あれを知ってからというもの、ミレイナは落ち着かなかった。誰かに聞いてもらいたいが、誰に言ってもいけないような気がしていた。
 もちろん神殿の者には言えない。神官にも巫女にも言ってはならない。
 だが、ミレイナには家族はいない。そして友達も言えない。
 そんな彼女の様子に気づいたのはユリウスである。彼女の些細な変化に気がついたようだ。少しだけ、表情が曇っていたのかもしれない。
 ほんのわずかな時間であるのに、彼は少しずつミレイナから話を聞き出した。
 ユリウスは、誰にも伝えたくない話は紙に書いてはいけないと言った。だから、手紙ではなく彼に直接伝えた。
 聖女のこと。
 神殿のこと。
 そして、竜のこと。
 二人だけで過ごせるときに、少しずつ。誰にも知られないようにと、ひっそりと。
 時間はかかったが、ユリウスはミレイナの置かれている立場を理解してくれた。
 だから彼は、口にする。
『俺と、逃げよう』
 その言葉に心が震えた。
 ミレイナは逃げたかった。あの真実を知ってからずっと怖かった。
 迷わず彼の手をとった。
 竜も眠り、神殿も眠り、草木も眠る真夜中に、ミレイナは月白の首飾りを部屋に置いて逃げ出した。
 聖女が逃げ出した前例なんてなかった。聖女が逃げ出すという考えもなかった。
 だから、夜になると警備は薄くなる。
 その隙を狙って、ユリウスがミレイナを神殿から連れ出した。
 向かった先は、ユリウスの故郷であるテハーラの村である。
 村の人たちは、突然帰ってきたユリウスを快く迎え入れてくれた。そして、彼がミレイナを連れてきたから、()()()()()()だろうと思い、心から祝福してくれた。
 田舎のこの村では、王都の情報など入ってこない。それがミレイナにはよかったのかもしれない。
 ミレイナも、ここに来てすぐは竜がどうなったのか、神殿の様子はどうなのか、そればかりを気にしていた。
 だが、仕事を与えられ村の人たちと過ごしていくうちに、そんな嫌なことは忘れていく。
 どこどこの村では嵐にやられただの、どこどこの町は日照りになっているだの、ぽつぽつとそんな話は聞こえてきたが、テハーラの村は長閑なままだった。
 どこからともなく聞こえてくる牛の鳴き声が、あの場所ではないことを教えてくれる。ゆっくりと穏やかに、時間は過ぎていく。
 そうやって今までのことを忘れるかのように幸せに浸っていると、ミレイナは赤ん坊を授かった。もちろん、ユリウスとの子である。
 しかしミレイナは悪阻が重かった。
 それに気づいたのは、村長の妻であるレオナである。彼女もまた、待望の第一子を授かったところで、自身も似たような経験をしたばかりだからと気にかけてくれたのだ。
 それに、王都から慣れないこちらに来て不安だろうと、以前から何かと気を配ってくれたのも彼女だった。
 そこから二人の距離は一気に近づき、互いの家を行き来するようになる。といっても、ミレイナがレオナの屋敷を訪れるほうが圧倒的に多かった。
 ゆるやかに時間は過ぎていき、レオナが男の子を産み、その子はカメロンと名付けられた。
 それから三か月後、ミレイナは女の子を出産した。ラッティと名付けられた赤ん坊は、ミレイナによく似た可愛らしい子で、これにはユリウスも目に涙をためながら喜んだ。
 それでも幸せな時間は長くは続かない。
 ラッティを産んでから、ミレイナの様子がおかしい。
 産後に訪れる気が沈むような状態かと、ユリウスは思っていた。
『ごめんなさい……』
 ある日、ミレイナがぽつんと呟いた。
『私、やっぱり戻らなきゃならない……』
 すやすやと眠るラッティの横で、ミレイナは静かに涙を流す。
 戻るという言葉が何を指すのか、ユリウスは瞬時に理解した。
 あの場にいるのが怖いと言って逃げ出してきたのに、それでも戻ると言う。
『どうして……』
 掠れる声でユリウスは尋ねた。
『この子に、生きてもらいたいから……。竜が、怒ってる。このままでは、この国は……』
 それはユリウスも薄々と気づいていた。港町まで買い出しにいくと、聞こえてくるのは他の村や町の現状。特にネーニャ地方は寒波に襲われたとのこと。食糧や寒さから逃れるための支援も間に合っていないらしい。
 ここの港町も、最近では海が荒れることが多く、船が出せないと嘆いていた。そのため、漁にも行けないし他からの荷が届かない。
 徐々に生活が苦しくなっている。
 ミレイナはユリウスを説得する。本当はミレイナだって怖いし、あそこに戻りたくはない。それでもそう心に決めたのは、産まれたばかりの我が子を想うためだった。
 何も知らないラッティは、鼻をすぴすぴ鳴らしながら眠っている。
 ユリウスだって簡単にミレイナの言葉を受け入れたわけではなかった。幾度か声を荒げた。そのたびに眠っているラッティの身体がピクっと震え、ふにゃふにゃと声をあげる。
