「ラティアーナ様に、兄――キンバリー殿下から伝言がございます。また、ラティアーナ様が足を運んでいた孤児院の子たちから、手紙を預かってきました」
カメロンの表情がふと緩む。
「ですが、この村にラティアーナという者はおりません。残念ですが、その手紙を渡せる相手がいないのです」
先ほどよりも穏やかな口調だ。サディアスに対して、少しは心を開いてくれたのだろうか。
「そうですか……ラティアーナ様はこちらの出身と聞いておりまして。てっきり、聖女を辞められたあとはこちらに戻ってくるものと思っていたのですが……」
行き場を失った手紙が、テーブルの上にぽつんと置かれている。子どもたちの拙い字で、ラティアーナの名前が封筒にしっかりと書かれていた。
「もし、ラティアーナ様がこちらにお戻りになられて、お会いするようなことがあれば、こちらを渡していただいてもよろしいでしょうか?」
「サディアス殿下もなかなか強情な方ですね。残念ながら、こちらにはラティアーナという者に心当たりがないのです。ですから、そちらは殿下のほうから、その方にきちんとお渡しすべきでは?」
「そう、ですか。わかりました。僕がラティアーナ様に出会ったら、お渡しします」
サディアスは手紙をしまった。
てっきりラティアーナはこの村に戻ってきていると思ったのに、いないと言う。
神殿にもいない、孤児院にもいない、王都にはいない。だから彼女の生まれ育った故郷へとやってきた。
それでもここにもいない。
彼女はどこに行ってしまったのか。
「ところで、サディアス殿下。今日、御泊りの場所は決まっておりますか?」
カメロンに指摘され、宿泊については何も考えていなかったことに気づく。ラティアーナに会いたい一心で、ここであれば彼女に会えるだろうと、そんな逸る気持ちでこの地を訪れたからだ。
「……いえ。それは、これから」
「では、ここにお泊りください。すぐに部屋を用意させます。王都からですと、航路で来られたのですか」
「あ、はい。そうですね」
「長旅でお疲れでしょう?」
カメロンは呼び鈴を鳴らして使用人に部屋の用意をするようにと言いつける。
彼がなぜ、これほどまで態度を軟化させたのかがわからない。
しばらくカメロンとお茶を飲みながら、話をする。主にテハーラ村の現状である。
最近は、畜産業が軌道にのっているため、貧しい思いをする者もいない。むしろ、忙しすぎて人手が足りないくらいだと。
「このような小さな田舎の村で、こうやって穏やかに暮らせるのがなによりです」
カメロンの言葉がサディアスの心にズキンと突き刺さった。
きっとそういった生活を壊すようなことをしてはならないのだ。
数年前に神官がこの村に来たことをカメロンはよく思っていない。それは言葉の節々から感じ取れた。
だから、カメロンがサディアスを警戒していたのは、今までの生活をがらっと変えてしまうような、何かが起こると思っていたからかもしれない。
「サディアス殿下。部屋の準備が整ったようです。案内します」
応接間を出て、ホールからサルーンへと入る。すると、どこから歌が聞こえてきた。
「……?!」
サディアスが反応すると、カメロンは「中庭に子どもたちがいるので」と答える。
「お子さんが、いらっしゃるのですか?」
「いえ。村の子を預かっているのです。子をみながら仕事をするというのは、なかなか大変でしてね。特に子どもは目を離すと何をしでかすかわからない。ですから、昼間に両親が働いている間、その子をこちらで預かっているのです」
「そうなのですね。素晴らしい取り組みですね。ところで、この歌……」
サディアスが気になったのは、先ほどから聞こえている歌である。
「あぁ。この村に昔から伝わる子守歌のようなものですよ。幼い頃から聞かせられているから、何気に歌ってしまうんですよね」
「あの。中庭を案内してもらうことはできますか?」
「ええ、かまいませんよ。先に、部屋に荷物を置いてからのほうがいいでしょう」
いくら少ない荷物であっても、それを手にしたまま屋敷をうろうろとするのは、見栄えもよくないだろう。
カメロンに案内された部屋は、いたって普通の貴賓室であった。寝室と応接間と控えの間がある。これなら、サディアスについてきた侍従も、ゆっくりと休めるはずだ。
サディアスは侍従に荷物の整理を頼むと、カメロンと部屋を出ていく。これには侍従もついていくと口にしたが、それはサディアスが宥めた。
この場所でサディアスの命を狙う者はいない。
そう確信したためだ。
「サディアス殿下、こちらが中庭です」
外へ出た瞬間、さわわわと草木が揺れた。今日は穏やかな風が吹いている。
風がやみ、中庭で遊んでいる子どもに目を向ける。
「……あっ」
サディアスは息を呑んだ。
「カメロンもいっしょに遊ぼう」
こちらに気づいた子どもが、元気に手を振っている。
「カメロン殿。彼女は……」
サディアスが目を奪われたのは、子どもと一緒に遊んでいる一人の女性。
晴れた空を思わせるその髪の色。宝石を思わせる翡翠色の瞳。そんな彼女が、黙ってこちらを見つめている。
