日直の仕事は面倒くさい。月に一回程度回ってくる当番は、意外とやることが多いのだ。
 黒板消しや花瓶の水交換、学級日誌の記入に先生の雑用。ちなみに一番多いのは教師から手伝いを頼まれることで、萌は今まさに数学教師と英語教師に言いつけられた雑用をこなしていた。

「お、重い…………!」

 大量のノートを抱えて、萌の腕はぷるぷると震えていた。
 クラス全員に返しておいて、と頼まれた数学の課題のノート。それから次の英語の授業で使うらしい薄い冊子。薄いと言っても一冊は、の話であり、束になれば当然それだけ重くなる。どう考えても女子一人に運ばせる量ではない。
 山積みになったノートに視界を遮られ、ふらふらとよろめきながら歩いている萌の前に、救世主が現れた。

「大丈夫?」

 聞き覚えのある声とともに、腕の中の荷物がひょいと全て抱えあげられる。驚いて目線を上げると、そこにはクラスメイトの五十嵐健也が立っていた。
 金色よりの派手な茶髪に、色素の薄い瞳。百八十センチを超えていると噂の長身に、甘いマスク。見た目はどう見ても遊び人。ちなみに見た目に違わぬ女好きである。

「五十嵐くん! ありがとう!」
「いいよいいよ。教室まで?」
「うん。でも全部じゃなくていいよ。私が半分持つから、半分助けてくれると嬉しいけど」

 雨宮ちゃんは素直だねぇ、と優しく笑いながら、健也はノートの山を片手で器用に抱える。
 萌が運ぶのに苦労していた大荷物を片手で。男女の違いなのか、それとも健也がすごいのかは分からないが、萌は思わず拍手する。

「五十嵐くん力持ちだね」
「そりゃあいつ崖から落ちそうな女の子がいても助けられるように日々鍛えてるからね」
「もうちょっと理由どうにかならなかったの?」

 身体を鍛えるのはいいことだが、その理由が女好き極まれり、といったものだったから、萌は呆れてしまった。
 それよりも半分持つから、と健也の持ってくれているノートに手を伸ばすと、ひょいと避けられてしまう。

「さすがに全部は重いでしょ」
「いやー、空いた左手を雨宮ちゃんが繋いでくれたら軽く感じるかも」
「もう、バカなこと言ってないで貸して!」

 頰を膨らませ、もう一度ノートの山に手を伸ばせば、今度は避けることなく萌が取りやすいように少し屈んでくれた。
 英語の冊子の方をよろしく、と言われたので抱えてみたが、どう見ても健也の持っている数学のノートの方が重そうだ。

「ごめんね、重たい方持たせちゃって」
「いいよ、そんなの。当たり前じゃん」
「相変わらず優しいね、五十嵐くんは」

 健也とは一年生のときも同じクラスだった。入学当初から派手な容姿で女の子に囲まれていたので、萌は少しだけ健也のことが苦手だった。複数の女の子と付き合っているという噂が流れていたのも、悪いイメージを助長していたのかもしれない。

 イメージががらりと変わったのは、ほんの些細なきっかけだった。

 一年の夏、クラスや部活にも慣れて楽しくなってきた頃、萌はそれを目撃した。
 教室に忘れ物をして取りに戻ったとき、がたがたと物音をさせながら健也とクラスメイトの男子が教室の中を見て回っていたのだ。何をしているのかと訊ねると、「家の鍵をなくしちゃったらしくて、一緒に探してるんだよ」と健也は笑った。
 そのクラスメイトは、どちらかというと目立たないタイプで、健也と話しているところも見たことがない。たぶん、友達と呼べるような関係性ではないだろう。

 それでも探し物を手伝ってあげるんだ、相手は女の子じゃないのに。

 悪い噂を小耳に挟んだだけなのに、健也のことを知ったような気になって、勝手に苦手意識を持っていたことを萌は恥じた。
 相手が誰でも、人よりずっと優しいだけ。その優しさと恵まれた容姿で、女の子を勘違いさせてしまうこともあるかもしれない。でもきっと、悪い人じゃない。
 昨年の記憶を懐かしみながら少し笑っていると、健也がふいに口を開く。

「そういえば雨宮ちゃんって、最初は俺のこと苦手だったでしょ」
「えっ、なんでバレてるの!?」
「だって雨宮ちゃん分かりやすいもん。うわー、女好きだー、みたいな引いた目で見てた」

 まさにその通りだったので否定できなくて、ごめんなさい、と素直に謝る。
 フォローになるかは分からないが、今は結構好きだよ? と付け足すと、それも知ってる、と健也は楽しそうに笑った。

