『サディアス様。国を庇護する竜。あれは、本当に国を庇護しているのでしょうか? そのようなことを誰が言い始めたのでしょう?』
 それは昔からの言い伝えだ。
 この国は、竜によって庇護されている国であると。
『竜がいなかったらと、考えたことはありませんか? 不思議ですよね。竜が目覚めると厄災が訪れるのです。そしてそれを鎮めるために聖女が犠牲になるのです。歴代の聖女がどうなったか、サディアス様はご存知ですか?』
 そう言って、彼女は愛おしそうに膨れた腹部をなでた。大きなお腹の中で、新しい命が動いているのだろう。
『竜の力を用いてレオンクル王国を助けた後、聖女は竜にパクリと食べられてしまうのですよ? 聖女を食べた竜は、満足して眠りにつくのです』
 厄災の話になると、関係者は誰もが口を閉ざす。
『サディアス様。厄災はすでに始まっております。竜のうろこは、穢れに覆われています。アイニス様が竜のうろこを磨こうが磨かない、関係ないのです。厄災は目覚めた竜の気まぐれによって起こります』
 彼女は聖女の名残で、竜の存在をなんとなく感じるようだった。だが、その力も薄れてきているようだ。これ以上は、もう何も言うことはないと口にする。
 テハーラの村から戻ってきた後、サディアスは神官長に詰め寄って、二十年前の話を聞いた。不慮の事故で亡くなったとされていた聖女だが、彼女は急に消えたと言う。
 神殿は隠し事が得意である。
 だけど、彼女の話を聞いていたから、ピンとつながった。
 間違いなく竜に食べられたのだ。
 聖女の部屋が竜の間に近いのは、それが理由だった。他の者が気づかぬうちに、聖女はいなくなる。そして、竜は眠りにつく。
 ――あなたたちは、それがおかしいとは思わないのですか!
 サディアスの声が、神殿内に静かに響いた。
 竜を殺したのは第二王子のサディアスである。神官たちが止めるのを聞かずに、彼は自分の背丈ほどのある大きな剣で、竜の額を一気に突き刺した。
 その姿はまるで、孤児院の子どもたちが読んでいた絵本に出てくる勇者のような姿であったと、それを止めようとした一人の神官の言葉である。
 彼女の言う通り、すでに厄災は始まっていた。地方部は大嵐に襲われ、そのまま嵐は移動して、王都を雨風に飲み込んだ。
 ほどよい雨は恵の雨であるが、多すぎる雨は山を崩し、川を溢れさせ、家屋や畑を押し流す。
 国を庇護する竜と聖女アイニスが立ち上がり、()()を起こした。
 だからサディアスも決死の覚悟で心を決めた。ラティアーナを信じた。
 キンバリーの予備として育てられたサディアスだが、キンバリーのためでなく、自分のため、国のため、そしてラティアーナとの約束を守るため、決心したのだ。
 竜の弱点を教えてくれたのは、もちろんラティアーナである。
 仕事を終え満足そうに眠っていた竜は、サディアスの一撃で目を覚まし、ひとしきり大暴れした後、永遠の眠りについた。身体はさらさらと砂のように崩れ落ち、光の粒子となって消え去った。
 国を庇護している竜は、むしろ国を支配していた。
 聖女を糧として、その力と記憶を取り込んでいた。
 ――聖女(誰か)の犠牲のうえに成り立つ平和は、真の平和と呼べるのでしょうか?
 竜がいなくなったレオンクル王国に、聖女はもういない。
 竜を討った王子と、それを命じた王太子。
 だが、神殿は隠し事が得意である。その事実さえ、民には隠された。
 ――竜と聖女がいなくなり、混乱に陥っている国をしっかりと導いてほしいのです。
 サディアスはラティアーナの言葉をキンバリーに伝え、キンバリーもその言葉を深く噛みしめる。
 竜もいない、聖女もいない。
 大きな変化は、民を混乱に導くかもしれない。暴動が起き、非難されるかもしれない。そもそも、人の穢れを一手に引き受けていた竜がいなくなった。
 だからこそ、人の本質が露わになる。
 国王は荒れていく国を嘆き、床に臥せるようになる。
 混乱のなか、レオンクル王国の新たな国王になったのはキンバリーである。そして彼の隣に立つのは、彼が最も信頼している弟のサディアス。
 彼らは、ラティアーナとの約束をしっかりと心に刻み、すべてを受け止める覚悟を決めた。
 竜を殺した事実、国を背負う責任。これらから逃げることは許されない。
 ただ残念なことに、キンバリーの隣にアイニスの姿はなかった。



【だから聖女はいなくなった:完】