「あぁ。あとで紹介しようと思っていたのですが。私の妻です」
カメロンが女性と子どもに向かって歩き出したので、サディアスもそれに従った。
それでも今、心臓を鷲掴みにされたように、ぎゅっと胸が苦しかった。
カメロンが妻と言った女性。それは間違いなくラティアーナである。
だが、サディアスの知っている彼女とは少し違う。腰に届くほど長かった髪は、肩の長さで切り揃えられ、顔もいきいきと輝いている。
身体つきもどこかふっくらとしているし、なによりもサディアスが目を奪われたのは彼女の腹部である。少しだけせり出している腹部。そこで新しい命を育んでいるのだろうと思わせるような。
「ねえ、カメロン。この人、だれ?」
子どもの声で我に返る。
「王都から、牛さんを見に来た人だよ。ここの牛さんは美味しいからね」
「牛さんを見に来た人?」
「あ、うん。はじめまして。僕はサディアス」
サディアスは身をかがめて、子どもと視線の高さを合わせた。
「サディアスは王子様みたいにきれいな人ね。わたし、リビー」
「よろしく、リビー」
サディアスが手を出すと、リビーはにっこりと笑ってその手を握り返した。
「リビー。サディアスはラッティにお話があるそうなんだ。だから、その間、俺と一緒に本を読んでいよう」
「え~。カメロン、ご本の読み方、へたくそなんだもん」
「あら。だったら、リビーがカメロンに本の読み方を教えてあげたらどうかしら? リビーはとっても上手に読むものね」
久しぶりに聞いた彼女の声。目の前の女性は、間違いなくラティアーナだ。
「しょうがないな、カメロン。リビーが教えてあげる」
リビーはサディアスの手をぱっと離し、カメロンの手を握った。
「ラッティもサディアスも、牛さんのお話が終わったら、リビーと遊んでね」
手を横に振ったリビーに、サディアスも手を振り返した。
リビーの姿が見えなくなると、一気に静かになったような気がした。
風に吹かれて揺れる草木のこすれ合う音が、異様に大きく聞こえる。
「ラティアーナ様。お久しぶりです」
彼女と向き直り、サディアスは震えそうになる声をなんとか喉の奥から絞り出した。
「お久しぶりです、サディアス様。ですが、私はもう聖女ラティアーナではありません。ですから、どうかその名で呼ばないでください。それは、私が聖女となるときに、神殿側が勝手につけた名前なのです」
ラティアーナの名はラティアーナではなかった。
また、知らなかった事実に身体が震える。
「本当の名をお聞きしてもよろしいですか?」
彼女はその言葉に静かに頷いた。
カメロンの表情がふと緩む。
「ですが、この村にラティアーナという者はおりません。残念ですが、その手紙を渡せる相手がいないのです」
先ほどよりも穏やかな口調だ。サディアスに対して、少しは心を開いてくれたのだろうか。
「そうですか……ラティアーナ様はこちらの出身と聞いておりまして。てっきり、聖女を辞められたあとはこちらに戻ってくるものと思っていたのですが……」
行き場を失った手紙が、テーブルの上にぽつんと置かれている。子どもたちの拙い字で、ラティアーナの名前が封筒にしっかりと書かれていた。
「もし、ラティアーナ様がこちらにお戻りになられて、お会いするようなことがあれば、こちらを渡していただいてもよろしいでしょうか?」
「サディアス殿下もなかなか強情な方ですね。残念ながら、こちらにはラティアーナという者に心当たりがないのです。ですから、そちらは殿下のほうから、その方にきちんとお渡しすべきでは?」
「そう、ですか。わかりました。僕がラティアーナ様に出会ったら、お渡しします」
サディアスは手紙をしまった。
てっきりラティアーナはこの村に戻ってきていると思ったのに、いないと言う。
神殿にもいない、孤児院にもいない、王都にはいない。だから彼女の生まれ育った故郷へとやってきた。
それでもここにもいない。
彼女はどこに行ってしまったのか。
「ところで、サディアス殿下。今日、御泊りの場所は決まっておりますか?」
カメロンに指摘され、宿泊については何も考えていなかったことに気づく。ラティアーナに会いたい一心で、ここであれば彼女に会えるだろうと、そんな逸る気持ちでこの地を訪れたからだ。
「……いえ。それは、これから」
「では、ここにお泊りください。すぐに部屋を用意させます。王都からですと、航路で来られたのですか」
「あ、はい。そうですね」
「長旅でお疲れでしょう?」
カメロンは呼び鈴を鳴らして使用人に部屋の用意をするようにと言いつける。
彼がなぜ、これほどまで態度を軟化させたのかがわからない。
しばらくカメロンとお茶を飲みながら、話をする。主にテハーラ村の現状である。
最近は、畜産業が軌道にのっているため、貧しい思いをする者もいない。むしろ、忙しすぎて人手が足りないくらいだと。
「このような小さな田舎の村で、こうやって穏やかに暮らせるのがなによりです」
カメロンの言葉がサディアスの心にズキンと突き刺さった。
