんでいる二つ宝石は、目だ。ということは、目の周りの宝石は、顔。思えば、突き出た手のすぐ上だ。そこに顔と目があっても不思議じゃない。
だとすれば……やっぱり、フィギュア?
もちろん人間じゃない。動物か、魚? でもこんな動物も魚も見たことない。
僕は、その顔に自分の顔を近づけた。
二つの目が、揺れていた。海藻を包むゼリーか、あるいは中の水分のせいでそう見えるのかもしれない。でも……違う。僕は思った。
泣いている。その目は、泣いているんだ。助けて、て言っている。その目は、僕に、僕に向かって、助けて、て言っている。
かたまりから突き出た手はずっと円を描くように動いている。生きている。おもちゃじゃない。この手も、そしてこの目も、確かに生きていて、僕に助けを求めているんだ。
助ける? でも、どうすればいい? 水の中に返してあげればいいのだろうか。このまま水路に投げ入れてやる? 水面までは2、3メートルはある。ちょっと乱暴だ。それにこの、生き物? が、本当に水の中に住む生き物なのかどうかもわからない。でも、このままにしておいたらきっと、海藻と一緒に干からびてしまうだろう。どうしよう。
「ちょっと待ってて」
そう言って僕はまた金網をよじ登り、一旦部屋に戻った。
洋室の向こうにあるダイニングキッチンのコンロとシンクの下は戸棚になっている。僕はその戸棚からビニール袋とビニール紐を引っ張り出した。そしてビニール紐をフェンスの高さより少し長めにハサミで切って、その一方の端をビニール袋の取っ手の部分に結び付けた。それを持って、僕はまたテラスに走った。
フェンスの前でもう一度海藻のかたまりを見た。小さな手は、まだそこにあった。
僕はビニール袋に結び付けた紐のもう一方の端を金網の一番上に縛り付けて、ビニール袋を水路側に落とした。海からの風に袋がたなびいた。僕も再び金網をよじ登り、水路側に降りた。
紐を手繰り寄せ、ビニール袋を手に持って海藻のかたまりに近づく。右手で金網を掴みながら、左手でかたまりの下にビニール袋を差し入れる。それからかたまりを押して袋の中に押し込もうとした。ゼリー状のかたまりは思ったよりもしっかり張り付いていて、なかなか動かない。かたまりの中の生き物とまた目が合った。すがるような目。
僕は一瞬だけ右手を離して、両手でかたまりを押した。うまくいった。海藻のかたまりはその中の生き物ごとビニール袋に収まった。でもその重みでビニール袋が水路の方に落ちてしまった。
「うわ!」
僕は声を上げた。次の瞬間、ドサッ、とうい感触とともにビニール袋は静止して、フェンスのすぐ下に宙づりになった。僕が結び付けた紐がしっかりと袋を掴んでいた。ほっとした。
僕は紐を引き上げて再び塀の上に袋を置いた。中を覗いた。海藻しか見えない。生き物は海藻の下に埋まってしまったようだ。
驚いただろう。
「ごめん」
僕は謝った。
ビニール袋の取っ手をしっかりと結んで、金網をよじ登った。フェンスの上にまたがって、袋を引き上げる。ずっしりとした重みが感じられた。今度はテラスに向かってゆっくりと袋を下ろす。袋の中の海藻のかたまりとその中の生き物は、無事にテラスに着地した。
僕もテラスに飛び降りた。紐をほどいて両手で袋を持ち上げる。そのまま部屋に入ると、浴室に走った。
薄暗い浴室に灯りを点けて、中に入る。浴槽にお湯は張っていない。僕はビニール袋を持ったまま空の浴槽に入って、クリーム色の浴槽の底に、そっとビニール袋を置いた。
取っ手の結び目を解き、袋を横にした。袋の中に手を入れる。ヌルッとしたゼリーと海藻の感触。袋の底を引っ張りながら、中にある海藻のかたまりを浴槽に掻き出した。海藻のかたまりが回転しながら浴槽に滑り出す。
その中央に、その生き物は、いた。僕の方に背中を向けて、海藻の中に顔を埋めていた。崩れかけた海藻のかたまりの中心の部分を抱きしめるようにして、うずくまっていた。
その生き物が、僕の方に向けているのが背中であること、そしてその生き物がそういう姿勢を取っていることは、生き物の全体の形から判断できた。でも……それにしても……
