茜色に染まりつつある空を見上げる。
遠くからはガランガランという鈴の音と牛のなき声が聞こえてきた。
「そろそろ、帰りましょうね」
「えぇ? ラッティ、もうちょっと遊ぼうよ」
立ち上がろうとする彼女のスカートを、幼い女の子がつかみ、つんつんと引っ張る。もう少し、ここに座っていてという意味である。
「でも、これ以上遅くなったらおうちの人も心配するでしょう?」
むぅと女の子が唇を尖らせたので、彼女はその子の頭に、今作った花冠をぽふっとのせた。
「似合うわ、お姫様」
お姫様と言われ、幼子も気分がよくなったのだろう。笑みを浮かべ、すっと立ち上がる。
「ラッティ。明日も遊んでくれる?」
「えぇ。明日は天気が悪いみたいだから、おうちの中でご本を読みましょう。でも明日は、ミシェルとエミリーも一緒なの」
「そんなぁ。ラッティを独り占めできない」
女の子はまたむむっと唇を尖らせ、手をつないできた。
「……ラッティ、……リビー」
遠くからそんな二人を呼ぶ声が聞こえてくる。大きく手を振り、傾く太陽を背にしてこちらに向かって走ってきている。
「あ、カメロンだ」
リビーと呼ばれた女の子も、つないでいないほうの手を大きく振った。
カメロンは二人の前に立つと、両手を太ももについてはぁはぁと息を整える。
「カメロン、疲れてる」
リビーがきゃきゃっと笑う。
「もう。どこから走ってきたの? こんなに汗をかいて」
ラッティはエプロンのポケットから手巾を取り出して、彼の額に浮かんでいる汗を拭く。明るい茶色の前髪が、ぺたっと肌に張りついていた。
「家から走ってきたよ。たまには運動をしないとね」
そう言ったカメロンは、リビーのもう片方の手を握った。
「リビー。今日は素敵な冠をつけているね。お姫様みたいだよ」
「ラッティに作ってもらった」
「そうか。よかったね。リビーのお父さんも仕事を終えて、家に帰ったから。このままおうちまで送っていこう」
ラッティとカメロンに挟まれたリビーは、嬉しそうに顔を輝かせた。
「ねぇねぇ、ラッティの赤ちゃんはいつ産まれるの?」
リビーが尋ねた通り、ラッティの腹部はほんのりと膨れている。
「ラッティの赤ちゃんが産まれたら、リビーはお姉さんになる?」
「そうね。赤ちゃんと遊んであげてね」
「ラッティの赤ちゃん、早く産まれないかなぁ」
そんなリビーの声を聞きながら、ラッティとカメロンは幸せそうに顔を見合わせた。
ガランゴロンと鈴を鳴らして牛を連れて歩く牛飼いとすれ違う。牛たちも牛舎へと戻る時間だ。
牛飼いに挨拶をして、幾言か言葉を交わす。やはり、明日は雨になりそうだと牛飼いも言った。
ラッティはリビーと一緒に歌を口ずさむ。それはこの地方に昔から伝わる子守歌で、空が茜色になったらおうちに帰りましょうという歌詞。そして、夜は静かに星空を眺め、夢の世界で会いましょう。と続く。
リビーを彼女の家まで送り届けた二人は、手を繋いで歩き出す。
「体調は、大丈夫なのか?」
夕焼けのような緋色の瞳が、ラッティを見下ろした。彼女は笑みを浮かべ、「大丈夫よ」と答える。
「君が戻ってきてくれてよかった」
「えぇ……。私も、戻ってこられるとは思っていなかった」
ラッティは、五年ほど前この村から出て行った。それからずっと、二人は会っていなかったし、手紙のやり取りすらしていなかった。
お互いに、そういう約束をしたからだ。
ラッティに家族はいない。親代わりのカメロンの両親からは、定期的に衣類や日持ちのする食料などの荷物と、近況を知らせる手紙が届くだけだった。
「明日は、雨だから。お屋敷で子どもたちの世話をすればいいのよね?」
「ああ、頼む。ラッティが子どもたちをみてくれるから、サムもアニーも助かってると言ってた」
「子どもは好きなの。とても素直だから」
「それは……俺が素直ではないと言っているみたいだな」
「だって、あなたは子どもではないでしょう?」
ラッティが見上げて微笑み、カメロンも微笑み返す。
繋がれた手からは、互いのぬくもりが伝わってくる。
カメロンとラッティは幼馴染みで、歩けるようになる前から、互いの家を行き来していたような仲だ。というのも、両親の仲が良かったからである。
特に、ラッティの母親とカメロンの母親は、妊娠と出産の時期が近かったことから、互いに不安や愚痴をこぼし合っていた。
先にカメロンが産まれ、それから三か月後にラッティが産まれた。けれども、ラッティの母親は産後の肥立ちが悪く、ラッティを産んでから一か月後に亡くなった。
カメロンの母親は、ラッティの母親の分までラッティの世話をしてくれた。カメロンの家は裕福だったから、ラッティの父親もそれに甘えていた。
ときに喧嘩もしながら、ラッティとカメロンの二人はすくすくと育つ。
兄と妹のように育った二人は、成長すると同時に、お互いが家族の存在とは違うものであると気づいた。
むしろ血の繋がった兄妹でもない。
好意を寄せあい、互いが互いを想う気持ちを自覚するのも、時間の問題であった。
ラッティとカメロンがそういった関係になるのをカメロンの両親は喜んだし、ラッティの父親もほのかに笑顔を見せた。
カメロンの母親はラッティにとっても母親のような存在であり、カメロンの母親からみてもラッティは娘のような存在だった。
だから、そのうち二人は結婚をして、幸せな家族を築くものだと、村の人たちの誰もがそう思っていた。
――あの日、神殿から神官たちがやってくるまでは。
その日は朝から、どんよりとした鼠色の雲が、空を覆っていた。
夕方になると、王都からわざわざ神官たちが、こんな辺鄙な村にまでやって来た。
神官といえば、この国を庇護する竜の代理人とも呼ばれるような人たちである。そんな人たちが、なぜこの村にやってきたのか、さっぱりわからなかった。
だがその日の夕食の時間、ラッティは父親の様子がおかしいことに気づいた。
食事をとる手が止まっている。
『お父さん、どうしたの?』
ラッティが尋ねると『あいつらは、あいつらは……』と消え入るような声で呟いている。
あいつらが神官たちを指すのだろうと、ラッティは思っていたが、それ以上、父親へ問い質そうとはしなかった。
そんな父親の様子が心配ではあったが、その日はラッティもいつもと同じようにやり過ごす。
次の日の朝は、早くからカメロンが家にやってきた。
『おはよう、カメロン。今日は早いのね』
『おはよう、ラッティ。おじさんはいる?』
『ええ。いるわよ。だけど、ちょっと寝ぼけてるみたい』
ラッティの言葉通り、ソファに座っていた父親はぼんやりとしていた。
『カメロンは、朝ご飯は食べたの?』
『いや。まだだ……。あいつらがいて、落ち着かなくて……』
カメロンの言うあいつらも、神官たちのこと。
『だったら、食べていく?』
『いいのか?』
カメロンは破顔する。それでもすぐに顔を引き締めた。
『あ、いや。今日は、おじさんに話があってきたんだ……』
『じゃ、それが終わってから。私はその間にご飯の用意をしておくね。お父さんもまだだから』
ラッティはキッチンへと消えていく。
その間、カメロンはラッティの父親と話を始める。
キッチンにいるラッティには、彼らの会話がぼそぼそと聞こえていた。ただ、ときどき父親が大声をあげるのが気になっていた。
