健也はずっと萌の手を離そうとしなかった。痛いくらいに強く握ってくるので、いたいよ、と訴えてみたが、じとりと睨まれるだけで何も言ってくれない。
 導かれるままに水槽の並んでいたコーナーを抜けると、健也は萌を連れて併設されているカフェに向かった。四人がけの席に、なぜか横並びに座る。これではまるでカップルみたいだ。
 健也が何を考えているのか分からない。
 奢ってもらったあたたかいレモンティーを片手で持ちながら、横の健也を見上げる。彼は買ったばかりの冷たいコーヒーを一気に飲み干した。
 驚いて目を丸くする萌に、ようやく健也は口を開いてみせた。

「あのねぇ、言っておくけど、めっちゃ走ったから。俺は駿介と違って持久力はないの。短距離派なの。だけど本っ当に、死ぬんじゃないかってくらい走ったんだからね」

 健也が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
 そもそも、どうして健也がここにいるのかさえ、萌は分かっていないのだ。

「え、えっと…………?」
「とりあえず雨宮ちゃんもあったかいの飲みな。手、すごく冷たいから」

 健也に指摘されて初めて、身体が冷えていることに気がついた。猫舌なのでちびちびと飲み進めていると、健也の手がようやく離れていく。

「…………片手じゃ飲みにくいでしょ」
「あ、ありがとう…………」

 なぜ手を掴まれていたのかも分かっていないが、萌はカップを両手で持ち直す。冷たかった手が少しずつあたたまってくると、なぜだか凪いでいた心が揺らぐ気がした。
 途端に不安になって、先ほどの水槽のコーナーに戻りたくなる。

 暗闇を照らす光が綺麗で。
 静かに流れる優しい音楽が心地良くて。
 水槽という限られたスペースをのびのびと泳ぐ魚が、やけに眩しくて。
 幻想的で、世界から切り離された空間が羨ましくて。

 そこまで考えて、萌は自分が現実逃避をしていたのだと気がついた。
 黙って萌のことを眺めていた健也が、やわらかい声で呟いた。

「かわいいね」
「…………えっ?」
「雨宮ちゃん、いつもと雰囲気が違う。おしゃれしてる雨宮ちゃんも、かわいいよ」

 女の子が大好きな健也のことだから、きっとそんなセリフは言い慣れているのだろう。
 それでも萌は嬉しかった。
 さっきまでひとりぼっちだった。精一杯背伸びしておしゃれをしたのに、誰にも見てもらえないところだったのだ。
 少しだけ救われた気がした。レモンティーの入ったカップをぎゅっと強く握って、ありがとう、と返す。やけにか細い声が出てしまって、萌は俯いた。

 健也はしばらく何も言わずに、ぼんやりと人の往来を眺めていた。萌が飲み切れなかったレモンティーをテーブルに置くと、また右手は健也の手にさらわれてしまった。
 何を言えばいいのか、何も言わなくていいのか。思考のまとまらない頭では、答えは出なかった。
 隣に座る健也はスマートフォンを取り出して、器用に片手で操作する。メッセージアプリを立ち上げ、誰かに何かを送信する。
 すぐに返信が来たらしく、スマートフォンが振動した。健也はそれを睨みつけて、そのままテーブルの上に置いた。

「…………返さないの?」
「んー、いいんじゃない? ちょっとは反省させた方がいいから」

 その言葉の意味が分からずに、首を傾げる。健也は珍しく不機嫌そうな顔をしていて、それ以上聞いていいものなのかも分からない。
 結局また俯いてしまった萌に、健也が呟く。

「……いちごチョコ、持ってくればよかったなぁ」

 数秒かけて、その意味を理解した。
 萌に元気を出してほしい、と言ってくれているのだ。
 今日はもっと苦しい瞬間があったはずなのに、なぜだかこの瞬間、涙が込み上げてきた。
 人前で泣くのは苦手だ。心配をかけてしまうから。弱いところをさらけ出すのがこわいから。だからいつも、出来るだけ我慢してきた。
 それなのに、涙がぽろぽろと溢れて止まらない。せめて声だけは漏らすものか、と唇を噛み締める。
 雨宮ちゃんは健気だねぇ、と隣から聞こえてきたけれど、萌は涙を流すことしか出来なかった。