その生き物、それは、「人魚」だった。
そう、人魚。でも、僕が知っている、絵本やアニメに出て来るような「人魚」とは、違う。全く違う。
その背中には、白くて細い、柔らかそうな、触手、が、生えていた。毛、ではない。触手だ。白、ていうより透明に近い。海藻のかたまりから突き出ていた「手」と同じ色。でもあの「手」よりもはるかに細い。「手」は二本だったけど、背中の触手は、無数にある。それが、肩、そう、人間で言えば肩のあたりから、背中、そして腰のあたりにかけて、Ⅴ字型にびっしりと生えている。海藻の中に埋めた頭の後ろから首のあたりにも生えているように見える。
腰から先の下半身……その形は、魚。いや、魚よりもイルカに近い。その色は、海藻に埋まっていた顔と同じ、青い、サファイア。鱗はない。
先端にあるのは、尾ひれ。その形もイルカに近い。尾ひれの先端の方は、触手と同じようにほぼ透明だ。
その生き物は、その姿勢のまま、動かない。僕の扱いが乱暴だったから、気を失ってしまったのか。あるいは死んでしまったのか……僕は顔を近づけた。
その時。その生き物が、動いた。クルリッ、と回転して、うつ伏せの姿勢になって、僕の方に頭を向けた。そして両手を突いて、ゆっくりと、上半身を起こした。生き物が、顔を上げた。僕に向かって、顔を上げた。
あの目が、僕を見ていた。真っ直ぐに僕を見上げていた。サファイアの中で、一段と輝いていた、ダイアモンド。
大きな目、だった。大きな、ていうのは僕の印象であって、実際の大きさは1センチもないだろう。でも、顔全体に対する比率、て言う意味では、やっぱり、大きな、目。
海藻のかたまりの中で、その目は、揺れていた。泣いていた。僕に助けを求めていた。
そしてその目は……今も揺れている。喜んでいるのか、驚いているのか……わからない。でも、怖がっては……いない。僕に向かって、「ありがとう」て、そう言っている。僕にはそう見えた。
目の下には小さな鼻孔があった。けして高くはないけど、人間の鼻のようなふくらみもある。高くない、ていうのは、これも顔全体のバランスから見た僕の印象だ。
そしてその下に、丸く開いた、小さな口。ぽかん、と、開けた、口。
サファイアの中に開いた、小さな鼻と口。本物の宝石なら、あり得ない。
顔全体の印象は……少女。あどけない少女の顔に見える。でもその色は、サファイア。人間の少女、ていうより、やっぱり、フィギュア……か。
その表情は、驚いているようにも見える。珍しい物を見て。もちろん珍しいに決まってる。人間を見るのは、きっと初めてだろう。僕だって、こんな生き物を見るのは初めてだ。
背中に生えていた触手が、顔の上、人間ならば、頭髪が生えている部分にも生えていた。触手は、顔を隠さないように真後ろに流れて、背中までに届いている。だからそれは……髪の毛に見えた。長くて、柔らかな、透明な、髪。
頭から首、肩の形も人間とほぼ同じ。肩の感じも、少女らしく見えた。そしてその肩から伸びる、細い腕。その色は、身体と同じ青から、先端に行くにつれ、白、そして透明へと徐々に変化している。手の先端には指があった。細くて長い、五本の指。この手がさっき、海藻のかたまりの中から僕を呼んだ。そして今は、浴槽の中で自分の上半身を支えている。
下半身は今、真っすぐに伸びてきれいな流線形を描いている。全長は、20センチくらいだろうか。
触手以外の身体の色は……やっぱり、青。サファイアの青。全身が透明な膜のような物で覆われているようにも見える。
クリスタルの中の、サファイア。いや、違う。思い直した。
海だ。青く輝く、海だ。白い触手は、波。海と波。この生き物は、海の一部をそのまますくい上げてきたような、そんな生き物だ。
「はじめまして」
僕はその生き物に話しかけた。
驚いたのか、生き物はまたクルリッ、と後ろを向いて、海藻の中に潜り込んでしまった。
顔を近づけると、海藻の中からあの目が僕を見上げていた。照れているように。恥ずかしがっているように。
取りあえず生き物を無事に保護することはできた、ようだ。でも、こらからどうしよう……どうすればいい?
