水族館からの帰り道、健也は自分の知っていることを全て話してくれた。
健也の元に、突然駿介から電話がきたらしい。
萌と約束をしていたけれど、待ち合わせに遅れる、と連絡して以降電話が繋がらない。電話口で麻衣の声が耳に届いてしまったようなので、傷つけてしまったかもしれない。自分もすぐ待ち合わせ場所に向かうけど、健也の家の方が近い。頼むから見に行ってほしい、と。
「お前に頼むのは本当に悔しいけど、俺のプライドなんてどうでもいい。雨宮を一人にさせておく方が嫌だ。…………だってさ」
宣戦布告してきたライバルに様子を見に行かせるなんて、よっぽど心配だったんだね。雨宮ちゃんは愛されてるねぇ。
続いて紡がれた言葉には、何も返すことが出来ない。
それならどうして、と思ってしまう。
萌のことが好きならば。まだ好きでいてくれているというなら、どうして麻衣の家に行ったのだろう。約束の時間をおしてまで、わざわざ会いに行かなければいけない理由が分からない。
「…………私、矢吹くんの考えてること、よく分かんないな」
「だよねー。俺も俺も」
真面目に悩みを吐き出したというのに、健也はとても軽い口調で共感を口にする。
「本当に雨宮ちゃんのことが好きなら、他の女をズタボロに傷つけてでも、雨宮ちゃんを優先しろよ、って思うからなー」
「…………すごいこと言うね?」
「そう? でも本心だよ」
だからきっと健也は駿介に反省しろ、と言っていたのだ。
駿介にどんな理由があったのかは分からない。やむを得ないことなのか、それとも些細な用事か。
選べ、と健也は言っているのだ。
守れるのはたったひとつ。
天秤になんてかけるな。好きなら守れ。他の女を傷つけて、たとえ自分は恨まれたとしても、好きな女だけは守り抜け、と。
「五十嵐くんの考え方、かっこよくて好きだな」
「お。俺に惚れちゃう?」
「んー、正直ちょっと揺らいだかも」
いつもやわらかい色をしている瞳に、驚きの色が入り混じる。
萌も自分の口からこぼれた本音に、少しだけびっくりしていた。
健也の優しさも、愛情も、しっかりと萌の心の深い部分まで染み込んでいたのだ。だから萌は立っていられる。笑顔だって作ることが出来る。それは全部、健也のおかげだった。
「五十嵐くん、今日は本当にありがとね。見つけてくれたとき、私、現実から逃げちゃってた」
「そりゃあ約束すっぽかされたら辛いよ」
「……それだけじゃないの。篠原さんに対する嫉妬とか、矢吹くんへの不信感とか…………」
挙げ出したらキリがないほど、不安と不満が溢れかえっていた。
嫌われるのがこわいからと一人で抱え込んで、そのくせ逃げ出した。かっこ悪いことこの上ない。
「今回のは全面的に駿介が悪いと思うよ? まあ、麻衣もやりすぎだとは思うけどね」
さすがの俺でもクリスマスは遠慮したっていうのに、と続いたので、萌は少しだけ考えてみた。
もしかしたら、駿介と萌がクリスマスに約束していることを予想して、麻衣がわざと駿介を呼び出したのかもしれない、と。
仮にそうだとしても、駿介が呼び出しに応え、麻衣の家まで行ったという事実は揺るがないのが悲しいところだが。
萌の家が近くなってきた。辺りはすっかり暗くなっているので、今日みたいに落ち込むことがあった日は、一人で歩いていたら心細く感じるかもしれない。
健也のことを見上げ、萌は口を開いた。
「あのね、五十嵐くん。この間の告白の、返事なんだけど…………」
萌の安否を心配して、家を飛び出してきてくれた人。
きっと待ち合わせの駅前だけでなく、近くのカフェも探してくれたはずだ。
それから、駿介にデート予定だった水族館の場所を聞いて、電話をしながら飛び込んできた。
健也は、萌の気持ちに気づいている。もしかしたら、駿介と萌が付き合っていることも。
分かった上で、駿介のお願いを聞くのは、どんな気分だったのだろう。悔しい、腹立たしい、馬鹿馬鹿しい。いろんな気持ちが想像出来る。
でも、確かなことが一つある。そういう言葉にしがたい感情を全て飲み込んで、苦手な持久走に挑み、萌を探し出してくれた。その事実だけは、絶対に揺るがないのだ。
健也の優しさに、応えてあげたいと思う。でもきっと、それは彼の望む答えではないから。
「私、たぶん、ちょっとだけ五十嵐くんのこと、好きになってた」
「…………え」
「でも、ごめんなさい。私、もっと好きな人がいるの」
健也に対して気持ちが揺らいだのは確かだった。でも、それでも好きな人がいる。
まぶたを閉じれば、思い浮かぶのはいつだって駿介の笑顔だった。雨宮、と呼ぶ優しい声はいつでも脳内で再生出来る。
「そっか。まあ、そうだよね」
納得したような健也の反応に驚いて、萌は首を傾げる。
健也は少し眉を下げ、負け戦だったんだよ、と呟いた。
「あいつのことを考えて、泣いたり笑ったり、不安そうにしてたり、舞い上がったり。そういう雨宮ちゃんが、一番かわいいって知ってるからさ」
「五十嵐くん…………」
「だから、頑張れ、雨宮ちゃん」
不安もヤキモチも全部。雨宮ちゃんの本音をまるっと伝えておいで。
紡がれた言葉はどこまでも優しくて、萌はまた泣いてしまいそうになる。でも今度は、ちゃんと堪えることが出来た。
駿介のことを考えているときの表情と、それ以外のときの表情に、違いがあるなんて初めて知った。きっと人のことをよく見ている健也だから気づいたことに違いない。
それならば、今このときだけは。この瞬間だけは、健也のために笑顔を作りたい。健也のいいところをたくさん思い浮かべながら、萌は笑顔を見せる。
「ありがとう、五十嵐くん!」
「…………うん。雨宮ちゃんも、ありがとう」
最後に二人で握手をした。夢の時間はもう終わり。
自分で突き放したのだから、助けてくれる人はもういない。
それでも萌は、健也が向けてくれたたくさんの優しさに応えるために、前を向かなければいけないのだ。
いつものやわらかい笑みを浮かべ、ひらひらと手を振りながら帰っていく後ろ姿に、萌はもう一度、本当にありがとう! と声をかけた。
健也は手を上げて応えてくれたけれど、振り向くことはなかった。