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 サロンに足を向けると、ラティアーナがアイニスとお茶を嗜んでいるときもあった。
 ラティアーナが王城に来るという情報は、いつの間にかアイニスまで伝わっているようだ。彼女はウィンガ侯爵の娘だから、そういった情報も簡単に手に入るのだろう。むしろ、ウィンガ侯爵が流しているにちがいない。
 二人はお茶菓子に手を伸ばしながら、何かしら会話を楽しんでいた。
 アイニスの手は、いつも忙しなく動いていた。気に入った菓子でもあるのだろうか。
 それに引き換え、ラティアーナは時折カップに手を伸ばして喉を潤す程度で、菓子には手をつけない。
 アイニスもそれに気がついたのか、ラティアーナに菓子をすすめている。だが、彼女はやんわりとそれを断っていた。
 二人の仲はよさそうに見えた。いや、アイニスが一方的にラティアーナを慕っているようにも見えた。
 ただラティアーナは誰に対してもあのような態度をとるのだ。
 一線を引いたような、一歩下がったような態度。自分の領域には他人を寄せつけないような態度。
 その領域に踏み込めるような人間はこの世に存在するのだろうか――。
 ラティアーナが聖女でなくなり、その聖女という名を受け継いだのはアイニスである。
 理由は明確。アイニスがラティアーナから『聖女の証』と呼ばれる首飾りを受け取ったからだ。
 聖女はこの『聖女の証』と呼ばれる首飾りを授与されて、聖女となる。
 歴代の聖女たちは、不幸な事故で命を失った者も多く、聖女から次の聖女へとその首飾りが渡ることはなかった。聖女が亡くなると、首飾りは神殿が預かり、そして次の聖女として相応しい女性にその首飾りを授ける。
 聖女であるラティアーナ自らアイニスに首飾りを渡したのは、前例がなかった。
 それでも聖女自身が認めた次期聖女とのことで、神殿は仕方なくそれを受け入れたようだ。
 神殿としては、ラティアーナはその命がある限り、聖女とあってほしかったのだろう。そんな思いがひしひしと伝わってきた。
 聖女となり王太子キンバリーの婚約者となったアイニスの生活は一変する。むしろ、今までラティアーナが行ってきた内容をこなす必要があるのだ。
 けれどもアイニスは、頑なに神殿で生活することを拒んだ。
 その結果、竜の世話をするときだけ神殿へ行くということで神殿側と合意した。それには、キンバリーの力も働いているにちがいない。むしろ、国の力か。
 だから今、アイニスは王城のサロンでゆったりとくつろいでいた。
 テーブルの上にはティースタンドが置かれている。下段はすっかりとなくなっているが、中段と上段にはまだ菓子が残っていた。
 他には誰もいない。ただぼんやりと、彼女はお茶を飲み、菓子に手を伸ばす。
 それなのに、彼女の顔には疲労の色が濃く表れている。
「アイニス様……」
 サディアスがやわらかく声をかけると、アイニスはゆっくりと顔をあげた。
 彼女の顔を見て、ぎくりとする。
 あれほど妖しく艶やかであった彼女の顔は、まるで死人のように青ざめている。色めく紺色の瞳も、どことなくくすんで見えた。
 華やかなドレスを好む彼女が、灰緑という地味な色合いのドレスを着ているせいもあるのだろう。艶感溢れていた赤い髪も、地味に一つにまとめて三つ編みにしてあるだけ。
 キンバリーとの婚約を宣言したときの彼女とは、まるで別人のように見える。
「サディアス様、どうかされましたか?」
 そう言って彼女は微笑んだが、その姿もどこか痛々しい。
「アイニス様のお姿が見えましたので。兄が心配しておりましたよ? アイニス様が無理をなさっているのではないかと」
「まぁ……」
 キンバリーの様子を伝えただけで、彼女はぱっと顔を輝かせる。紺色の瞳にも、星が瞬いたかのような明るさが戻った。
 サディアスは一歩近づく。
「ご一緒してもよろしいですか?」
 サロンの中では二人きりではない。彼女についている侍女もいつもの定位置に立っているし、サディアス付の従者も少し離れた場所でこちらの様子をうかがっている。
 サディアスは、最初からアイニスと話をする目的でこちらに足を運んだ。だから、わざと従者を連れて来たのだ。
 キンバリーの婚約者と二人きりで話をして、変な噂が立っても困る。
 むしろ、アイニスと話をしてほしいと言い出したのはキンバリーなのである。
 アイニスの様子を確認し、彼女が今、何を考え、どのように思っているのかを探ってほしいと。
「ハンナ。サディアス様にもお茶を」
 アイニスが侍女を呼びつけると、表情を変えずにやってきて、義務的にお茶を淹れると立ち去っていく。彼女は昔から王城で働いていた侍女である。
 アイニスの下で働くのが不満なのだろう。せめてもう少し愛想よくできないのかと、サディアスでも思う。友人のように親しくしろとは言わないが、自分の立場を理解してもらいたいものだ。
 アイニスにとっても少しでも心許せる人物が近くにいれば、ここまでひどい表情を見せないだろうに。
「いい香りのするお茶ですね」
 当たり障りのないところから話題を振る。
 それでもアイニスは、口角を少しだけあげて、嬉しそうに微笑んだ。
「そうですね。こちらは、隣国のアストロ国のお茶ですの。私の大好きなお茶ですから、準備していただきました」
「アストロ国の……僕は、初めて口にしますね」
 一口飲んでみると、口の中に清涼感が広がっていく。今まで味わったことのないお茶である。
「デイリー商会で扱っているのです。もし、サディアス様が気に入ったのであれば、口添えいたしますが?」
「お気遣いありがとうございます」
 そう言って、その場は誤魔化す。不味くはないが、何度も飲みたい味かと問われるとそうでもない。こうやって付き合いであれば飲んでもいい。その程度のものだ。
 アイニスもサディアスの気持ちを汲み取ったのだろう。それ以上は何も言わない。人には好みというものがある。それを押し付けないところは評価したい。
「こちらの生活には慣れましたか?」
 口の中からお茶の味が消えた頃、サディアスは尋ねた。
 本来であれば神殿で暮らす必要がある聖女を、王太子妃教育があるからという名目とその他いろいろと理由をつけて、王城で引き取っているのだ。
 そうさせたのはキンバリーなのだが。
「はい……覚えることはたくさんありますが……」
「神殿のほうにも足を運ばれているのですよね?」
「はい……ああいったことを、ラティアーナ様がやられていたとは、知りませんでした……」
 ふと彼女の顔が曇る。
「あのようなこと? 聖女は竜の世話をするとお聞きしているのですが、そうではないのですか?」
「あ、はい……。そうです。竜の世話をしております。竜のうろこを磨かなければなりません。それが、おもっていたよりも大変でして……。竜のうろこが汚れると、庇護を受けているこの国に厄災が訪れるなんて、そんな話を知らなかったのです」
 まるで聖女になったことを後悔するような言い草である。
「ですから、必ず三日に一度はうろこを磨かねばならないのです。ですが、竜が……。大きな生き物ですから、ね」
 それ以上言ってはいけないと自分を戒めるかのように、不自然なところで言葉を止めた。
 カップに手を伸ばして、お茶を一口飲む。その姿すら痛々しい。
 キンバリーの横に立ち、婚約者として紹介されたときの妖艶な彼女はどこにいってしまったのだろう。
 人とはこれほどまでに変わってしまうのだろうか。
 聖女になったのが原因か、キンバリーの婚約者となったのが原因か。
 アイニスをしっかりと見つめてみたが、サディアスにはよくわからなかった。