ラッティが朝食をダイニングテーブルの上に並べ終え、二人を呼びに行く。
『お父さん……?』
父親は泣いていた。この状況を見たら、父親を泣かせたのはカメロンだろう。
『カメロン。何があったの?』
カメロンも泣きそうな顔をしていた。
『どうして、ラッティなんだ……』
『……え?』
父親の呟きにラッティも聞き返す。
『おじさん、ラッティには俺から話します』
そう言ったカメロンは、ラッティを部屋から連れ出した。そして、神官たちがやってきた理由をぽつぽつと話し始める。
黙って聞いていたラッティであるが、彼女は淡々とそれを受け入れた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
テハーラの村は、王都から陸路を使うよりも航路を使ったほうが早い。それは、レオンクル王国が、海に面した国であり、弓なりのような形をしているためである。そして王都がレオンクル王国の北側にあって、テハーラの村が南側にあるからだ。
王都からは三日ほど船に揺られ、降りた港から二時間ほど馬車に乗って着いた先にテハーラの村がある。
村の入り口で馬車を降りると、モォー、モォーと牛の鳴き声に出迎えられた。
「サディアス様、まずは村長の屋敷へと向かいましょう」
連れて来た侍従は二人。目立つ行動はしたくなかった。船の中でも、サディアスをサディアスであると気づいた者はいないだろう。髪と顔を隠すかのようにフードを深くかぶっていた。
「そうだな」
侍従の言葉に従い、サディアスものんびりと歩き出す。手にしている荷物も最小限である。
「本当に田舎……長閑なところですね」
侍従の言葉を聞きながら、サディアスは大きく首を振った。右手のほうには地平線が見える。その手前には、牛が放牧されているのか、白と黒の塊が数えきれないほどいる。先ほどから聞こえる声の主だろう。
「サディアス様。村長の屋敷は、あそこです」
一本道の先の小高い丘にある屋敷。その手前には、似たような家が道の両脇に建ち並ぶ。石灰岩で造られた壁に、茶色の三角屋根。田舎にある、心があたたまるような素朴な家。王都にある建物とは雰囲気もがらっと異なる。
その先にある屋敷は、他の建物よりも一際大きくでっぷりとかまえていて、村全体を見下ろすかのように建っていた。
この時間帯は、外にいる人が多い。畑仕事だったり、家畜の世話をしたり。先ほどから、やたらと人の姿が目に入った。だが、サディアスの歩いている道からは遠い場所にいるためか、その人だって指一本分の大きさにしか見えない。
テハーラの村は畜産業が盛んな村である。そんな動物たちの鳴き声が、よりいっそうこの村に穏やかな印象を与えていた。
馬車一台がやっと通れるような道を進み、村長の屋敷に着いた。
侍従が叩き金を叩く。
コツコツ、コツコツ――。
しばらくして扉が開くと、エプロン姿の女性が姿を現した。不審そうにこちらを見ている。
侍従が幾言か声をかけると「旦那様は不在ですので、若旦那様に聞いてまいります」とのことだった。
侍従はその態度に不機嫌そうな表情を見せたが、ただの使用人に判断ができないのは当たり前だろう。それに、サディアスだって身分を隠して訪れている。それを考えれば、この使用人の態度は妥当なのだ。
不機嫌そうな侍従をなだめるため、サディアスが声をかけると、彼はばつが悪そうに顔をしかめた。この状況をすぐに理解したようだ。
ふたたび扉が開くと「若旦那様がお会いになるそうです」とのことで、中へと招き入れられた。
テハーラ村がレオンクル王国の一部になったのも、ここ数十年のことだと聞いている。だから国直轄の村であり、その村をまとめている村の代表を村長と呼んでいる。
村が国の一部となったとき、当時の国王は村長に男爵位を授けた。
それが今の村長の前の村長であると記憶している。
男爵位は一代限りのものであるため、村長が村長になるときに、国王はその村長に男爵位を授けている。
村長の屋敷といっても、しょせんは田舎の屋敷であり、内装もどこか野暮ったく感じる。それでも掃除は行き届いていた。
「どうぞ、こちらの部屋です」
ホールを抜けて応接間へと案内された。
「すぐに若旦那様が来ますので、こちらでお待ちください」
サディアスはソファにゆっくりと腰をおろした。侍従たちは、彼の後ろに並んで立つ。
この光景で、案内した使用人も関係性を把握したのだろう。
手早くワゴンを運んできて、サディアスの前にだけお茶と菓子を置く。
「お待たせして申し訳ありません。カメロン・キフトです」
そう言ったカメロンは使用人に目配せをした。彼女は一礼して、黙って部屋を出ていく。
「まさか、サディアス殿下自ら、こちらに来てくださるとは思ってもおりませんでした」
サディアスが名乗る前から、彼はサディアスがサディアスであると見抜いたようだ。
「そんな不審な目でみないでください。金色の髪と葡萄色の瞳。レオンクル王国の王太子殿下と同じですよね。それに、侍従を連れてまでこんな辺鄙な田舎にくるとなれば、その王太子殿下の弟であるサディアス殿下である可能性が高いと、そう考えただけです」
「そうですか。では、何も隠す必要はなさそうですね。あらためて自己紹介をさせてください。僕はサディアス・レオンクルです」
カメロンは微かに口元をゆるめている。だが、その目は笑っていない。サディアスを警戒しているのだろう。
「それで、サディアス殿下はなぜこちらに? わざわざそのように身分を隠してまで。まぁ、こちらとしては、そうやって隠れるかのように足を運んでくださって、助かりますけどね」
言葉の節節に棘を感じる。
「えぇ、今回の訪問は非公式ですから」
「なるほど。いや、以前。神殿から神官たちがやってきましてね。そのときは、村全体が大変な騒ぎになったものですから」
そこでカメロンは苦笑した。神官たちの訪問を快く思っていなかったのが、その様子から感じ取れた。
サディアスが目の前のカップに手を伸ばす。
「田舎のお茶ですから、サディアス殿下のお口に合うかどうかはわかりませんが」
「いただきます」
使っている白磁のカップも悪くない。縁には金の刺繍が施され、ゆるやかに湾曲した取っ手は、手に馴染む。
一口飲んで、カップをテーブルの上に戻す。
「なかなか、癖になりそうな味ですね」
「牛糞で作ったお茶です」
カメロンは笑いつつそう言った
後ろに控えていた侍従が身体を強張らせたが、サディアスはそれを制した。
「あぁ。言葉足らずで申し訳ありません。牛糞を堆肥にしたという意味です。牛糞を堆肥にして、茶葉を育てます。まぁ、茶葉はこの村では作っていないのですが、牛糞の堆肥をおろしているので。このお茶は隣の町の特産品です」
「なるほど……」
だが、アイニスにすすめられた隣国のアストロ国のお茶よりは好みかもしれない。
もう一度カップに手を伸ばして、一口飲む。
その様子をカメロンにじっくりと見られた。サディアスの訪問を快く思っていない。それだけはひしひしと感じた。
サディアスがカップを戻すのを見届けてから、カメロンは口を開く。
「話が逸れてしまいました。サディアス様はどういったご用件でこの村に?」
カメロンがサディアスを試しているようにも見える。
「聖女であったラティアーナ様は、テハーラの村の出身であるとお聞きしたのです。ラティアーナ様にお会いできないでしょうか?」
