ふらつく足でトイレを出て、教室に向かう。いつもなら音楽室に行って朝練習をするところだが、体調が悪すぎてそれどころではなかった。
 それに気分の悪さと戦っている間に、かなり時間が経っていたらしい。やけに廊下が騒がしいと思っていたが、すでに多くの生徒が登校してきていた。どちらにせよ練習する時間はなさそうだ。
 
 朝の出来事が原因だろうか。神経がひどく過敏になっていた。音がやけに大きく聞こえる。特に、男子の声が鼓膜を刺激して、びく、と身体が震える。

 大丈夫、大丈夫。あいつは学校の中にはいないんだし、男の子の声が大きいのだっていつものことだよ。

 自分に言い聞かせながら、廊下を歩いている、そのときだった。
 肩にとん、と手を置かれ、萌は見事に腰を抜かしてしまった。

「えっごめん、驚かせちゃった?」
「だ、大丈夫。ごめんね、五十嵐くん」
「えーっと…………おはよう、雨宮」
「……………………お、おはよう、矢吹くん…………」

 振り返れば、駿介と健也が並んで立っている。二人とも驚いたような顔をしていて、萌の肩に手を置いた張本人であるらしい健也は、右手を宙に浮かせたまま困惑している。
 そのまま萌が立ち上がれるように手を差し出してくれたが、文字通り腰が抜けてしまっていた。健也の手を取ったまま、立ち上がれない萌に、駿介がかがみ込む。
 揺れるマフラーを見ないように目を逸らして、萌は誤魔化すように笑ってみせる。

「もしかして怪我した? 大丈夫?」
「違うの。えっと…………びっくりしすぎて、腰が抜けた、みたいな?」

 あはは、とかわいた笑いがひどく虚しい。
 廊下でへたり込んでいるというだけでも恥ずかしいのに、それを駿介に見られてしまったのは完全に失態である。
 頑張って立ちあがろうと苦戦していると、ふいに健也がしゃがんで、萌のことを抱き上げた。

「雨宮ちゃん、ちょっとごめんね」
「えっ、わ…………!」
「…………は?」

 固まる萌と、戸惑いの声を上げる駿介。
 そんな二人の反応を気にも止めず、健也がいつもの調子で口を開く。

「駿介さー、俺のカバン教室に持っていってくれない?」
「え、いや、お前なにしてんの」
「何って保健室。だって雨宮ちゃん、見るからに顔色悪いじゃん」

 健也が立ち上がると同時に、思わず目をつぶった。
 中学生の頃、駿介にも抱き上げられたことがあるが、彼よりもさらに背の高い健也の腕の中では、床が果てしなく遠く見えるに違いない。
 落ちるのがこわくて、無意識に健也のシャツを握りしめていたらしい。それがお気に召したようで、ご機嫌な健也に「おー、雨宮ちゃん、反応かわいいねー。さすが」とからかわれてしまう。

「保健室なら俺が連れて行くから」

 健也が歩き出すのとほぼ同時に、背中側から投げかけられた言葉に、歩みが止まる。
 駿介の声は、いつもよりもずっと低くて、どこか怒りをはらんでいるようだった。

 恋愛経験の浅い萌にも分かる。この状況は、非常に良くないと。
 隠しているとはいえ、付き合っている人の前で、他の男に抱き上げられて、しかも抵抗しないなんて。
 落ちるのがこわいので、シャツは握ったまま、もう一方の手でとんとんと健也の胸を叩く。

「五十嵐くん、おろしてくれて大丈夫だから。矢吹くんも、ありがとね。保健室なら私一人で行けるから大丈夫だよ」

 腰が抜けて動けなかったくせに何を言っているんだ、と自分でも思うが、それ以外の言葉が思い浮かばなかった。
 健也の顔を見上げて、萌はまた固まる。いつもにこにこと人好きのする笑みを浮かべているクラスメイト。そこには初めて見る表情が浮かんでいた。

「いいのいいの。じゃあ駿介、あとよろしくー」
「健也っ!!」

 緩やかな口調で言い残し、健也が保健室に向かって歩き始める。声は優しかったが、その顔には怒りの色がにじんでいた。

 五十嵐くん、怒ってる? なんで?

 その表情に見入ったまま、落ちないようにしがみついていた。保健室に着く頃、健也はようやく萌の視線に気がついて、いつもの笑みを浮かべる。

「なあに、雨宮ちゃん。俺に見惚れちゃった?」
 
 軽口をたたくところもいつも通り。でも、その目が笑っていないことに気がついて、萌はたじろぎながら口を開く。

「ち、違うけど……でも、ありがとう。助けてくれて」
「いいってば。俺は雨宮ちゃんとイチャイチャできてラッキーだなーって思ってるよ?」

 はい、とうちゃーく! と元気に保健室のドアを開ける。ちなみに両手が塞がっているので、健也は躊躇いなく足で開けた。いつもなら注意するところだが、さすがに今は何も言えなかった。