まだ朝だからか、保健室には誰もいなかった。健也は迷わずベッドの方に足を運び、シーツの整えられた窓側のベッドに萌を降ろす。

「あの、ごめんね。絶対重かったでしょ……」
「ぜーんぜん? 言ったじゃん、鍛えてるって」

 そんなことはいいから、雨宮ちゃんは早く横になりなよ。とベッドをぽんぽん叩く。
 保健医の許可なくベッドを借りてしまっていいものか迷っていると、健也が少しだけ困ったように眉を下げる。

「雨宮ちゃんさぁ、腰抜けたって言ってたけど、体調も悪いでしょ」
「…………!」
「顔色良くないよ。誰かから薬もらってこようか?」

 ほら俺、女の子の友達は多いから、と冗談まじりに健也は笑う。

「熱は……なさそうだね」

 健也の冷たい手がふいにおでこに触れて、萌の身体がびくりと震える。これでは健也に怯えてしまっているみたいだ。
 友達なのに、こんな反応をしたら失礼すぎる。自己嫌悪に陥るけれど、防衛本能が働いているのか、無意識に身体が触れられることを拒否しているみたいだ。

 さっき抱き上げてもらったときは平気だったのにな。

 あのときは、ごめんね、と先に声をかけられていたから、萌も大丈夫だったのかもしれない。
 肩を叩かれたときや額を触られた今は、どちらも不意打ちだった。触れられる行為に過剰な反応をしてしまうのは、ここ数日痴漢の被害にあっているせいなのだろう。おそらく萌の警戒心はこれまでにないほど高まっているのだ。その結果、健也を拒絶するような反応を示してしまっていることになり、ひどく申し訳なく思えた。

 自責の念に駆られ、ぎゅっと目を閉じる。視界が閉ざされると、途端に『それ』がよみがえった。
 わずかに太ももに触れる手。混雑した車内で少しでも逃げようと身体をずらしても、ずっとついてくる。勘違いかもしれないと言い聞かせたバカな自分。
 特別短いわけでもないスカート。その中に無遠慮に侵入してきた手が、太ももから少しずつ上にずれていく。そして、太ももとお尻の境、下着のラインを、ゆっくり、楽しむようになぞる指先。

 ぐ、と込み上げてきた吐き気に思わず前屈みになる。
 雨宮ちゃん、と優しい声が上から降ってきた。深い暗闇に引き摺り込まれそうだった意識が、健也によって引き戻される。
 吐き気をこらえてゆっくり目を開けると、心配そうな顔をした健也が萌を見つめていた。

「何かあった? 俺でよければ話聞くよ」

 体調が悪いってだけじゃなさそうだからさ。と健也が付け足し、隣のベッドに寝転ぶ。
 病人でもない健也がベッドを一つ占領するならば、萌だって少しくらい横になってもいいかもしれない。
 そんな気持ちになり、ベッドの中に潜り込むと、少しだけ安心感が得られた。
 寝転んだまま横を向き、健也の方を見ると、彼も萌のことを見つめていた。少しだけ迷った後、萌は小さな声で話し始めた。

「…………これは、ただの愚痴なんだけどね」
「んー」
「最近朝のバスで、太ももに触ってくる人がいて…………たぶん毎回同じ人なんだけど」
「ふむふむ」
「今朝はそれがちょっとエスカレートして、こわいやら気持ち悪いやら情けないやら…………みたいな感じでね」

 うん、と健也は静かに相槌を打つ。
 ぽつぽつとこぼれていく言葉を受け止めてもらえることで、少しずつ心の整理ができてくるような気がする。
 恐怖も気持ちの悪さも消えないけれど、パニックになりかけていた自分が、冷静さを取り戻しつつあった。

「それでちょっと動揺してたから……大袈裟に驚いちゃったのかも。五十嵐くんはびっくりさせたかったわけじゃないのにね、ごめんね」

 失礼な態度をとってしまったことを素直に謝る。萌の言葉に健也は目を丸くして、これだから雨宮ちゃんは、と困ったように笑った。

「今は俺のこととかどうでもいいでしょ」
「よくないよ。友達に嫌な思いさせたままじゃ私が嫌なの」

 健也は萌にとって大事な友達の一人だ。普段はふざけてばかりだが、優しい人だと知っている。だからこそ、傷つけるようなことはしたくなかった。
 萌がまっすぐ見つめると、健也は頑固だなぁ、と笑う。それから「そりゃあびっくりしたけど、怒ってないし、気にしてもいないよ。大丈夫」と優しく応えてくれる。その優しさがあたたかくて、少しだけ心の重荷が取れた気がした。