カメロンの右目がひくっと動いた。
「ラティアーナという者は、この村にはおりません」
「ですが、ラティアーナ様はこちらの村の方だと。今の聖女のアイニス様が、ラティアーナ様本人から聞いたようです。それに、先ほどもあなたは、数年前に神官がこの村を訪れたと、そうおっしゃいましたよね」
「なるほど。ですが、今の聖女はアイニス様とおっしゃるのでしょう? なぜ前の聖女を探しているのです?」
そう尋ねたカメロンの眼は、笑っていない。
「ラティアーナ様にお伝えしたいことがあるのです」
サディアスは、少しだけ視線を下げた。ラティアーナに伝えたいことはたくさんある。キンバリーのこと、アイニスのこと、神殿のこと、竜のこと。そして、孤児院のこと。
「それは、どういった?」
カメロンの眼が鋭くなった。
「ラティアーナ様に、兄――キンバリー殿下から伝言がございます。また、ラティアーナ様が足を運んでいた孤児院の子たちから、手紙を預かってきました」
カメロンの表情がふと緩む。
「ですが、この村にラティアーナという者はおりません。残念ですが、その手紙を渡せる相手がいないのです」
先ほどよりも穏やかな口調だ。サディアスに対して、少しは心を開いてくれたのだろうか。
「そうですか……ラティアーナ様はこちらの出身と聞いておりまして。てっきり、聖女を辞められたあとはこちらに戻ってくるものと思っていたのですが……」
行き場を失った手紙が、テーブルの上にぽつんと置かれている。子どもたちの拙い字で、ラティアーナの名前が封筒にしっかりと書かれていた。
「もし、ラティアーナ様がこちらにお戻りになられて、お会いするようなことがあれば、こちらを渡していただいてもよろしいでしょうか?」
「サディアス殿下もなかなか強情な方ですね。残念ながら、こちらにはラティアーナという者に心当たりがないのです。ですから、そちらは殿下のほうから、その方にきちんとお渡しすべきでは?」
「そう、ですか。わかりました。僕がラティアーナ様に出会ったら、お渡しします」
サディアスは手紙をしまった。
てっきりラティアーナはこの村に戻ってきていると思ったのに、いないと言う。
神殿にもいない、孤児院にもいない、王都にはいない。だから彼女の生まれ育った故郷へとやってきた。
それでもここにもいない。
彼女はどこに行ってしまったのか。
「ところで、サディアス殿下。今日、御泊りの場所は決まっておりますか?」
カメロンに指摘され、宿泊については何も考えていなかったことに気づく。ラティアーナに会いたい一心で、ここであれば彼女に会えるだろうと、そんな逸る気持ちでこの地を訪れたからだ。
「……いえ。それは、これから」
「では、ここにお泊りください。すぐに部屋を用意させます。王都からですと、航路で来られたのですか」
「あ、はい。そうですね」
「長旅でお疲れでしょう?」
カメロンは呼び鈴を鳴らして使用人に部屋の用意をするようにと言いつける。
彼がなぜ、これほどまで態度を軟化させたのかがわからない。
しばらくカメロンとお茶を飲みながら、話をする。主にテハーラ村の現状である。
最近は、畜産業が軌道にのっているため、貧しい思いをする者もいない。むしろ、忙しすぎて人手が足りないくらいだと。
「このような小さな田舎の村で、こうやって穏やかに暮らせるのがなによりです」
カメロンの言葉がサディアスの心にズキンと突き刺さった。
きっとそういった生活を壊すようなことをしてはならないのだ。
数年前に神官がこの村に来たことをカメロンはよく思っていない。それは言葉の節々から感じ取れた。
だから、カメロンがサディアスを警戒していたのは、今までの生活をがらっと変えてしまうような、何かが起こると思っていたからかもしれない。
「サディアス殿下。部屋の準備が整ったようです。案内します」
応接間を出て、ホールからサルーンへと入る。すると、どこから歌が聞こえてきた。
「……?!」
サディアスが反応すると、カメロンは「中庭に子どもたちがいるので」と答える。
「お子さんが、いらっしゃるのですか?」
「いえ。村の子を預かっているのです。子をみながら仕事をするというのは、なかなか大変でしてね。特に子どもは目を離すと何をしでかすかわからない。ですから、昼間に両親が働いている間、その子をこちらで預かっているのです」
「そうなのですね。素晴らしい取り組みですね。ところで、この歌……」
サディアスが気になったのは、先ほどから聞こえている歌である。
「あぁ。この村に昔から伝わる子守歌のようなものですよ。幼い頃から聞かせられているから、何気に歌ってしまうんですよね」
「あの。中庭を案内してもらうことはできますか?」
「ええ、かまいませんよ。先に、部屋に荷物を置いてからのほうがいいでしょう」
いくら少ない荷物であっても、それを手にしたまま屋敷をうろうろとするのは、見栄えもよくないだろう。
カメロンに案内された部屋は、いたって普通の貴賓室であった。寝室と応接間と控えの間がある。これなら、サディアスについてきた侍従も、ゆっくりと休めるはずだ。
サディアスは侍従に荷物の整理を頼むと、カメロンと部屋を出ていく。これには侍従もついていくと口にしたが、それはサディアスが宥めた。
この場所でサディアスの命を狙う者はいない。
そう確信したためだ。
「サディアス殿下、こちらが中庭です」
外へ出た瞬間、さわわわと草木が揺れた。今日は穏やかな風が吹いている。
風がやみ、中庭で遊んでいる子どもに目を向ける。
「……あっ」
サディアスは息を呑んだ。
「カメロンもいっしょに遊ぼう」
こちらに気づいた子どもが、元気に手を振っている。
「カメロン殿。彼女は……」
サディアスが目を奪われたのは、子どもと一緒に遊んでいる一人の女性。
晴れた空を思わせるその髪の色。宝石を思わせる翡翠色の瞳。そんな彼女が、黙ってこちらを見つめている。
「あぁ。あとで紹介しようと思っていたのですが。私の妻です」
カメロンが女性と子どもに向かって歩き出したので、サディアスもそれに従った。
それでも今、心臓を鷲掴みにされたように、ぎゅっと胸が苦しかった。
カメロンが妻と言った女性。それは間違いなくラティアーナである。
だが、サディアスの知っている彼女とは少し違う。腰に届くほど長かった髪は、肩の長さで切り揃えられ、顔もいきいきと輝いている。
身体つきもどこかふっくらとしているし、なによりもサディアスが目を奪われたのは彼女の腹部である。少しだけせり出している腹部。そこで新しい命を育んでいるのだろうと思わせるような。
「ねえ、カメロン。この人、だれ?」
子どもの声で我に返る。
「王都から、牛さんを見に来た人だよ。ここの牛さんは美味しいからね」
「牛さんを見に来た人?」
「あ、うん。はじめまして。僕はサディアス」
サディアスは身をかがめて、子どもと視線の高さを合わせた。
「サディアスは王子様みたいにきれいな人ね。わたし、リビー」
「よろしく、リビー」
サディアスが手を出すと、リビーはにっこりと笑ってその手を握り返した。
「リビー。サディアスはラッティにお話があるそうなんだ。だから、その間、俺と一緒に本を読んでいよう」
「え~。カメロン、ご本の読み方、へたくそなんだもん」
