泳げ。
 遠くへ。できるだけ遠くへ。
 大きな危機が迫っている。
 彼女の本能が彼女にそう呼び掛けていた。
 彼女自身もまた、海底から響いてくる振動や水温の変化を敏感に感じ取っていた。
 危ない。ここにいては危ない。
 水平方向に泳ぐことは海底に向かって垂直に潜水するよりはたやすい。水平方向にひたすら泳げば、逃げ切れるかもしれない。でももし、力尽きてしまったら……

 彼女が生息していた範囲は面積という概念で言えば極めて狭い。
 小さな島があった。島と言うには小さすぎる。海面に突き出た岩礁といった方が良いかもしれない。その岩礁の周辺のわずかな海域、それが彼女のいた場所だ。
 しかし空間という概念で言えば、そこはけして狭くはない。「空間」という言い方は違うかもしれない。そこは、海の中なのだから。
 岩礁の西側は海底に向かってほぼ垂直な断崖になっていた。断崖は海底まで数キロメートルの深さまで続いていた。海上の岩礁から砂の溜まった海底まで、そのすべてが彼女の生活範囲だった。
 食料は豊富だった。断崖に張り付いた貝類や海底の砂の中に潜む甲殻類はもとより、海中を泳ぐ魚類やイカ類を捕まえることも彼女にとっては難しいことではなかった。
 一定の時間、海面上で空気を吸えば、それを胸の中に溜めて、ほぼ一昼夜、海中を自由に動き回ることができた。
 海上で空気を取り込むのは、夜の間だけ。そのため、最も危険な生物である「人間」にその姿を見られることはなかった。
 もっとも、彼女が人間を知っていたか、人間が危険な存在であると認識していたかどうかはわからない。彼女の本能がそうさせていたのかもしれない。
 胸に取り込んだ空気が足りず、どうしても我慢できなくなって、日中、海面に姿を見せたとしても、彼女の皮膚の色が保護色となって人間の目から彼女を守っていた。そう、彼女の皮膚は、海の色をしていた。

 彼女は今、小さな子供を抱えていた。生まれたばかりの雌だ。その子の父親、つまり彼女の伴侶となるべき雄は、もういない。彼女と、そしてその子を守るために別の雄と戦って、死んだ。
 この子を、この子だけでも、助けたい。助けなければ。

 泳げ。
 遠くへ。できるだけ遠くへ。
 でも、もし自分が力尽きてしまったら……
 彼女は岩礁の周辺に生える海藻をかき集めて我が子を包んだ。さらにそれを自らが分泌した粘液で覆った。万が一、自分の手から離れてしまっても、こうしておけば多少でも衝撃を和らげることができるかもしれない。こうやって海面に浮かんでいれば、波が遠くへ運んでくれるかもしれない。
 彼女は水面に仰向けになり、我が子を包んだ海藻のかたまりを両手で抱えた。

 彼女が泳ぎ出した、まさにその瞬間。
 その時は、訪れた。