 その声を聞いて我に返る。
 それの繰り返しだった。
 最終的にユリウスがミレイナの言葉を受け入れた。互いに譲らなければ、話は平行線のまま終わらなかっただろう。
 ユリウスが折れたのは、やはりラッティのためだった。
 娘を想う、ミレイナの気持ちを踏みにじりたくなかった。
 そしてミレイナは、神殿へと自らの意思で戻った。
 ユリウスは、ミレイナがいなくなってから数日は、彼女は病気で寝込んでいるといって誤魔化し、そしてその後亡くなったと村には伝えた。
 そんな嘘がまかり通ったのも、この村にも厄災の足音が聞こえ始めていたからかもしれない。
 それから、二か月後。
 ――済世の聖女によって、レオンクル王国は奇跡に満ち溢れた。
 と言い伝えられている。

◇◆◇◆◇◆◇◆

 ラティアーナがすべてを知ったのは、神官たちがやってくるほんの一年前のこと。家の掃除をしていて、偶然に見つけてしまった手紙。
 それは歴代の聖女たちが書き記した手紙だった。それは母親の荷物から出てきた。
 本と本の間に挟まっていた。
 だからラティアーナはすべてを知った。
 母親が聖女であったこと。
 そして、神殿と竜のこと。
 この国は、竜によって支配され、弄ばれている。
 竜は、気まぐれに目覚めて気まぐれに眠り、もがき苦しむ人々を見て楽しんでいる。
 ラティアーナが神殿へと向かったのは十四歳のときだった。竜の世話人として指名されたが、このときはまだ聖女とは呼ばれていなかった。
 竜は目覚めたが、その事実が民には隠されていたからだ。
 神殿は隠しごとが得意である。ミレイナがいなくなった事実さえ、隠していた。
 ラティアーナは巫女として神殿に仕え、十六歳になってすぐに聖女と呼ばれるようになった。
 ラティアーナが神殿に素直に従っているのは、竜を殺すため。カメロンもすべてを知っている。
 彼女は竜を殺すために、聖女という役目を受け入れた。
 そのなかで、キンバリーとの婚約は予定外だった。
 カメロンとの約束と親への仇を生きがいにしてきたというのに、生きる糧を失ったような、そんなどん底に突き落とされた気分だった。
 しかし、その気持ちすら周囲に悟られてはいけない。
 聖女としてそれを受け入れ、聖女として振舞った。
 時折、虚無感が襲ってきて食事すら喉が通らないときもあったが、カメロンとの約束を思い出して心を奮い立たせた。
 親代わりであるもあるカメロンの両親から荷物が届くと、孤児院へ足を運んで、それらを寄付した。子どもたちとの時間が、まるで自分の未来を見ているかのような気分にさせてくれた。
 キンバリーから婚約解消を突きつけられた時は、やっと解放されると思った。だが、それを望んでいたのも事実。
 ラティアーナにとって、アイニスという女性は都合のよい女性だった。
 聖女になりたがっている。キンバリーの婚約者になりたがっている。ラティアーナを羨ましがっている。
 だったら、望む者に望む物を与えてあげたほうがいいだろう。
 ラティアーナは躊躇いもせずに、月白の髪飾りをアイニスに手渡した。彼女はそれを待っていたのか、ひったくるかのようにして奪い取った。
 これですべてが終わった。
 王太子の婚約者という役も、聖女という役も、すべてを演じ終えた。
 あれだけ竜を殺したいと思っていたのに、それを誰かがやってくれるなら、それでもいいかなと思い始めた。
 ラティアーナの心の中で、何かが音を立てて崩れた瞬間でもあった。
 もう、疲れた。
 他人のためにではなく、自分のために生きたい――
 復讐のためではなく、幸せを望みたい――
「ラッティ……、眠ってるのか?」
「ん? 起きてる……」
 ソファに座って懐かしい絵本を読んでいたが、少しだけうつらうつらとしていたようだ。膝の上には、読んでいた絵本が広げられている。竜を倒すという神殿の教えに反する、過激な絵本でもある。どこか手作りに見えるその絵本に作者の名前は書かれていない。
 ちょうどそこに、湯浴みを終えたカメロンがやって来て、今にも眠りこけそうなところに声をかけてきた。
「カメロン、ありがとう」
「急にどうした?」
 カメロンは笑いながら、彼女の隣に腰をおろす。
「サディアス様とお話をさせてくれたでしょう?」
「彼が、子どもたちの手紙を渡したいみたいだったからね」
「もう、素直じゃないのね」
「俺は子どもじゃないからね」
 二人は顔を見合わせて、微笑み合う。
 彼女にもう後悔はない。
 サディアスにはすべてを伝えた。彼がこれからどう動くのか。
 そしてアイニスは、聖女の役目を最期まで果たすことができるのか。
 それはもう、聖女でなくなった彼女の知るところではない。