「あら。だったら、リビーがカメロンに本の読み方を教えてあげたらどうかしら? リビーはとっても上手に読むものね」
久しぶりに聞いた彼女の声。目の前の女性は、間違いなくラティアーナだ。
「しょうがないな、カメロン。リビーが教えてあげる」
リビーはサディアスの手をぱっと離し、カメロンの手を握った。
「ラッティもサディアスも、牛さんのお話が終わったら、リビーと遊んでね」
手を横に振ったリビーに、サディアスも手を振り返した。
リビーの姿が見えなくなると、一気に静かになったような気がした。
風に吹かれて揺れる草木のこすれ合う音が、異様に大きく聞こえる。
「ラティアーナ様。お久しぶりです」
彼女と向き直り、サディアスは震えそうになる声をなんとか喉の奥から絞り出した。
「お久しぶりです、サディアス様。ですが、私はもう聖女ラティアーナではありません。ですから、どうかその名で呼ばないでください。それは、私が聖女となるときに、神殿側が勝手につけた名前なのです」
ラティアーナの名はラティアーナではなかった。
また、知らなかった事実に身体が震える。
「本当の名をお聞きしてもよろしいですか?」
彼女はその言葉に静かに頷いた。
中庭にある長椅子に、二人並んで腰をおろす。二人の間は、子どもが一人座れるくらいの微妙な距離が空いていた。
「サディアス様は、どうしてこちらに?」
彼女は愛おしそうに腹部を撫でてから、足元の花を摘む。
「はい。貴女に会いにきました。兄からの言葉を伝えるために。それからこれを……」
カメロンには受け取ってもらえなかった子どもたちからの手紙を、サディアスは差し出した。
「まぁ。あの子たちから? ありがとうございます、サディアス様。これを、あの人……カメロンに見せました?」
「はい。そうしたら、自分で渡せと言われました」
「ふふ。あの人らしい」
たったそれだけなのに、彼女がカメロンをどのように想っているのかがひしひしと伝わってきた。
「あの……ラティア……ラッティとカメロン殿は、その……」
「えぇ。私がこちらに戻ってきてしばらくしてから、結婚しました」
「そうですか……」
わかっていたはずなのに、彼女から言葉を聞かないかぎりは信じないと思っていた。それでもこうやって言葉にされてしまっては、信じなければならないだろう。
厳しい現実をつきつけられた気分である。
「キンバリー様は、お元気でいらっしゃいますか? アイニス様も……」
そうやって二人を気にかけてもらえると、なぜか安心できる。忘れられてはいないのだな、と。
「兄は、元気ですが……。ラティアーナ様がいなくなられたことで、執務のほうが滞っておりました」
「そうですか。キンバリー様は、他人に頼ることをされない方なので。あの方に必要なのは、信頼できる部下でしょう」
その通りである。キンバリーはなんでも一人でやる傾向が強い。そのため、彼の仕事がたまっていき、溢れてしまう。
「わかりました、兄に伝えておきます」
サディアスの言葉に、彼女は以前と変わらぬ微笑みを浮かべる。
「それから、アイニス様は……。なんとか聖女の務めを果たしている感じです」
「大変でしょう? 聖女の務めは。アイニス様も、そうおっしゃっておりませんでしたか?」
「えぇと、まぁ。そうですね。神殿で竜のうろこを磨くのが大変だと」
「えぇ。あれはとても大変な作業です。昔から神殿で暮らしていればそういうものだとわかっているのですが、いきなりあれをやれと言われたら、誰だって嫌がるでしょうね。私でさえも、今になってそう思います。あれをやり遂げられるのは、神殿によって洗脳された人間か、強い意志を持つ者か……」
ふと彼女の顔が陰る。
「ですが、竜のうろこは私たちの穢れを集める役目があるため、きちんと磨かなければ、竜は穢れまみれになってしまうのです」
手が寂しいのか、彼女はいつの間にか前と同じように花冠を作っていた。足元には花冠が作れるような花が咲いているし、彼女が座った脇にはたくさんの花が摘んであった。
「竜が穢れにまみれると、どうなるのですか?」
神殿は竜について詳しく教えてくれない。聖女の役目についても、もっと深いところまで知りたいのに、どうしても越えられない壁があるようで、それ以上の情報を聞き出すのははばかれるような、そんな感じがしていた。
だが、彼女であれば、それをすんなりと教えてくれるだろうという根拠のない自信がある。
「竜が穢れにまみれると、厄災が訪れると言われています。実際、二十年ほど前には、厄災が訪れたと言われておりますよね。大寒波が襲い、寒さと飢えで多くの方がその命を失いました」
「あぁ、そうですね。ネーニャの大寒波と呼ばれていますね」
ネーニャの大寒波――。
レオンクル王国のネーニャ地方が大寒波によって大打撃を受けた。この地方に住んでいた者の半分以上が、飢えと寒さで亡くなった。国からも食料の援助を出したが、それも雀の涙程度。王都も食料が不足し、他の地方に回す余裕がなかったのだ。寒波に覆われたのは、王都も同じだった。
それを救ったのが竜と済世の聖女である。
聖女が竜に祈りを捧げ、竜が空を飛び立ち、雪雲を吹き飛ばした。氷ついていた空間が、あたたかさに溢れ始める。
それが竜と済世の聖女による奇跡の瞬間でもあった。
聖女は一人ではその力のすべてを発揮できない。竜と共にある聖女は、竜が国を救うように導かなければならない。それが聖女の役目であり、存在する意義でもある。
済世の聖女は、レオンクル王国を救った後、その姿を消した。
「聖女様がいらっしゃらなければ、今頃、レオンクル王国も存在していなかったでしょう」
サディアスの言葉に、彼女は少しだけ苦しそうに眉をひそめた。彼女の手元も止まっている。
「あの……兄から、ラティアーナ様……ラッティに伝言がありまして」
「なんでしょう?」
「申し訳なかったと、そう言っておりました」
「それは、謝罪ですか?」
「……はい」
「何に対する?」
彼女は顔をあげて、真っすぐにサディアスを見つめる。翡翠色の瞳は、キンバリーが婚約破棄を突きつけたときと同じように力強く揺れている。
しかしそう問われると、サディアスも即答できない。キンバリーはラティアーナに謝罪したいと言っていたが、それが何に対する謝罪なのか。目下のところ、婚約破棄に対する謝罪なのだろう。
「パーティーのときの、婚約破棄の件かと……」
「まぁ。キンバリー様はそれを気にしていらっしゃったのですね。あれは、私にとっては僥倖でした。キンバリー様とアイニス様に、感謝を申し上げます」
「ラティアーナ様は……兄を好いていたわけではなかったのですね」
「えぇ。でしたら、こちらに戻ってきてすぐに結婚などしないでしょう? 私はずっと、カメロンのことを想っていました。聖女になったから、キンバリー様と婚約しましたが、できることならその婚約も、そして聖女という役目も投げ出したかった」
サディアスから視線を逸らした彼女は、黙々と花冠を作り続ける。
そんな彼女の姿を見て、胸が痛んだ。
ラティアーナはキンバリーを受け入れていると思っていた。
ラティアーナは聖女という役目に誇りを持っていると思っていた。
けれども、彼女の本音は異なっていた。
「周囲から、勝手に聖女ラティアーナという理想を作り上げられ、私はただそのように振舞っていただけです」
