「いきなり電話してごめん。今、大丈夫か?」
「うん。どうしたの? 何かあった?」

 緒川が心配そうに聞いてくる。俺が鼻声であることを気にしているのだろう。こんな状態でも、どこまでも優しい人だ。そんな彼女に向け、俺は改めて請うた。

「俺……緒川のことを書いていいか? お前の病気のことも、全部」

 その請いに緒川は驚いたように息を呑んで、やがて笑った。

「うん……いいよ。私のこと、きみの世界にいれてほしいな」

 電話越しで緒川の声が震えたのがわかった。彼女も察していたのかもしれない。「ひょっとしたら、これが最後の会話になるかも」と。執筆に集中する間は緒川と連絡は取れない。その間に緒川の命が尽きてしまうかもしれない。こんな最悪な状況だってあり得るのだ。それでも彼女は、語気を強めて断定した。

「大丈夫。それまで絶対、死なないよ」

 それが彼女の覚悟に見えてしまい、俺の目からは再び涙がこぼれ落ちた。

「──恩に着る」

 そう言うと、緒川は「どういたしまして」とまた笑った。

 そこから「じゃあ」と短い別れの言葉を告げて、俺たちは電話を切った。

 俺が電話をしている間、森橋さんはいつの間にか持参していた煙草をふかしていた。

「緒川さん、どうだった?」
「……改めて許可を得ました」
「そうか。それは良かったな」

 と、森橋さんは俺の前に立ち、ガシガシと俺の頭を撫でまわした。

「いつも『詰まったら連絡しろ』って言ってるだろ。もっと俺を頼れよ、クソガキ」
「……すいませんでした」

 素直に謝ると、森橋さんは「フッ」と小さく破顔した。それはいつもの呆れたような笑みだったが、どことなく安堵しているような感じでもあった。

「でも、殴らなくてもよくないっすか?」
「おかげで目が覚めただろ?」
「まあ、はい……ありがとうございました」

 お礼を言うと、森橋さんにポンッと肩を叩かれた。

「その目ができるなら大丈夫だ」

 そう言って森橋さんは持っていた煙草を携帯灰皿に入れて帰る支度を始める。彼のことだから、これから会社に戻って編集作業を進めるのだろう。気怠そうではあったが、いつも死んだ魚のような目をしている彼が今日は少し嬉しそうに見えた。

「それじゃ、原稿よろしくお願いします。良い旅路を」

 最後に振り返り、森橋さんは家を出ていった。

 森橋さんが静かに玄関の扉を閉める。そこから深呼吸して、この場にいない彼女に語りかけた。

 書くよ、緒川。
 それだけで、スイッチがカチッと鳴った気がした。