駿介の耳にもあの噂は届いているのだろうか。
誰かが「篠原麻衣と付き合い始めたって噂になってるけど本当?」と訊いてくれたらいいのに。
そして「いや、ただの友達」と駿介が答える場面に、偶然萌が居合わせて、全てのもやもやが一気に解消してくれたなら。
残念ながら、現実はそう甘くない。
十二月に入り、クリスマスは少しずつ近づいてきているのに、駿介の真意は分からないままだ。
クラスが違い、登下校も別になってしまった今、萌が駿介と話すことのできる時間は部活動中だけ。しかしいくらオフシーズンとはいえ、練習中に私語を増やすのは避けたい。
お昼休みなどに偶然すれ違い、ちょっとでも言葉を交わせないかな、と考えていることに気づいたとき、萌はひどく悲しくなった。
これじゃあ私、矢吹くんに片想いしているみたい。
家に帰ればメッセージのやり取りをするし、たまに電話をくれることもある。それだけで充分なはずなのに、いつのまにか萌は欲張りになってしまったみたいだ。
駿介ともっと話がしたい、声が聞きたい、笑っている顔が見たい。
変な噂が流れているけど全部嘘だし気にしなくていいよ、と言って欲しい。その一言で、萌は頑張れるから。
かたん、と音を立てて、譜面台から赤鉛筆が落ちた。足のつま先が譜面台にぶつかったようだった。
譜面に注意点を書き込むとき、萌は赤鉛筆を使う。シャープペンの方が使いやすいけれど、赤い文字の方が目立って視界に入りやすい。それに鉛筆で書かれた文字は、少しだけやわらかい印象になる気がして、萌は好きだった。
中学生の頃、部活中にそんな話をしたら、駿介は「変な理由だな」と笑っていた。そう言いながらも萌の真似をして、次の週から赤鉛筆を使い始めたことだって、もちろん知っている。
拾い上げた鉛筆を見ると、芯がぽきりと折れてしまっていた。
部活後、いつも通り居残り練習をしていこうと思っていたが、今日はもう終わりにした方がよさそうだ。
集中できないまま、適当に楽器を鳴らしても、そんなのは練習の意味がないのだから。
トランペットを片付け、まだ残っている部員に声をかけて先に音楽室を出る。
時計を見て時間を確認すると、まだ部活が終わってから十五分しか経っていない。こんなに早く帰るのは久しぶりだ。
正門を出てすぐのところにあるバス停は、部活終わりの生徒でごった返していた。いつもはもっと遅い時間に帰るので知らなかったが、どの部活も大体同じくらいの時間に終わるので、混雑してしまうらしい。
もしかしたら次のバスじゃないと乗れないかもなぁ、とのんびり考えていると、視界の端に駿介の姿を捉える。
前のバスに乗ったと思っていたけれど、どうやら同じバスを待っているらしい。人混みでよく見えなかったので、ちょっとだけ横にずれてみる。萌は小さく息を飲んだ。
駿介の隣には、噂になっている麻衣がいた。でも驚いたのはそのことじゃない。二人が一緒に帰ることは、予想の範疇だ。
萌は、駿介の首元から視線を外せなかった。かわいらしいキャラメル色を、男らしく引き締めるような黒のライン。それは、麻衣がショップで買っていたマフラーと同じものだった。
萌と登下校していたときは、首元が寒そうだった。萌の記憶が正しければ、昨年も駿介はマフラーをしていなかったはずだ。
駿介が、寒いからという理由で自分で購入した。その可能性よりも、もっと簡単な答えがある。
麻衣が購入したプレゼントは、駿介宛のものだった。そして、そのプレゼントを駿介は受け取り、身につけている…………。
「乗らないの?」
いつのまにか、バスが来ていた。たくさんの生徒が乗り込む中で、たまたま居合わせたクラスメイトが声をかけてくれる。バスの中は混み合っているが、まだ数人は乗れそうだ。
「次でいいや。混んでるし」
「そう? じゃあね」
うん、ばいばい。とクラスメイトに手を振り、萌はバスを見上げる。
窓越しに、麻衣と目が合った。
気の強そうなアーモンド型の目は、萌を捉えると嫌悪の色をにじませた。麻衣は萌のことを睨みつけていた。
言葉を交わしたことはないはずだ。目立つ人だから、萌が一方的に彼女を知っているだけ。
でも間違いなく、麻衣の表情には萌に対する嫌悪と拒絶が含まれている。
その意味をぼんやり考えながら、萌はバスを見送った。麻衣の隣にいた駿介が、萌に気づくことはなかった。