その言葉に、息を呑む。
その通りかもしれない。聖女ラティアーナは、済世の聖女であり、レオンクル王国を平和に導く存在。立ち居振る舞いもおしとやかで、奉仕作業にも精を出し、誰にも平等に接する。
国を庇護する竜との意思疎通もでき、竜を世話する様子すら神々しいと言われていた。
王太子キンバリーと婚約したことで、彼女の地位は確固たるものとなり、それすら当然とも言われるような雰囲気ができあがっていたのだ。
それでもキンバリーは、聖女ラティアーナに救われていた部分はあった。彼女が執務を手伝ってくれた、公式の催し物では隣に寄り添ってくれた。
少なくともキンバリーは、聖女ラティアーナに惹かれていた。あのすれ違いが起こるまでは。
「兄は……ラティアーナ様のお身体を心配しておりました。神殿の食事は、孤児院のものよりも貧しいものであった」
「そうですね。キンバリー様には、何度も聞かれましたから。あのときの私は、生きるのをあきらめたような、そんな感じでした。食事をとらなければ死ねるのではないかと、そう思ったこともあります」
彼女がそこまで思いつめていたことを、サディアスは知らない。
「それでも、なんとか思いとどまることができたのは、あの人との約束があったから……。キンバリー様の婚約者を演じ終えたら、必ずここへ戻ってこようと、そう思っていたのです」
キンバリーとの婚約さえ、利用しようとしていたのだろうか。だが、婚約の先の結婚はどう考えていたのだろう。
「婚約とは結婚の約束ですから、いかようにもなるのですよ。現に、キンバリー様と私の婚約は解消されたではありませんか」
まるでサディアスの心の中を読んだような言葉である。
彼女は膝の上の手紙に視線を落とした。
「孤児院の子どもたちは、お元気ですか? 将来、あの子たちが自立てきるようにと、いろいろと教えてはいたのですが。役に立っているでしょうか」
「はい。子どもたちも、ラティアーナ様に感謝しています。商会でお針子として働いている子もいます。菓子店に務めている子もいます」
「そうですか……安心しました」
「……ラティアーナ様は、兄が孤児院へ寄付をしていたことをご存知ですか?」
「ええ。ですが。あの方の寄付金は、孤児院とは別のところに流れていたのですよ」
その言葉に、胸がズキンと痛む。それは、つい数か月前に発覚した事実。孤児院へと送っていた寄付金は、実際には孤児院に届けられていなかった。
そしてその事実を、彼女は知っていたのだ。
「キンバリー様の寄付金は、神殿に流れていたのです」
いつの間にか彼女の手は動いていた。一つの花冠が出来上がる。
「キンバリー様はさらに神殿に寄付金を与える。神殿としては、思いもよらなかったでしょうね。ですから、聖女ラティアーナのドレスを新調したわけです。キンバリー様の婚約者としてふさわしいようにって。みすぼらしい巫女姿のままでは、彼に飽きられてしまうだろうと心配したみたいです」
少しだけ、彼女の手の動きが鈍くなる。
「ですが、それがキンバリー様には面白くなかったのでしょう? 彼にとって聖女ラティアーナは、みすぼらしい巫女姿であってほしかったようです。あのような豪奢なドレスを身に着ける聖女は聖女ではないと、そう思ったのでしょう?」
「違います。兄は……神殿への寄付金をラティアーナ様が私的に使用されていると、そう誤解したのです」
「少し考えればわかること。質素であり倹約であり堅実であるがモットーの神殿ですが、聖女や巫女以外の神官たちの様子をご覧になりましたか? 私たちに質素倹約、堅実だと言っておきながら、彼らの生活はそれとは程遠いものだったのではないでしょうか? キンバリー様が聖女に飽きないようにと、神官たちのほうから聖女のドレスを作らせたのです。神殿側は、聖女を使ってキンバリー様を縛り付けておきたかったのです。だって、寄付金をくださる絶好の鴨なのですから。それに、聖女との婚約を言い出したのも神殿側からですよね」
それは、サディアスもうすうすと感じていた。それを言葉にしてしまったら、認めたくない事実が事実となり、キンバリーを傷つけることになるだろう。
キンバリーは間違いなく利用されていた。金づるだった。そしてそれに気づかなかった。
「サディアス様は混乱されているようですね。ですが、それが事実です。ただ、各人がそれぞれの言葉の意味を捻じ曲げて、自分の都合のよいように解釈しているだけ……」
さまざまな人から話を聞いたから、サディアスも理解している。同じ話であっても、人によって捉え方が異なっている。それが事実の確認を怠った結果なのだ。
さらに、キンバリーがラティアーナに婚約破棄をつきつけるきっかけとなった聖女のドレス。あれこそ、すれ違いの塊であり発端でもある。
「となれば、真実は、どこにあるのでしょう」
彼女がそう言った。その言葉が、重く心にのしかかる。
サディアスはゆっくりと時間をかけて、こうやってさまざまな人たちから話を聞いてきた。
彼女がこの村の出身であることがわかったときから、すぐにここへと来たかった。彼女に会いたかった、確かめたかった。
それが叶わなかったのは、キンバリーの寄付金が神殿に流れていた件が原因である。それを突き止めていたからだ。
彼女の手は、二つ目の花冠を作り始めていた。
「ねぇ、サディアス様。誰かの犠牲のうえに成り立つ平和は、真の平和と呼べるのでしょうか?」
何かを思い出したかのように、彼女はぽつりと呟いた。
「どういう意味、でしょうか? 兄が犠牲を払っている、と?」
「いいえ」
彼女は軽く首を振る。
「サディアス様は気づいていらっしゃらないのですか? 国を庇護する竜。あれは、本当に国を庇護しているのでしょうか?」
それ以降、彼女は黙々と花冠を作り続けた。
聞きたいことはたくさんある。確認したいこともたくさんある。だけど、話しかけてはならないような、そんな厳かな空気が流れていた。
なぜ、寄付金の件を教えてくれなかったのか。
なぜ、ドレスの件を説明してくれなかったのか。
なぜ、聖女を受け入れたのか。
聞きたいけれど、聞いてはいけないような気がした。
彼女はもう、聖女ラティアーナではないのだ。
そんな彼女の手は、二つ目の冠を作り終えた。それを、サディアスの頭にぽふんと載せる。
「やはり、サディアス様には冠が似合いますね」
「これは……僕がいただいてもいいですか? 以前、ラティアーナ様からいただいた花冠は、枯れることなく、僕の机の上に飾ってあります」
「それは、あのときの力のおかげですね。残念ながら、聖女ではないただのラッティが作った花冠は、それほど日持ちはしませんよ?」
「はい。枯れた花冠は土に還します」
サディアスは寂しげに微笑んだ。
ミレイナに両親はいない。数年前の厄災と言われる大雨で、両親は家屋ごと山に呑み込まれた。ミレイナも一緒にいたが、奇跡的に助かった。奇跡的に助かったが、家族を失い、家も失った。
そんなミレイナが行きついた先は孤児院である。
ここには彼女と似たような境遇の子が多かった。そのため、生活は弱肉強食。取り分けられたはずの食事は、ぼやぼやしていると奪われてしまう。
生きるために奪い奪われながら、それでも自分より小さな子には分け与える。
孤児院もけして余裕のある場所ではない。
