そこで彼女は白磁のカップに手を伸ばす。点々と赤い何かが散りばめられているカップは、よく見ると薔薇の花びらが描かれていた。だが、ちらりと目にしただけでは、血がついているようにも見えてしまう。
 キンバリーはアイニスを張りぼての令嬢と言っていたが、紅茶を飲む姿は優雅に見える。
 少しだけ潤った唇は、以前のような艶やかさを取り戻していた。微笑む姿も、ラティアーナに婚約破棄を突きつけたキンバリーに寄り添ったあのときの表情と同じ。
「とある夜会で、兄と一緒にいたときに、ウィンガ侯爵は私を図書館で見かけたとおっしゃって、近づいてきました……。きっと、兄が彼をたぶらかしたのでしょうね」
 兄の言いなりになっているものと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
 それにしてもあのウィンガ侯爵が図書館とは、似合わない。むしろ、嘘だと言っているようなものだろう。もう少しまともな理由はなかったのだろうか。
「ウィンガ侯爵は……私と結婚したかったようですが……」
 アイニスは今、仮にも王太子キンバリーの婚約者である。だから、そういった内容を口にするのも躊躇いがあるのか、語尾を濁した。
 それでもウィンガ侯爵の性格を考えたら、アイニスと結婚したいというのもあながち嘘ではないだろう。
 サディアスも少しだけ口元を緩めた。
 その様子を見た彼女も、安堵のため息をこぼす。何か咎められるとでも思ったのか。
「それも兄とウィンガ侯爵が話をして。私は彼の養女となりました。私としては、どちらでもよかったのですが……」
 それは、ウィンガ侯爵と結婚してもよかったと、そう聞こえる。
 幼い頃から家族に利用されている彼女だからこそ、それがおかしいと思っていないのかもしれない。
 だがサディアスも、わざわざその件に関して確認しない。触れてはならない内容だってあるのだ。
「あの兄と離れることができれば、どちらであっても大した問題ではないのです」
 まるで言い訳でもするかのような呟きだった。
「ですが、ウィンガ侯爵の養女となりまして、ラティアーナ様と知り合うことができました。彼女が南のテハーラの出身であると、ご存知でしたか?」
 サディアスの心臓が震えた。
 知らない。
「い、いいえ……」
 サディアスの知らないラティアーナを知っているアイニスに対して、ぶわっとどす黒い感情が生まれた。
 それが嫉妬なのか憎悪なのか羨望なのか、どういった感情であるかはわからない。
 サディアスの知らないラティアーナを彼女が知っているという事実が、胸の奥をざわつかせた。
 アイニスに気づかれぬように、テーブルの下できつく拳をにぎりしめる。
「私は、生まれたときから商人の娘として王都で暮らしておりました。それでも、兄によって年の離れた男性と結婚をさせられそうになって……。ですが、辺鄙な田舎に住んでいたラティアーナ様は、聖女となりキンバリー殿下の婚約者となった。不思議なものですよね」
「きっと、それが縁というものなのでしょう。何がどこでどう繋がっているのかだなんて、誰も知りません。そして、それがこの先、どのようになっていくのかも」
「ええ……」
 頷いた彼女は、今度はテーブルの上に置いてあるスタンドの中断のスコーンに手を伸ばす。たっぷりとジャムを塗ったら、いきなりかぶりつく。
 このようなところが、張りぼてなのだろう。
 だが、サディアスは何も言わない。それはサディアスの役目ではないからだ。
 そんな彼女の姿を目にしたら、すっと胸のつかえが取れた。
 彼女を張りぼてとキンバリーが罵るのであれば、彼女に教師を手配するのはキンバリーの役目である。まして、二人は婚約者同士なのだから。サディアスの気にするところではないが、キンバリーに助言をしたほうがいいのかもしれない。
「サディアス様とお話をしたら、一気にお腹が空いてしまいました。最近、ずっと食欲がありませんでしたの……」
 そう言った彼女の頬にも明るさが戻ってきている。
「サディアス様のおっしゃる通りですね。すべては縁。きっと、ラティアーナ様は縁に恵まれていたのでしょうね。お話を聞いたとき、心底羨ましいと思いました」
 田舎に住んでいた少女が聖女に見初められ、さらに王太子の婚約者となる。その話を聞けば、誰だって羨ましいと思うだろう。その気持ちを隠すか曝け出すかの違いだ。
「私は、ずっと兄の言うことを聞いて我慢してきました。その結果、得たのが侯爵令嬢という地位です。ですが、ラティアーナ様は? あの方は、何か苦労されましたか? 私には苦労しているようには見えなかったのです」
 気持ちを落ち着かせるためか、彼女は残っていたお茶を一気に飲み干した。
「ラティアーナ様の友人となり、一緒にお話もしましたが。あの方はいつもにこやかに微笑んでおりました。だから、私から見たら、本当に羨ましい存在だったのです。いつの日からか、私が聖女だったら、私がキンバリー殿下の婚約者だったら……。そう思うようになっておりました」
 彼女の気持ちもわからなくはない。サディアスだって、キンバリーを羨ましいと思ったことは多々あるからだ。
「突然、ラティアーナ様のお召し物が変わったの、ご存知でしたか?」
 それはキンバリーも言っていたし、サディアスも本人に問うたことでもある。
「はい」
 アイニスの問いに頷き、小さく返事をする。
「ラティアーナ様にしては珍しいので、お聞きしたのです。すると、神殿から支給されたものだと言うではありませんか。ですが、私にはピンとくるものがありました。侯爵が……義父が言っていたものですから」
「何を、ですか?」
「キンバリー殿下が、私的に神殿に寄付をしていると。それも、ラティアーナ様のためだと。ですから、キンバリー殿下にも、ついこぼしてしまいました」
 そこでアイニスはカップに手を伸ばしたが、先ほど飲み干してしまったことに気づいたのだろう。カップに手をかけて、すぐにあきらめた。行き場を失った右手は、テーブルの上に置かれる。
「ラティアーナ様の素敵なドレスは、殿下からの贈り物なのですねって。羨ましいですわ、と……」
 キンバリーの寄付金でラティアーナがドレスを仕立てたと、ウィンガ侯爵がアイニスに伝えたのだろう。それを、ラティアーナのドレスはキンバリーからの贈り物であると、アイニスが解釈したにちがいない。
「ですが、その一言がきっかけとなり、殿下がラティアーナ様を見る目が変わったようにも見えて……。それに、殿下がラティアーナ様のことで悩んでいらっしゃるようにも見えましたので……」
「そんな兄を、あなたが慰めてくださったのですね。兄は、アイニス様がいて励みになったとも言っておりました」
 彼女の手は、所在なさげに動いていた。言葉を選んでいるようにも見える。
「そうですか……。そう言っていただけると、安心いたします。私にとっても、キンバリー殿下は心の支えのような存在ですから」
 サディアスは、自分のカップに視線を落とした。カップが透けるほど透明な緋色の液体に、自身の顔がちらっと映りこむ。その自分と目が合う。
「ですが、今となっては後悔しております。あのときは、ラティアーナ様のようになりたいと。ラティアーナ様から、『聖女の証』とキンバリー殿下を奪ってやりたいと。そう思っておりましたのに」
「なるほど……」
「私には、ラティアーナ様のような生活は送れません。できることならば、この『聖女の証』をお返ししたいくらいです」