僕は考えた。「人魚」のようなこの生き物は、やっぱり海に住んでいたのだろう。きっと津波でここまで運ばれてきてしまったのだ。であれば、海に返してあげるのが一番いい。
水路に投げ入れるのは、やっぱり乱暴だ。そんなことできない。バケツか何かに入れて、海岸まで行って、海に放してあげるのがいいだろう。
でも……こんな生き物、今まで見たことない。新発見かもしれない。あるいは僕が知らないだけだろうか。いずれにしろ、一度専門家に見てもらった方がいいのでは……そう思った。
大学へ行けば生物の専門の教授がいるだろう。明日、大学へ行ったら教務課の主任に話して専門の教授を紹介してもらおう。ひょっとしたら、僕が新生物の発見者になるかもしれない。有名になりたいとは思わないけど。
それなら、今日はとりあえず、このまま……
決めた。僕はこの「人魚」を、このまま一晩、浴槽の中に置いておくことにした。
人魚は海藻の「ベッド」に潜り込んだままだ。このままでいいだろうか。
今更ながら気が付いた。人魚はさっき、海藻の中から起き上がっていた。ということは、空気中でも呼吸ができるということだ。しかし人魚の体形は、やはり水中向きに思えた。であれば、水の中の方が快適だろう。そう思った。
僕は人魚を残したまま浴槽を出て洗い場に立った。そして浴槽の脇の壁から出ている水道のレバーを持ち上げた。蛇口から浴槽に向かって勢いよく水が落ち始めた。
その音に反応したのか、人魚が海藻の中から顔を出した。そこでまた気が付いた。人魚が海に住んでいたとすれば、真水は有害かもしれない。ましてや水道水だ。僕は慌てて水を止めた。
人魚は水道水が出ていた蛇口を見上げている。水を欲しがっているように見える。僕は、レバーをゆっくりと上げて、少しだけ水を出してみた。水道水が水滴になって浴槽に落ちる。
人魚が海藻から這い出してきた。滑るように蛇口の下に移動して、その顔に水滴を浴び始めた。やっぱり水が欲しいのだ。
レバーをもう少しだけ上げてみた。水滴が細い水の柱になった。人魚は身体を回転させて、全身に水を浴び始めた。僕は更にレバーを上げて、水の勢いを強くした。人魚は水の柱の周りをクルクルと廻り始めた。喜んでいる、ように見えた。
どうやら水道水も苦手ではないらしい。僕はほっとした。水道水を嫌がるようであれば、海岸まで行ってバケツで海水を汲んで来なければならないだろうと思っていた。浴槽をいっぱいにするには海岸まで何往復もしなければならなかっただろう。
浴槽の底に水が溜まってくると、人魚は浴槽の中を泳ぎ始めた。狭い浴槽の底を回遊するように。
早い。なかなかのスピードだ。その姿は、かっこいい。美しい。両腕を後ろに伸ばして、尾ひれを上下に波打たせる。映画やアニメで見たことがある、人魚の泳ぎ。まさに、人魚だった。
浴槽の3分の2くらいまで水が溜まったところで水道を止めた。人魚は一旦泳ぐのをやめて、水面に顔を上げた。水の止まった蛇口を確かめるように見上げると、すぐにまた泳ぎ始めた。
人魚は回遊を続ける。僕は浴室の床に座り込んで、浴槽の縁に肘をついて、中を泳ぐ人魚の姿を追い続けた。飽きなかった。いつまでも見ていることができた。
いつの間にか海藻のベッドはバラバラになっていた。人魚はどこで眠るのだろう、そんなことを考えた。
どれくらい時間が経っただろう。人魚が泳ぐのをやめて、水面に顔を出した。蛇口ではなく、僕の顔を見ている。僕を見上げながら、丸い口をパクパクと動かしている。
僕にはわかった。「お腹が減った」、そう言っているのだ。
どうしよう。人魚は、何を食べる? 魚? 肉? 人魚といっても、この人魚はまだ子供に見える。生まれたての赤ちゃんかもしれない。であれば、まず。
「ちょっと待ってて」
僕は立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、飲みかけの牛乳のパックがあった。食器棚から小さめの皿を取り出し、牛乳のパックと皿を両手に持って浴室に戻る。
僕が浴室に入ると、水の中に潜っていた人魚が顔を出した。僕は浴槽の縁に皿を置いて、そこに牛乳を注いだ。人魚はいったん水に潜ると、すぐに皿の前に顔を出した。そして、浴槽の縁に手をかけて、身体を乗り出すようにして、皿に顔を付けた。あっという間に皿の牛乳がなくなった。
人魚が顔を上げた。顔が牛乳で白くなっていた。その顔が可愛くて、僕は笑ってしまった。人魚が少し恥ずかしそうな表情をしたように見えた。
人魚は一旦水に潜って、また顔を上げた。顔はきれいになっていた。また口をパクパクと動かしている。僕は皿に牛乳を注いだ。人魚がまた皿に顔を付ける。そうやって、結局人魚はパックに入っていた牛乳をすべて飲み干してしまった。