みんなが必死になってその日を生きていた。
ミレイナに転機が訪れたのは、十歳の時であった。神殿から神官たちがやってきて、巫女となる女性を探していた。
そこで彼らの目に止まったのがミレイナだった。珍しい髪の色に魅せられたのだろう。彼女の髪は、晴れた空を思わせるような色。
孤児院から神殿へと生活の拠点を移したミレイナは、巫女と呼ばれるようになった。毎朝、眠っている竜のために祈りを捧げるところから一日が始まる。
竜は、五年前に聖女と共に厄災から人々を守ってくれた。その役目を終え、永き眠りについているとのこと。だから、聖女もいない。
神官たちと他の巫女たちと、竜に祈りを捧げ、質素倹約な生活を繰り返す。それでも孤児院よりは、食事はよかった。
奪う人はいない。分け合う相手もいない。自分に与えられた分を、自分のために食べる。
ミレイナが神殿に来てから十年目。
竜が目覚めた。
竜が目覚めると、竜の世話をする聖女がすぐに選ばれる。聖女の役目は、穢れで汚れた竜のうろこを磨くこと。このうろこのすべてが穢れで覆われると、厄災が訪れると言われているからだ。大なり小なり、うろこの汚れと比例するとも言われているが、その辺の真相は竜にしかわからない。
聖女に選ばれた女性は、月白の首飾りを神殿から授かる。そうすると、聖なる力と呼ばれる不思議な力が与えられる。
その力をもって、竜の世話をし、国を厄災から救う。
神殿が聖女として選んだ女性は、ミレイナだった。
他の巫女からは羨望の眼差しを受けるなか、神官長より月白の首飾りを授かった。
すると、身体の奥から何か特別な力が湧き出てくるような、そんな感じがしたのだ。
それが聖なる力と呼ばれる不思議な力である。
月白の首飾りを肌身離さず身に着けているミレイナは、竜の言葉が理解できるようになっていた。
《腹が減った》
そう言って竜が食べるのは、人々の穢れである。人を憎み、恨み、妬む気持ちが竜の糧となる。
穢れを食べた竜は、うろこが汚れる。それをせっせと磨くのが聖女の役目。
その仕事をさぼると、竜は穢れにまみれ異臭を放ち始める。
異臭がし始めると、神殿で暮らす者たちに迷惑をかけるだろうからと、聖女はそうならないようにうろこを磨く。
竜のうろこが汚れるのは、竜が人々の穢れを引き受けているから。その結果、この国は人々が穏やかに過ごせているのだろう。
聖女となったミレイナは、そう思っていた。
だから、竜のうろこをせっせと磨く。
人々が末永く、安穏たる生活を送れるようにと。
そんな彼女が、ユリウスと出会ったのはその頃だった。
ユリウスは王国騎士団に所属する騎士で、主に王城の警備を担当していた。
ミレイナも聖女として王城を訪れることはちょくちょくあった。
王妃主催のお茶会。そういった名目で訪れることが多かった。
でもその日は、お茶会の雲行きが怪しかった。
いつも目立たぬようにと質素なドレスで参加しているミレイナだが、ミレイナがどこかの女性の婚約者を誘惑したとか、そんな話の流れになったのだ。
ミレイナにとっては寝耳に水の話である。
そもそも、この場に参加している女性の名前すらよくわからない。どこかの貴族の令嬢らしいのだが、その家名ですら覚えられない。
彼女が顔と名前が一致している女性は、王妃くらいである。さすがにここだけは覚えた。
本当は来たくもない茶会なのに、神殿からは王族とのつながりは重要だからと、背中を押されて渋々と参加しているだけにすぎない。
それなのに、身に覚えのないことで言いがかりをつけられている。
そして、こういうときにかぎって、主催者である王妃は席を外している。
いや、彼女がいないからこそ、こういった話題があがったのだ。
妬み――。
竜が好きそうな穢れである。
その結果、ミレイナは参加している女性の一人から熱々の紅茶をかけられた。なぜこのような流れになったのか、ミレイナ自身には心当たりがない。
彼女たちに言わせると、そういうところが頭にくるらしいのだが、ミレイナにはさっぱりわからない。
その場にいた侍従や騎士たちが間に入り、それ以上の問題には発展するのを防いだ。
問題があるとしたら、ミレイナのドレスくらいだろう。いくら質素なドレスといえども、紅茶によって汚れている。その結果、汚れたドレスで、神殿に戻らねばならない。
ミレイナは軽く息を吐いた。
聖女は基本的には神殿から出ない。神殿から出るときには、神官が護衛と称して共をする。だが、王城に来る時だけは王城側が護衛と迎えを出していた。
その日、護衛についてくれたのがユリウスだ。
神殿には自分のほうから説明すると彼は言った。
ミレイナには非がなかったことも、こちら側が悪かったことも、すべて説明し謝罪をすると。
場合によっては、後日、王妃からの謝罪が届くかもしれない。
だけど、今は王妃が不在で確認できないから、わかり次第連絡すると。
帰りの馬車の中で、彼はそう伝えてきた。
ユリウスはとても誠実な騎士であった。
神官長もユリウスの態度に免じて、今回の件は大事にしないと約束した。それでも今後は、王族主催の催し物への参加について考えさせてほしいと口にする。
ユリウスはその言葉を国王に伝えると言い、王城へと帰っていった。
それからしばらくして、王妃から謝罪が届いた。
神官長もそれには気分をよくし、ミレイナに今後も王族とよい関係を築くようにと命じる。
ミレイナはその言葉に従った。従うしかなかった。
それからというもの、何かしら用があって王城に行くときは、ユリウスが護衛についてくれた。
どうやら彼は、聖女の護衛を命じられたらしい。とても名誉であると、口にしていた。
閉鎖された空間の中で、ミレイナが知り合える異性というのは限られている。たびたび彼の優しさと誠実さに触れ、ユリウスに惹かれないわけがなかった。
それでもその気持ちを踏みとどまらせていたのは、やはり聖女という立場があるため。
けれども、そう思っていたのはミレイナだけでなかったようだ。
二人は、人の目を盗んで、二人切りで顔を合わせるようになる。
聖女の近くには、必ず巫女がいた。それは、例のお茶会での事件を受け、お目付け役に神殿側が寄越したのだ。第三者の目が光れば、ミレイナに嫌がらせもできないだろうというのが神殿の考えだ。単純であるが、効果はあるだろう。
だから、ミレイナはなかなか一人になれなかった。それでも彼女は王城の敷地内は安全だから一人にしてほしいと口にする。
共に神殿で暮らしている巫女だから、聖女の仕事の大変さを理解しているのだろう。特に、竜の世話。大きくて異臭を放つ生き物。うろこを磨く作業は、体力と気力を使う。
巫女もミレイナに同情したのだろう。
ほんの少しだけ、一人になれるのを許された。
そのわずかな時間を使って、ミレイナはユリウスと会った。
言葉を交わす時間も限られている。となれば、伝えられないことは手紙に託す。
幾言か他愛のない話をするだけ。
そんなささやかな時間がミレイナの楽しみな時間でもあった。
ミレイナは歴代の聖女の中でも、月白の首飾りとの相性がよかったのかもしれない。
聖なる力によって、感じられないものを感じられるようになった。それで気になったのが、ベッドの下の床下の場所だった。理由はないけれど、気になった。
気になったら、それを確認したくなる。
