茜色に染まりつつある空を見上げる。
 遠くからはガランガランという鈴の音と牛のなき声が聞こえてきた。
「そろそろ、帰りましょうね」
「えぇ? ラッティ、もうちょっと遊ぼうよ」
 立ち上がろうとする彼女のスカートを、幼い女の子がつかみ、つんつんと引っ張る。もう少し、ここに座っていてという意味である。
「でも、これ以上遅くなったらおうちの人も心配するでしょう?」
 むぅと女の子が唇を尖らせたので、彼女はその子の頭に、今作った花冠をぽふっとのせた。
「似合うわ、お姫様」
 お姫様と言われ、幼子も気分がよくなったのだろう。笑みを浮かべ、すっと立ち上がる。
「ラッティ。明日も遊んでくれる?」
「えぇ。明日は天気が悪いみたいだから、おうちの中でご本を読みましょう。でも明日は、ミシェルとエミリーも一緒なの」
「そんなぁ。ラッティを独り占めできない」
 女の子はまたむむっと唇を尖らせ、手をつないできた。
「……ラッティ、……リビー」
 遠くからそんな二人を呼ぶ声が聞こえてくる。大きく手を振り、傾く太陽を背にしてこちらに向かって走ってきている。
「あ、カメロンだ」
 リビーと呼ばれた女の子も、つないでいないほうの手を大きく振った。
 カメロンは二人の前に立つと、両手を太ももについてはぁはぁと息を整える。
「カメロン、疲れてる」
 リビーがきゃきゃっと笑う。
「もう。どこから走ってきたの? こんなに汗をかいて」
 ラッティはエプロンのポケットから手巾を取り出して、彼の額に浮かんでいる汗を拭く。明るい茶色の前髪が、ぺたっと肌に張りついていた。
「家から走ってきたよ。たまには運動をしないとね」
 そう言ったカメロンは、リビーのもう片方の手を握った。
「リビー。今日は素敵な冠をつけているね。お姫様みたいだよ」
「ラッティに作ってもらった」
「そうか。よかったね。リビーのお父さんも仕事を終えて、家に帰ったから。このままおうちまで送っていこう」
 ラッティとカメロンに挟まれたリビーは、嬉しそうに顔を輝かせた。
「ねぇねぇ、ラッティの赤ちゃんはいつ産まれるの?」
 リビーが尋ねた通り、ラッティの腹部はほんのりと膨れている。
「ラッティの赤ちゃんが産まれたら、リビーはお姉さんになる?」
「そうね。赤ちゃんと遊んであげてね」
「ラッティの赤ちゃん、早く産まれないかなぁ」
 そんなリビーの声を聞きながら、ラッティとカメロンは幸せそうに顔を見合わせた。
 ガランゴロンと鈴を鳴らして牛を連れて歩く牛飼いとすれ違う。牛たちも牛舎へと戻る時間だ。
 牛飼いに挨拶をして、幾言か言葉を交わす。やはり、明日は雨になりそうだと牛飼いも言った。
 ラッティはリビーと一緒に歌を口ずさむ。それはこの地方に昔から伝わる子守歌で、空が茜色になったらおうちに帰りましょうという歌詞。そして、夜は静かに星空を眺め、夢の世界で会いましょう。と続く。
 リビーを彼女の家まで送り届けた二人は、手を繋いで歩き出す。
「体調は、大丈夫なのか?」
 夕焼けのような緋色の瞳が、ラッティを見下ろした。彼女は笑みを浮かべ、「大丈夫よ」と答える。
「君が戻ってきてくれてよかった」
「えぇ……。私も、戻ってこられるとは思っていなかった」
 ラッティは、五年ほど前この村から出て行った。それからずっと、二人は会っていなかったし、手紙のやり取りすらしていなかった。
 お互いに、そういう約束をしたからだ。
 ラッティに家族はいない。親代わりのカメロンの両親からは、定期的に衣類や日持ちのする食料などの荷物と、近況を知らせる手紙が届くだけだった。
「明日は、雨だから。お屋敷で子どもたちの世話をすればいいのよね?」
「ああ、頼む。ラッティが子どもたちをみてくれるから、サムもアニーも助かってると言ってた」
「子どもは好きなの。とても素直だから」
「それは……俺が素直ではないと言っているみたいだな」
「だって、あなたは子どもではないでしょう?」
 ラッティが見上げて微笑み、カメロンも微笑み返す。
