しばらくの間、萌は泣いていた。早く泣き止まなければ、と焦れば焦るほど涙は止まらなくて、駿介がハンカチを貸してくれる。
借りたハンカチで涙を拭くと、少しだけ駿介の香りがした。たぶん、柔軟剤の香りだ。それがやけに落ち着いて、萌の涙も次第におさまっていった。
目が重たい。きっと腫れてしまっているのだろう。
頰が熱い。たぶん、顔は真っ赤だ。
何か言わなければ、と萌が口を開こうとすると、頭の中で優しい声が響いた気がした。
萌、勇気を出して、と陸の声。
頑張れ、雨宮ちゃん。不安もヤキモチも全部。雨宮ちゃんの本音をまるっと伝えておいで。と健也の声。
そうだ、萌は二人に背中を押されてここにいる。
このまま何も言わずに駿介を許してしまえば楽だろう。心にしこりは残るかもしれないけど、駿介に嫌な気持ちをさせることはない。
だけど、と萌は顔を上げる。
陸と健也。優しくて大好きな二人の友達、その二人の好意を無駄にしてはいけない。無駄にしたくない。
駿介と目が合った。まっすぐに見つめ合い、萌は口を開いた。
「私ね、ずっと矢吹くんに言いたくて、でもこわくて言えなかったことがあるの」
「言えなかったこと?」
繰り返された言葉に、小さく頷く。
萌は話した。つたなくて、たどたどしい萌の話を、駿介は頷きながら聞いてくれた。
麻衣との関係がずっと不安だったこと。
二人が付き合っているという噂を聞いて、落ち込んでしまったこと。
一緒に登下校する二人を見て、ヤキモチをやいたこと。
でもそれを口にするのはこわかったこと。
嫉妬する汚い自分も、駿介を信じ切れないかっこ悪い自分も、知られたくなかったこと。
口にしたら、駿介に嫌われてしまうんじゃないか、と恐れていたこと。
次第に目を見ていられなくなり、萌はまた俯いてしまった。駿介がどんな表情で聞いているのか分からない。怒っていないかな、気分を悪くさせていないかな、と不安になる。
でも言葉は紡ぎ続けた。
健也に何度も励ましてもらったこと。
その優しさに少し心が揺れたこと。
告白をしてもらって嬉しかったこと。
でも、昨日しっかりとお断りの返事をしてきたこと。
偶然会った陸に話を聞いてもらったこと。
約束をすっぽかしたのに特別な理由なんてなかったなら別れればいい、だから勇気を出して聞いてごらん、と背中を押してもらったこと。
いつのまにか駿介の相槌が止まっていた。
萌はおそるおそる顔を上げる。駿介の表情が曇っている。
どの言葉が駿介を傷つけてしまったのだろう。
思わず口をつぐむと、駿介は文字通り頭を抱えてみせた。
「あー…………たぶん俺これから先ずっと、健也にも、速水にも、頭が上がらないわ」
「……それは、そうかも」
「珍しく雨宮が辛辣…………」
テーブルに突っ伏した駿介は、怒っているというよりは落ち込んでいるようだった。
駿介のそんな姿は珍しい。どんなときでも前を向いている、強い人だから。
萌は駿介の頭を撫でてみた。ワックスで髪をセットしているのか、撫で心地はあまり良くない。だけど、なんだか気持ちが優しくなるような、心の中がほんのりとあたたかくなるような、そんな気がした。
髪の合間から見える駿介の耳が、赤く染まっていく。その色が、萌を励ましてくれた。
「ねぇ、矢吹くん。でも私、それでも矢吹くんが好きなんだよ。優しさが空回りして、私のことを不安にさせちゃうようなことがあったとしても、矢吹くんが好き。大好き」
信じてくれる? と小さな声で訊ねると、駿介がゆっくり顔を上げた。
頭を撫でていた手が空中を彷徨ったのはほんのわずかな時間だった。すぐに駿介の手によって捕まえられて、ぎゅっと握られる。
駿介の頰が赤かったので、萌は自然と顔が綻んだ。
「信じるよ、当たり前じゃん」
「勝手にヤキモチやいて、勝手に不安になって…………呆れてない?」
「ううん。ごめんって気持ちと、嬉しすぎて走り出したい気持ちがせめぎ合ってる」
「なにそれ、わんちゃんみたい」
萌は笑った。駿介も、照れたように笑っていた。
ずっと一人で抱えていた重たい荷物。駿介に背負わせて、負担になるのがこわかった。嫌われてしまうかもしれないと不安だった。
それなのに、駿介は軽々と萌の気持ちを受け止めて、嬉しいと笑う。萌が抱えることに必死だった荷物を、片手でひょいと持ち上げて、萌の手を繋いでくれる。
もっと早く話せばよかった。駿介のことをもっとちゃんと信じればよかった。
でもこれでよかったのかもしれない。今回は躓いてしまったけれど、きっといつか、こんなこともあったね、と笑い合える日がくることを信じて。