ベッドの下をのぞき込み、床板に手をかける。驚いたことに、これは簡単に外れる作りになっていた。いや、もしかしたらそれすら聖なる力によるものにちがいない。その力に導かれて、ここを見つけたのだ。
床下から出てきたのは、手紙だった。誰宛てに書かれた手紙かはわからない。宛名は書かれていなかった。
自分宛ての手紙ではないだろうと思いつつも、それを手に取って読んでみる。
結局、誰宛てに書かれた手紙でもなかった。
だた、聖女と竜の関係について書かれていた。読み進めていくうちに、手紙を持つ手が震える。
これは、他の者には知られてはならない内容だ。
ミレイナはすべてを読み終えると、手紙があった場所にそれを戻した。
今までこれの存在が明らかにされていないことを不思議に思いつつも、震える手で床板を元に戻した。
あれを知ってからというもの、ミレイナは落ち着かなかった。誰かに聞いてもらいたいが、誰に言ってもいけないような気がしていた。
もちろん神殿の者には言えない。神官にも巫女にも言ってはならない。
だが、ミレイナには家族はいない。そして友達も言えない。
そんな彼女の様子に気づいたのはユリウスである。彼女の些細な変化に気がついたようだ。少しだけ、表情が曇っていたのかもしれない。
ほんのわずかな時間であるのに、彼は少しずつミレイナから話を聞き出した。
ユリウスは、誰にも伝えたくない話は紙に書いてはいけないと言った。だから、手紙ではなく彼に直接伝えた。
聖女のこと。
神殿のこと。
そして、竜のこと。
二人だけで過ごせるときに、少しずつ。誰にも知られないようにと、ひっそりと。
時間はかかったが、ユリウスはミレイナの置かれている立場を理解してくれた。
だから彼は、口にする。
『俺と、逃げよう』
その言葉に心が震えた。
ミレイナは逃げたかった。あの真実を知ってからずっと怖かった。
迷わず彼の手をとった。
竜も眠り、神殿も眠り、草木も眠る真夜中に、ミレイナは月白の首飾りを部屋に置いて逃げ出した。
聖女が逃げ出した前例なんてなかった。聖女が逃げ出すという考えもなかった。
だから、夜になると警備は薄くなる。
その隙を狙って、ユリウスがミレイナを神殿から連れ出した。
向かった先は、ユリウスの故郷であるテハーラの村である。
村の人たちは、突然帰ってきたユリウスを快く迎え入れてくれた。そして、彼がミレイナを連れてきたから、そういうことだろうと思い、心から祝福してくれた。
田舎のこの村では、王都の情報など入ってこない。それがミレイナにはよかったのかもしれない。
ミレイナも、ここに来てすぐは竜がどうなったのか、神殿の様子はどうなのか、そればかりを気にしていた。
だが、仕事を与えられ村の人たちと過ごしていくうちに、そんな嫌なことは忘れていく。
どこどこの村では嵐にやられただの、どこどこの町は日照りになっているだの、ぽつぽつとそんな話は聞こえてきたが、テハーラの村は長閑なままだった。
どこからともなく聞こえてくる牛の鳴き声が、あの場所ではないことを教えてくれる。ゆっくりと穏やかに、時間は過ぎていく。
そうやって今までのことを忘れるかのように幸せに浸っていると、ミレイナは赤ん坊を授かった。もちろん、ユリウスとの子である。
しかしミレイナは悪阻が重かった。
それに気づいたのは、村長の妻であるレオナである。彼女もまた、待望の第一子を授かったところで、自身も似たような経験をしたばかりだからと気にかけてくれたのだ。
それに、王都から慣れないこちらに来て不安だろうと、以前から何かと気を配ってくれたのも彼女だった。
そこから二人の距離は一気に近づき、互いの家を行き来するようになる。といっても、ミレイナがレオナの屋敷を訪れるほうが圧倒的に多かった。
ゆるやかに時間は過ぎていき、レオナが男の子を産み、その子はカメロンと名付けられた。
それから三か月後、ミレイナは女の子を出産した。ラッティと名付けられた赤ん坊は、ミレイナによく似た可愛らしい子で、これにはユリウスも目に涙をためながら喜んだ。
それでも幸せな時間は長くは続かない。
ラッティを産んでから、ミレイナの様子がおかしい。
産後に訪れる気が沈むような状態かと、ユリウスは思っていた。
『ごめんなさい……』
ある日、ミレイナがぽつんと呟いた。
『私、やっぱり戻らなきゃならない……』
すやすやと眠るラッティの横で、ミレイナは静かに涙を流す。
戻るという言葉が何を指すのか、ユリウスは瞬時に理解した。
あの場にいるのが怖いと言って逃げ出してきたのに、それでも戻ると言う。
『どうして……』
掠れる声でユリウスは尋ねた。
『この子に、生きてもらいたいから……。竜が、怒ってる。このままでは、この国は……』
それはユリウスも薄々と気づいていた。港町まで買い出しにいくと、聞こえてくるのは他の村や町の現状。特にネーニャ地方は寒波に襲われたとのこと。食糧や寒さから逃れるための支援も間に合っていないらしい。
ここの港町も、最近では海が荒れることが多く、船が出せないと嘆いていた。そのため、漁にも行けないし他からの荷が届かない。
徐々に生活が苦しくなっている。
ミレイナはユリウスを説得する。本当はミレイナだって怖いし、あそこに戻りたくはない。それでもそう心に決めたのは、産まれたばかりの我が子を想うためだった。
何も知らないラッティは、鼻をすぴすぴ鳴らしながら眠っている。
ユリウスだって簡単にミレイナの言葉を受け入れたわけではなかった。幾度か声を荒げた。そのたびに眠っているラッティの身体がピクっと震え、ふにゃふにゃと声をあげる。
その声を聞いて我に返る。
それの繰り返しだった。
最終的にユリウスがミレイナの言葉を受け入れた。互いに譲らなければ、話は平行線のまま終わらなかっただろう。
ユリウスが折れたのは、やはりラッティのためだった。
娘を想う、ミレイナの気持ちを踏みにじりたくなかった。
そしてミレイナは、神殿へと自らの意思で戻った。
ユリウスは、ミレイナがいなくなってから数日は、彼女は病気で寝込んでいるといって誤魔化し、そしてその後亡くなったと村には伝えた。
そんな嘘がまかり通ったのも、この村にも厄災の足音が聞こえ始めていたからかもしれない。
それから、二か月後。
――済世の聖女によって、レオンクル王国は奇跡に満ち溢れた。
と言い伝えられている。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ラティアーナがすべてを知ったのは、神官たちがやってくるほんの一年前のこと。家の掃除をしていて、偶然に見つけてしまった手紙。
それは歴代の聖女たちが書き記した手紙だった。それは母親の荷物から出てきた。
本と本の間に挟まっていた。
だからラティアーナはすべてを知った。
母親が聖女であったこと。
そして、神殿と竜のこと。
この国は、竜によって支配され、弄ばれている。
竜は、気まぐれに目覚めて気まぐれに眠り、もがき苦しむ人々を見て楽しんでいる。
ラティアーナが神殿へと向かったのは十四歳のときだった。竜の世話人として指名されたが、このときはまだ聖女とは呼ばれていなかった。
竜は目覚めたが、その事実が民には隠されていたからだ。
神殿は隠しごとが得意である。ミレイナがいなくなった事実さえ、隠していた。