 繋がれた手からは、互いのぬくもりが伝わってくる。
 カメロンとラッティは幼馴染みで、歩けるようになる前から、互いの家を行き来していたような仲だ。というのも、両親の仲が良かったからである。
 特に、ラッティの母親とカメロンの母親は、妊娠と出産の時期が近かったことから、互いに不安や愚痴をこぼし合っていた。
 先にカメロンが産まれ、それから三か月後にラッティが産まれた。けれども、ラッティの母親は産後の肥立ちが悪く、ラッティを産んでから一か月後に亡くなった。
 カメロンの母親は、ラッティの母親の分までラッティの世話をしてくれた。カメロンの家は裕福だったから、ラッティの父親もそれに甘えていた。
 ときに喧嘩もしながら、ラッティとカメロンの二人はすくすくと育つ。
 兄と妹のように育った二人は、成長すると同時に、お互いが家族の存在とは違うものであると気づいた。
 むしろ血の繋がった兄妹でもない。
 好意を寄せあい、互いが互いを想う気持ちを自覚するのも、時間の問題であった。
 ラッティとカメロンがそういった関係になるのをカメロンの両親は喜んだし、ラッティの父親もほのかに笑顔を見せた。
 カメロンの母親はラッティにとっても母親のような存在であり、カメロンの母親からみてもラッティは娘のような存在だった。
 だから、そのうち二人は結婚をして、幸せな家族を築くものだと、村の人たちの誰もがそう思っていた。
 ――あの日、神殿から神官たちがやってくるまでは。
 その日は朝から、どんよりとした鼠色の雲が、空を覆っていた。
 夕方になると、王都からわざわざ神官たちが、こんな辺鄙な村にまでやって来た。
 神官といえば、この国を庇護する竜の代理人とも呼ばれるような人たちである。そんな人たちが、なぜこの村にやってきたのか、さっぱりわからなかった。
 だがその日の夕食の時間、ラッティは父親の様子がおかしいことに気づいた。
 食事をとる手が止まっている。
『お父さん、どうしたの?』
 ラッティが尋ねると『あいつらは、あいつらは……』と消え入るような声で呟いている。
 あいつらが神官たちを指すのだろうと、ラッティは思っていたが、それ以上、父親へ問い質そうとはしなかった。
 そんな父親の様子が心配ではあったが、その日はラッティもいつもと同じようにやり過ごす。
 次の日の朝は、早くからカメロンが家にやってきた。
『おはよう、カメロン。今日は早いのね』
『おはよう、ラッティ。おじさんはいる?』
『ええ。いるわよ。だけど、ちょっと寝ぼけてるみたい』
 ラッティの言葉通り、ソファに座っていた父親はぼんやりとしていた。
『カメロンは、朝ご飯は食べたの?』
『いや。まだだ……。あいつらがいて、落ち着かなくて……』
 カメロンの言うあいつらも、神官たちのこと。
『だったら、食べていく?』
『いいのか?』
 カメロンは破顔する。それでもすぐに顔を引き締めた。
『あ、いや。今日は、おじさんに話があってきたんだ……』
『じゃ、それが終わってから。私はその間にご飯の用意をしておくね。お父さんもまだだから』
 ラッティはキッチンへと消えていく。
 その間、カメロンはラッティの父親と話を始める。
 キッチンにいるラッティには、彼らの会話がぼそぼそと聞こえていた。ただ、ときどき父親が大声をあげるのが気になっていた。
 ラッティが朝食をダイニングテーブルの上に並べ終え、二人を呼びに行く。
『お父さん……?』
 父親は泣いていた。この状況を見たら、父親を泣かせたのはカメロンだろう。
『カメロン。何があったの?』
 カメロンも泣きそうな顔をしていた。
『どうして、ラッティなんだ……』
『……え?』
 父親の呟きにラッティも聞き返す。
『おじさん、ラッティには俺から話します』
 そう言ったカメロンは、ラッティを部屋から連れ出した。そして、神官たちがやってきた理由をぽつぽつと話し始める。
 黙って聞いていたラッティであるが、彼女は淡々とそれを受け入れた。