「もっと大胆に今は大好き、とか言ってくれてもいいんだよ?」
「はいはい、大好き大好き」

 口を開けば二言目には軽口が出てくるのだから驚いてしまう。手伝ってもらっているので、気を悪くさせない程度に適当にあしらいつつ、萌はのんびりと教室を目指した。
 健也の隣を歩いていても、女子からの視線が刺さることはない。タイプは違うが、同じくイケメンの駿介と一緒にいるときは、常に嫉妬がつきまとうのだが。
 健也のことを好きな女子は多いが、どの子も『健也はみんなのもの』と思っている節があるのかもしれない。人目があるところで駿介の隣を歩くときは、自然と早足になってしまう。人目を気にしなくていいのは楽だなぁ、と心の中だけで萌は呟いた。

「五十嵐くん、ドア開けられる?」
「はい、どうぞ」

 ガラリと教室のドアが開くと、そこには驚いた顔をした駿介が立っていた。

「びっくりした、自動ドアじゃん」
「はは、開けるタイミングが被ったんだね」

 駿介と健也が喋っているのを、健也の後ろでしばらく聞いていた。隣のクラスの駿介がなぜ萌たちの教室にいるのかと思ったら、健也に借りていたノートを返しにきたらしい。話ぶりからして、どうやら駿介は萌の存在に気づいていないようだ。
 この二人の仲がいいなんて知らなかったな。
 楽しそうな駿介の声をもう少し聞いていたい気持ちもあったが、荷物を抱える腕が痛くなってきてしまったので、萌は健也の背から顔を出す。

「そろそろ腕が痺れてきたんですけど!」
「えっ、雨宮!? うわ、ごめん、大荷物じゃん!」

 持つよ、と健也の向こうから駿介が手を伸ばし、萌の抱えていた英語の小冊子を持ってくれる。駿介が教卓の上にそれを置くと、健也も数学のノートをその隣に並べた。

「これでも五十嵐くんが手伝ってくれたからだいぶマシだったの。五十嵐くんも矢吹くんも、ありがとね」
「雨宮ちゃんの頼みならいつでも聞くよ」
「はいはい、五十嵐くんは優しいね」

 健也の言葉を適当に流していると、駿介が不思議そうな顔で二人を見比べる。

「雨宮と健也って、仲いいんだ? なんつーか、意外な組み合わせだな」
「そう? 結構よく話すよね。雨宮ちゃん、かわいいし、からかうとおもしろいし」
「まあ去年も同じクラスだったもんね」

 からかうとおもしろい、というのには文句をつけたかったが、駿介の前で口うるさく言うのは嫌だったので仕方なく我慢する。
 好きな人にはかわいくないところを見られたくない。
 今までだったら気にしなかったのに、好きだと自覚した途端急に気になるのだから、乙女心というやつは厄介だ。
 矢吹くんと五十嵐くんはどういう繋がりなの?
 萌が質問しようと口を開きかけたとき、教室の後ろの方からやけに痛い視線を感じることに気がついた。
 ちら、と萌はそちらを盗み見る。クラスメイトの女子の一人が泣きそうな顔で駿介を見つめていて、いつもその子と一緒にいる友人は、萌のことを射殺さんばかりに睨みつけていた。
 事態を把握し、やってしまった、と萌は眉を下げる。

 駿介はモテるのだ。しかも、女の子が大好きでいつも女子に囲まれている健也と違い、駿介はある程度仲のいい女子としか話をしない。誰にでも優しい人なので、話しかけられれば応えるが、どこか壁があるのだ、とクラスの女子が嘆いているのを聞いたことがある。
 やきもちをやかれているのかもしれない。どうしたものか、と困っていると、健也がタイミングよく二人は知り合いなんだ? と質問してくる。

「同じ中学だし、同じ部活だから!」
「ふーん。じゃあ付き合ってるとかじゃないんだ?」

 健也の言葉に心臓がドキッとしたけれど、萌は平静を装って答える。

「うん。矢吹くんとは友達だよ」

 どうやら萌の声はクラスメイトにも届いたらしい。よかったね、付き合ってないって、とひそひそ声が聞こえたことに安堵して、萌は気が付かなかった。
 友達と言ったときの駿介の複雑そうな表情も。
 二人を見比べて、なぜか楽しそうに笑う健也のことも。
 大事なことには何も気づけないまま、萌はクラスメイトとのトラブルが回避できたことに、ただ安堵していた。