ラティアーナは巫女として神殿に仕え、十六歳になってすぐに聖女と呼ばれるようになった。
ラティアーナが神殿に素直に従っているのは、竜を殺すため。カメロンもすべてを知っている。
彼女は竜を殺すために、聖女という役目を受け入れた。
そのなかで、キンバリーとの婚約は予定外だった。
カメロンとの約束と親への仇を生きがいにしてきたというのに、生きる糧を失ったような、そんなどん底に突き落とされた気分だった。
しかし、その気持ちすら周囲に悟られてはいけない。
聖女としてそれを受け入れ、聖女として振舞った。
時折、虚無感が襲ってきて食事すら喉が通らないときもあったが、カメロンとの約束を思い出して心を奮い立たせた。
親代わりであるもあるカメロンの両親から荷物が届くと、孤児院へ足を運んで、それらを寄付した。子どもたちとの時間が、まるで自分の未来を見ているかのような気分にさせてくれた。
キンバリーから婚約解消を突きつけられた時は、やっと解放されると思った。だが、それを望んでいたのも事実。
ラティアーナにとって、アイニスという女性は都合のよい女性だった。
聖女になりたがっている。キンバリーの婚約者になりたがっている。ラティアーナを羨ましがっている。
だったら、望む者に望む物を与えてあげたほうがいいだろう。
ラティアーナは躊躇いもせずに、月白の髪飾りをアイニスに手渡した。彼女はそれを待っていたのか、ひったくるかのようにして奪い取った。
これですべてが終わった。
王太子の婚約者という役も、聖女という役も、すべてを演じ終えた。
あれだけ竜を殺したいと思っていたのに、それを誰かがやってくれるなら、それでもいいかなと思い始めた。
ラティアーナの心の中で、何かが音を立てて崩れた瞬間でもあった。
もう、疲れた。
他人のためにではなく、自分のために生きたい――
復讐のためではなく、幸せを望みたい――
「ラッティ……、眠ってるのか?」
「ん? 起きてる……」
ソファに座って懐かしい絵本を読んでいたが、少しだけうつらうつらとしていたようだ。膝の上には、読んでいた絵本が広げられている。竜を倒すという神殿の教えに反する、過激な絵本でもある。どこか手作りに見えるその絵本に作者の名前は書かれていない。
ちょうどそこに、湯浴みを終えたカメロンがやって来て、今にも眠りこけそうなところに声をかけてきた。
「カメロン、ありがとう」
「急にどうした?」
カメロンは笑いながら、彼女の隣に腰をおろす。
「サディアス様とお話をさせてくれたでしょう?」
「彼が、子どもたちの手紙を渡したいみたいだったからね」
「もう、素直じゃないのね」
「俺は子どもじゃないからね」
二人は顔を見合わせて、微笑み合う。
彼女にもう後悔はない。
サディアスにはすべてを伝えた。彼がこれからどう動くのか。
そしてアイニスは、聖女の役目を最期まで果たすことができるのか。
それはもう、聖女でなくなった彼女の知るところではない。
『サディアス様。国を庇護する竜。あれは、本当に国を庇護しているのでしょうか? そのようなことを誰が言い始めたのでしょう?』
それは昔からの言い伝えだ。
この国は、竜によって庇護されている国であると。
『竜がいなかったらと、考えたことはありませんか? 不思議ですよね。竜が目覚めると厄災が訪れるのです。そしてそれを鎮めるために聖女が犠牲になるのです。歴代の聖女がどうなったか、サディアス様はご存知ですか?』
そう言って、彼女は愛おしそうに膨れた腹部をなでた。大きなお腹の中で、新しい命が動いているのだろう。
『竜の力を用いてレオンクル王国を助けた後、聖女は竜にパクリと食べられてしまうのですよ? 聖女を食べた竜は、満足して眠りにつくのです』
厄災の話になると、関係者は誰もが口を閉ざす。
『サディアス様。厄災はすでに始まっております。竜のうろこは、穢れに覆われています。アイニス様が竜のうろこを磨こうが磨かない、関係ないのです。厄災は目覚めた竜の気まぐれによって起こります』
彼女は聖女の名残で、竜の存在をなんとなく感じるようだった。だが、その力も薄れてきているようだ。これ以上は、もう何も言うことはないと口にする。
テハーラの村から戻ってきた後、サディアスは神官長に詰め寄って、二十年前の話を聞いた。不慮の事故で亡くなったとされていた聖女だが、彼女は急に消えたと言う。
神殿は隠し事が得意である。
だけど、彼女の話を聞いていたから、ピンとつながった。
間違いなく竜に食べられたのだ。
聖女の部屋が竜の間に近いのは、それが理由だった。他の者が気づかぬうちに、聖女はいなくなる。そして、竜は眠りにつく。
――あなたたちは、それがおかしいとは思わないのですか!
サディアスの声が、神殿内に静かに響いた。
竜を殺したのは第二王子のサディアスである。神官たちが止めるのを聞かずに、彼は自分の背丈ほどのある大きな剣で、竜の額を一気に突き刺した。
その姿はまるで、孤児院の子どもたちが読んでいた絵本に出てくる勇者のような姿であったと、それを止めようとした一人の神官の言葉である。
彼女の言う通り、すでに厄災は始まっていた。地方部は大嵐に襲われ、そのまま嵐は移動して、王都を雨風に飲み込んだ。
ほどよい雨は恵の雨であるが、多すぎる雨は山を崩し、川を溢れさせ、家屋や畑を押し流す。
国を庇護する竜と聖女アイニスが立ち上がり、奇跡を起こした。
だからサディアスも決死の覚悟で心を決めた。ラティアーナを信じた。
キンバリーの予備として育てられたサディアスだが、キンバリーのためでなく、自分のため、国のため、そしてラティアーナとの約束を守るため、決心したのだ。
竜の弱点を教えてくれたのは、もちろんラティアーナである。
仕事を終え満足そうに眠っていた竜は、サディアスの一撃で目を覚まし、ひとしきり大暴れした後、永遠の眠りについた。身体はさらさらと砂のように崩れ落ち、光の粒子となって消え去った。
国を庇護している竜は、むしろ国を支配していた。
聖女を糧として、その力と記憶を取り込んでいた。
――聖女の犠牲のうえに成り立つ平和は、真の平和と呼べるのでしょうか?
竜がいなくなったレオンクル王国に、聖女はもういない。
竜を討った王子と、それを命じた王太子。
だが、神殿は隠し事が得意である。その事実さえ、民には隠された。
――竜と聖女がいなくなり、混乱に陥っている国をしっかりと導いてほしいのです。
サディアスはラティアーナの言葉をキンバリーに伝え、キンバリーもその言葉を深く噛みしめる。
竜もいない、聖女もいない。
大きな変化は、民を混乱に導くかもしれない。暴動が起き、非難されるかもしれない。そもそも、人の穢れを一手に引き受けていた竜がいなくなった。
だからこそ、人の本質が露わになる。
国王は荒れていく国を嘆き、床に臥せるようになる。
混乱のなか、レオンクル王国の新たな国王になったのはキンバリーである。そして彼の隣に立つのは、彼が最も信頼している弟のサディアス。
彼らは、ラティアーナとの約束をしっかりと心に刻み、すべてを受け止める覚悟を決めた。
竜を殺した事実、国を背負う責任。これらから逃げることは許されない。
ただ残念なことに、キンバリーの隣にアイニスの姿はなかった。
【だから聖女はいなくなった:完】