バスが走り出してから、萌はうるさく鳴り響く心臓の鼓動を聴いていた。二つ目のバス停を通り過ぎて、『それ』はやってきた。
太ももに触れる手が、徐々にスカートの中へと上がっていく。
ぎゅっと目をつぶり、恐怖に不安、絶望と嫌悪感、湧き上がってくる全ての感情を必死に堪える。
静かな車内にカシャ、とシャッター音が響いた。逃げるように離れていく手を追うどころか、振り返ることすら出来ない。
「証拠は撮ったから。逃げても無駄だよ」
聞き馴染みのある声が聞こえて、萌はおそるおそる目を開く。目を開けたのに、なぜか視界が暗く感じた。その理由は、おそるおそる振り返ってみて、ようやく分かった。萌を庇うように、健也が背中合わせに立っていた。
背の高い彼の背中に隠れて、犯人は見えなかった。でも、どうやら健也はしっかりと捕まえてくれたらしい。
乗客がざわざわと騒がしくなる。
痴漢? え、高校生がやったの?
聞こえてきた声に、萌は息を飲む。
高校生がやった、というのはどういうことだろう。まさか、健也の前にいるのは、萌と同じ高校生だというのだろうか。
くらくらと目眩がした。何が起きているのか、理解出来ない。ただ分かるのは、とにかく気持ちが悪い、ということだけだった。
「座って休んでください。顔色が悪いですよ」
近くの座席に座っていたサラリーマンが、席を譲ってくれる。どうやら騒ぎの中心であり、被害に遭ったのが萌だと気づいてくれたらしい。
萌が倒れ込むように椅子に座るのを見届けてから、そのサラリーマンが健也の方に声をかける。
「バスをとめて警察を呼びましょうか。それともこういう場合は学校の方がいいのかな」
元々の計画では、警察に突き出す予定だった。しかし相手が学生となると話は変わってくるのかもしれない。
少し間を空けて、健也が「先に学校に連れて行きます」と答えた。
椅子に座りながら、気持ちの悪さに耐えきれなくなって身を屈める。大丈夫? と隣に座っていた高齢の女性が優しく声をかけてくれたが、小さく頷くことしか出来なかった。
「すみません。こいつ、その子に近づけたくないので、何人か協力してくれると助かるんですけど」
普段はやわらかい物言いの健也が、珍しく棘のある声で言葉を吐き出す。いつもは挨拶すら交わさない他人であるはずの乗客たち。そんな人々が続々と声を上げるのは不思議な感覚だった。他人事のようにどこか遠くにそのやりとりを聞きながら、萌はただ、目を閉じて吐き気を堪えていた。