違和感を覚え始めたのは高校生になったころ。
 はじめはただの物忘れだと思っていた。
 宿題、簡単な頼まれごと。私がなにかを忘れるたびに周囲は「奏は天然だな」「おっちょこちょいだな」と笑った。
 若年性の健忘症と診断されたのはそれから一年後、高校二年の春だった。
 手術はできず、投薬治療のみ。それでも病気の進行をおくらせるだけで完治はできない。いずれは記憶が一週間と持たなくなるだろうとのことだ。
 なにか新しいことを覚えるたびに、過去の記憶が輪郭を失い、溶けていく。
 だから私は必死になってメモをした。人は必要な情報だけを覚えるが、私にはなにが必要で、なにが不必要の判断が分からなくなっていたからメモ帳はすぐに黒い文字で埋まった。
 忘れたくない。忘れたくない。
 ボロボロのメモ帳に必死にペンを走らせる私のことを、もう誰も笑わなくなっていた。

 それでもみんなに病気のことは話さなかった。
 同情されたくなかったし、みんなにはみんなのままでいてほしかったから。
 私の病気を知ったあとのみんなは、私の記憶の中のみんなとは違ってしまう。そして、私の記憶はいつか失われる。
 私はみんなのことを、私の居場所を、失うのが怖かった。
 しかし、その時は突然やってきた。
「よっ」
 登校中。肩を押されてふりかえると、彼女は眠たそうにあくびをしていた。
 彼女は保育園から高校まで一緒の幼馴染で、唯一の親友。私にとって大切な存在。なのに。
 名前が思い出せなかった。
 そんな私の顔を見て、彼女は呆れと怒りが混じったため息を吐いて、先を歩いた。
 
 このころの私は強い風の中、たくさんの風船がついたひもを持っているような感覚が常にあった。
 風船は風が吹くたびに一つ、また一つと飛ばされる。
 私はこれ以上風船を失いたくなくて指先が紫色にうっ血するまで必死に掴み続けた。
 それでも風船は指のすき間をするりとぬけて、どこかへ飛んで行ってしまった。
 風船は記憶じゃない。人との絆だ。
 私はその日、一番無くしたくなかった風船を無くした。

 それから私は学校を休むようになった。
 なにをしても忘れてしまうなら、なにもしないほうがいいとあきらめて、布団にもぐった。
 ただ家にいるのもつまらなくて町に出ると、気がつけば学校へ向かう電車に乗っていた。
 しかし学校に行く気分にはなれずに、そのままなんとなく終着駅まで向かった。
 仕事サボって終着駅まで行く、みたいなドラマを昔見た気がするなぁ、と思い出しスマホで検索すると、自分が4歳のころにやっていたドラマだった。
 懐かしい、と思いつつ、なんでこんな記憶は残ってるんだよ、と自分にツッコミを入れると、可笑しくなってひとりでニヤけた。よかった、乗客が私一人で。
 銀色の電車はゆっくりと進む。
 カーブをまがって、トンネルをくぐって、しばらくして終着駅につくと、そこは海岸沿いの小さな町だった。
 キラキラと陽光を反射する海。
 広大な海を見ていると無条件に心が晴れた。潮の匂いが混じった空気を肺いっぱいに吸い込んで、町を歩いた。