きっとそういった生活を壊すようなことをしてはならないのだ。
数年前に神官がこの村に来たことをカメロンはよく思っていない。それは言葉の節々から感じ取れた。
だから、カメロンがサディアスを警戒していたのは、今までの生活をがらっと変えてしまうような、何かが起こると思っていたからかもしれない。
「サディアス殿下。部屋の準備が整ったようです。案内します」
応接間を出て、ホールからサルーンへと入る。すると、どこから歌が聞こえてきた。
「……?!」
サディアスが反応すると、カメロンは「中庭に子どもたちがいるので」と答える。
「お子さんが、いらっしゃるのですか?」
「いえ。村の子を預かっているのです。子をみながら仕事をするというのは、なかなか大変でしてね。特に子どもは目を離すと何をしでかすかわからない。ですから、昼間に両親が働いている間、その子をこちらで預かっているのです」
「そうなのですね。素晴らしい取り組みですね。ところで、この歌……」
サディアスが気になったのは、先ほどから聞こえている歌である。
「あぁ。この村に昔から伝わる子守歌のようなものですよ。幼い頃から聞かせられているから、何気に歌ってしまうんですよね」
「あの。中庭を案内してもらうことはできますか?」
「ええ、かまいませんよ。先に、部屋に荷物を置いてからのほうがいいでしょう」
いくら少ない荷物であっても、それを手にしたまま屋敷をうろうろとするのは、見栄えもよくないだろう。
カメロンに案内された部屋は、いたって普通の貴賓室であった。寝室と応接間と控えの間がある。これなら、サディアスについてきた侍従も、ゆっくりと休めるはずだ。
サディアスは侍従に荷物の整理を頼むと、カメロンと部屋を出ていく。これには侍従もついていくと口にしたが、それはサディアスが宥めた。
この場所でサディアスの命を狙う者はいない。
そう確信したためだ。
「サディアス殿下、こちらが中庭です」
外へ出た瞬間、さわわわと草木が揺れた。今日は穏やかな風が吹いている。
風がやみ、中庭で遊んでいる子どもに目を向ける。
「……あっ」
サディアスは息を呑んだ。
「カメロンもいっしょに遊ぼう」
こちらに気づいた子どもが、元気に手を振っている。
「カメロン殿。彼女は……」
サディアスが目を奪われたのは、子どもと一緒に遊んでいる一人の女性。
晴れた空を思わせるその髪の色。宝石を思わせる翡翠色の瞳。そんな彼女が、黙ってこちらを見つめている。
「あぁ。あとで紹介しようと思っていたのですが。私の妻です」
カメロンが女性と子どもに向かって歩き出したので、サディアスもそれに従った。
それでも今、心臓を鷲掴みにされたように、ぎゅっと胸が苦しかった。
カメロンが妻と言った女性。それは間違いなくラティアーナである。
だが、サディアスの知っている彼女とは少し違う。腰に届くほど長かった髪は、肩の長さで切り揃えられ、顔もいきいきと輝いている。
身体つきもどこかふっくらとしているし、なによりもサディアスが目を奪われたのは彼女の腹部である。少しだけせり出している腹部。そこで新しい命を育んでいるのだろうと思わせるような。
「ねえ、カメロン。この人、だれ?」
子どもの声で我に返る。
「王都から、牛さんを見に来た人だよ。ここの牛さんは美味しいからね」
「牛さんを見に来た人?」
「あ、うん。はじめまして。僕はサディアス」
サディアスは身をかがめて、子どもと視線の高さを合わせた。
「サディアスは王子様みたいにきれいな人ね。わたし、リビー」
「よろしく、リビー」
サディアスが手を出すと、リビーはにっこりと笑ってその手を握り返した。
「リビー。サディアスはラッティにお話があるそうなんだ。だから、その間、俺と一緒に本を読んでいよう」
「え~。カメロン、ご本の読み方、へたくそなんだもん」
「あら。だったら、リビーがカメロンに本の読み方を教えてあげたらどうかしら? リビーはとっても上手に読むものね」
久しぶりに聞いた彼女の声。目の前の女性は、間違いなくラティアーナだ。
「しょうがないな、カメロン。リビーが教えてあげる」
リビーはサディアスの手をぱっと離し、カメロンの手を握った。
「ラッティもサディアスも、牛さんのお話が終わったら、リビーと遊んでね」
手を横に振ったリビーに、サディアスも手を振り返した。
リビーの姿が見えなくなると、一気に静かになったような気がした。
風に吹かれて揺れる草木のこすれ合う音が、異様に大きく聞こえる。
「ラティアーナ様。お久しぶりです」
彼女と向き直り、サディアスは震えそうになる声をなんとか喉の奥から絞り出した。
「お久しぶりです、サディアス様。ですが、私はもう聖女ラティアーナではありません。ですから、どうかその名で呼ばないでください。それは、私が聖女となるときに、神殿側が勝手につけた名前なのです」
ラティアーナの名はラティアーナではなかった。
また、知らなかった事実に身体が震える。
「本当の名をお聞きしてもよろしいですか?」
彼女はその言葉に静かに頷いた。