お腹がいっぱいになったのか、人魚は浴槽の底に沈んで猫のように丸くなった。そのまま眠るのだろうか。
急に僕も、眠くなった。ポケットに入れてあったスマホで時刻を見た。夜の11時を回っていた。昨夜もほとんど眠っていない。明日は大学に行かなければならない。僕も睡眠を摂らないと。
もう一度人魚の様子を確認する。丸くなったまま動かない。もう眠ってしまったのか。僕は顔を近づけて浴槽の底を覗き込んだ。
人魚が少しだけ顔を上げて僕を見た。きらきらと輝いていた目が、横に細くなった。目を閉じたのだ。
すぐに顔を伏せて、一度、尾ひれを振った。おやすみのあいさつ、ていうことか。
「おやすみなさい」
僕も人魚にそうあいさつして、立ち上がった。浴室の出口でもう一度、振り返って浴槽を見た。浴室の扉は開けたまま、僕は浴室の灯りを消した。
翌朝。洋室のフローリングに敷いた布団で眠っていた僕は、スマホのアラームで目を開けた。
すぐに浴室へ向かった。灯りを点けて浴槽を覗き込む。人魚はもう目を覚ましていて、浴槽の中を回遊していた。
僕に気が付いた人魚が水面から顔を出した。スイ、と僕の方に近寄ると、浴槽の縁に手をかけて、身を乗り出した。僕を見上げる。そして口をまた、パクパクと動かし始めた。お腹が減った、ていうことだ。
僕はキッチンへ行って冷蔵庫を開けた。牛乳は昨夜、全部人魚にあげてしまった。食べ物は……スライスされてパックに入った、ハムとチーズがあった。戸棚を開けると食パンがあった。
ハム、チーズ、食パン。人魚は食べるだろうか。
僕は一枚の食パンを半分にちぎった。そしてそれをさらに小さくちぎってから、手のひらの上で軽く丸めた。人魚が食べやすいように。それからハムとチーズを一枚ずつ、包丁で細かく刻んだ。人魚の口の大きさは数ミリだ。その口に入るように。それを皿に乗せて、浴室へ入った。人魚は浴槽の縁に手と顔を乗せて、僕のことを待っていた。
人魚の目の前に皿を置いた。人魚が皿に顔を付けた。前の日に牛乳を飲んだ時と同じように。そして食パンとハムとチーズを食べ始めた。噛んでいるような様子はない。小さな口から吸いこんでいるように見える。
間もなく、皿の食べ物はきれいになくなった。人魚が顔を上げた。浴槽の縁につかまったまま僕の顔を見ている。口をまたパクパクさせている。まだ足りないということだ。
僕はキッチンへ戻って、ちぎった食パンの半分を自分の口に咥えると、残りの食パンとパックの中のハムとチーズを全部、細かく刻んだ。それを皿に乗せると皿は山盛りになった。
浴室へ行って浴槽の縁に皿を置くと、人魚はすぐに山盛りの食べ物の中に顔をうずめた。僕は食パンを食べながらその様子を見ていた。皿からパンやチーズの欠片がこぼれる。僕はそれを拾って皿に戻してあげた。
皿は再び空になった。人魚は水の中に潜って、皿から落ちて水に浮いていた食べ物の残りを水の中から器用に吸い込んだ。
浴槽の中に落ちた食べ物もきれいになくなった。人魚が浴槽の底に沈んで丸くなった。満足したのだろう。
スマホで時刻を見ると、出勤時間になっていた。急がないと遅刻する。まだまだ人魚といっしょにいたかったけど、仕方がない。
「行ってきます」
そう言って、僕は浴室を出た。
大学に向かって自転車を漕ぎながら、僕は考えていた。
大学へ着いたら、教務課の主任に人魚のことを話す。信じてもらえないかもしれない。それでも、生物学の教授か、とにかく専門家を紹介してもらって……
それから、その専門家といっしょにアパートへ戻って、人魚を見てもらう。主任もいっしょに来るかもしれない。ひょっとしたら、もっと大勢の人がいっしょに来るかもしれない。人魚は、驚くかな……
人魚が新発見なら、マスコミにも紹介されるかもしれない。あの人魚が、ニュースで全国に、いや、全世界に紹介される。
その後、人魚は……大学の研究室で飼われることになるのだろうか。大学に大きな水槽はあっただろうか……それともプールで?
そして、研究される。どんな場所に住んで、どんな風に生活するのか。何を食べるのか。身体の構造は、どうなっているのか。レントゲンで? まさか生きているまま解剖されることはないだろうけど……
採血されて、遺伝子を調べられる。どんな風に進化したのか。そして、どんな風に、生殖するのか……
──ヒメ
突然、ヒメのことを思い出した。僕の部屋にいた熱帯魚の、ヒメ。ヒメも、あんな青い色をしていた。
水槽に浮かんでいたヒメの姿を思い出した。大学で研究されたら、あの人魚もあんな風に……
大学に着く前に、僕の心は決まっていた。
あの人魚のことは、誰にも話さない。あの人魚のことは……僕だけの秘密だ。