朝のホームルームが始まる前の渡り廊下は、人の気配が全くなかった。
 大人しく着いてきた健也が、「このあたりは静かなんだねー」と笑うので、萌も表情を和らげた。

「朝は専門棟の方に行く人が少ないもんね」
「あれ。機嫌なおった?」
「もともと機嫌が悪かったわけじゃないよ」

 強いて言うなら、照れていただけだ。
 健也の言うことが、どこまで本気か分からない。
 萌のことを好きだという言葉も、駿介に対する宣戦布告も。それから、仲良くしてきた女の子たちとの関係を整理する、ということも。
 いつも冗談まじりの彼の言葉は、ふわふわと軽く聞こえてしまう。でも、ときおり本音が混ざっているので、慎重に判断しなければならない。

 動画のことはひとまず置いておいて、と前置きして萌は健也を見上げる。髪色も髪型も変わり、雰囲気は一変している。それでも目を細めて優しく笑うところや、紡がれるやわらかい声は健也のものに違いなかった。
 そのことになぜか安堵を覚え、萌は頰を緩める。

「昨日のこと、お礼が言いたくて。あの人を捕まえてくれたことも、その後ずっと私を庇って見えないようにしてくれたり、他の人に協力をあおいでくれてたことも、すごく嬉しかったの」

 だから、本当にありがとうございます。
 そう言って頭を下げた萌に、健也はのんびりとした口調で答える。

「いいのいいの。顔上げてよ、雨宮ちゃん」

 そんなに大したことはしてないよ、と彼は言う。
 でも、本当にそうだろうか。
 萌は痴漢の現場を見つけたとしても、助けてあげられる自信がない。仮に誰かに助けを求めて、一緒に犯人を捕まえることが出来たとしよう。その後、健也のように被害者を気遣った行動が出来るだろうか。そう考えて、きっと出来ない、と思ってしまう。

「痴漢を…………捕まえるだけなら、他の人にも出来たかもしれない。でも、その後の行動は、全部五十嵐くんだから出来たことだよ」

 五十嵐くんが優しいからだよ、と言葉を続ける。
 目の前の健也は、なぜか眩しいものを見るように目を細めた。その理由は分からなかったが、萌はかまわず想いを言葉に乗せて紡いでいく。

「あの後、先生づてに声をかけてくれたのに、会えなくてごめんね。五十嵐くんは優しいから大丈夫って分かってるのに、男の人と顔を合わせるのがこわくて、断っちゃった」
「そんなこと、気にしなくていいよ。むしろちゃんと男として見ててもらえて安心したかな」

 やわらかく笑いながら、健也が冗談を言う。萌もつられて笑って、それからおずおずと持ってきたミニバッグを差し出す。

「えーっと、それで、お礼なんだけど……」
「ん? あれ、これ期待していいやつ?」
「期待はしないで! 何回か作り直して一番ましなやつを持ってきたんだけど、なんかおいしくないの! というか正直まずいの! 捨てちゃってもいいから!」
「えー? 食べるよ。全部、ありがたくいただきます」

 健也の手にさらわれたミニバッグは、やけに小さく見えた。中身のお弁当は本当においしくない。これほどまでに自分が料理下手であることを恨んだことはない、というくらいには。
 それでも健也はすごく嬉しそうで、胸の奥が少しだけきゅう、と鳴いた気がした。