その日もいつも通りの一日のはずだった。
駿介と一緒に登校し、部活の朝練は基礎を中心に。ときどきうとうとしながらもしっかりと授業を受け、お昼は雪穂と一緒にお弁当を食べる。午後の授業の後はようやく部活動。トランペットパートのみんなと和気あいあい、ただし練習は手を抜かずに全力で取り組んだ。
そこまではいつも通りだった。部活動が終わると、駿介が萌を廊下に呼び出す。パートメンバーに聞かれたくない話かな、と思い、小声でどうしたの、と訊ねると、駿介は少し眉を下げて口を開く。
「ごめん。しばらくの間、朝練と部活後の練習に出られなくなった」
「えっ、そうなの? 何かあった?」
「あー…………ちょっと、いろいろ」
言葉を濁す駿介の様子に、萌は慌てて手を横に振る。
「あっ、言いにくいこととかだったら言わなくて大丈夫! ごめんね、無理にきいちゃって」
「いや、それは大丈夫。それで、練習に出られない間、雨宮のこと迎えに行ったり、送ったり出来なくなるから」
ごめん、と続いた言葉に、萌は思わず微笑んでしまう。
元々、一人で登下校をしていたのだ。途中で誰か知り合いと会えば一緒に帰ったりもするけれど、家まで送り迎えをしてくれているのは駿介が優しいからだ。
学校まで通うバスは、学校専用のものではなく市営バスなので、一般の人もたくさん乗っている。その中には悪いことを考える大人もいて、登下校中の女子高生を狙う痴漢が多発しているのだった。
以前その話題が後輩の口から出たとき、駿介が萌のことを心配して、送り迎えを申し出てくれたのだ。まだ付き合う前、萌は自分の気持ちにも気づいていなかった頃の話である。
「私のことは気にしなくて大丈夫だよ。朝練も居残り練も自主的なものだし、何か予定があるならそっちを優先していいと思う」
特に今の時期は、本番を控えているわけでもなく、一番近いイベントは身内で行われるクリスマス会だ。年が明けたら演奏会やコンクールに向けての準備が始まるが、それまでは各々基礎能力の向上をはかる期間になっている。
駿介は元々努力家で真面目な性格をしていて、その上部長を務める責任感もある。吹奏楽部の中で誰よりも練習していることは、みんな知っていることだ。
「むしろ矢吹くんは練習しすぎだから、ちょっとくらい身体を休めた方がいいと思う」
笑って告げた萌の言葉に、駿介はどうしてか申し訳なさそうな表情を浮かべる。
そんな顔しなくてもいいのに、と思うけれど、その優しさと責任感の強いところが、駿介の長所だと知っているので、萌はそれ以上何も言わなかった。
「朝と帰り、一人で大丈夫? 夜は暗いし、帰りだけでも裕也に一緒に帰るように言っておこうか?」
裕也というのは同じトランペットパートの後輩だ。
最近はずっと駿介が一緒に登下校してくれていたので、少し心細い気もする。だからと言って、後輩の裕也にわざわざ送ってもらうのも気が引ける。
一人で大丈夫だよ、と伝えて、まだ心配そうにしている駿介に小さな声で笑いかける。
「帰ったら、ちゃんと帰れましたってメッセージを送るね」
駿介は目を丸くし、それからようやく安心したように微笑んだ。
本当にごめんな、と謝る駿介の言葉の意味を知るのは、数日後のことだった。