萌が痴漢にあったという話を聞き、仕事を中抜けしてきてくれた父は昼過ぎに会社に戻った。母も夕方になると出勤していった。
本当に一人で大丈夫? 今日はお休みしようか? と母はすごく心配してくれたが、看護師が激務であることは萌も知っている。
母が休めば母の同僚が大変になってしまう。他の人に迷惑をかけてしまうのは申し訳ないし、家にいる限りは安全なので、萌は笑って母を送り出した。
両親ともに出掛けてしまい、家に一人になると、萌は自室に戻った。そこでようやくスマートフォンを部屋に置き忘れていたことに気がついた。
メッセージと着信履歴がたまっていて、萌は目を丸くする。
まずはメッセージアプリを立ち上げた。部活動が始まり、顧問の塚内から萌が一週間ほど部活を休む旨を伝えられたらしい。ほとんどが萌を心配するメッセージで、心があたたかくなる。
萌が休む理由は伏せてくれたようで、何かあったの? 大丈夫? という内容が多かった。
メッセージ欄に並ぶ名前の中に、駿介のものがあることに気づき、萌はおそるおそるそれを開いた。
『明日、学校来られそう? もし来られるなら、顔を見て話がしたい』
ドキン、と心臓が音を立てた。
直接会って話がしたい、というのは、きっと大事な話なのだろう。
別れ話、という可能性が頭をよぎる。頭をふるふると振って、無理矢理その考えを頭の外に追い出した。
よく見るとそれは昼過ぎに受信したメッセージだった。受信してからかなり時間が経ってしまっている。萌は慌てて返信を打ち始めた。
『部活休んでごめんね。学校は明日から行く予定だよ。朝とかお昼休みとか、矢吹くんはいつがいい?』
萌の送ったメッセージに、既読の文字はつかなかった。
さすが吹奏楽部部長。他の部員とは違い、部活中にスマートフォンを触るようなことはしないらしい。
真面目な矢吹くんらしいな。
練習に励んでいる駿介の姿が思い浮かぶ。きっといつものように真剣に、一音一音丁寧に吹いているのだろう。その場にいなくても、容易に想像することが出来た。
駿介を好きだと気づいたきっかけが、彼の演奏する『愛の挨拶』を聴いたことだったからだろうか。普段、何気ない会話を交わすときや、笑っている姿ももちろん好きなのだが、萌が一番好きなのは駿介がトランペットを吹いているときだ。
誰よりもまっすぐ譜面と向き合い、一音の意味を考えながら吹く。その姿を、かっこいいと思うのだ。
顧問の塚内は萌のことを気遣い、しばらく部活を休んでいいと言ってくれた。そのことは嬉しいが、少しだけ残念だった。
休んでいる間は駿介の演奏しているところが見られない。駿介の一番かっこいい姿を、すぐ隣で見ることが出来る。それは彼女としてではなく、同じ部活、同じパートである萌の特権なのだから。