だから聖女はいなくなった

◇◆◇◆◇◆◇◆

 サロンに足を向けると、ラティアーナがアイニスとお茶を嗜んでいるときもあった。
 ラティアーナが王城に来るという情報は、いつの間にかアイニスまで伝わっているようだ。彼女はウィンガ侯爵の娘だから、そういった情報も簡単に手に入るのだろう。むしろ、ウィンガ侯爵が流しているにちがいない。
 二人はお茶菓子に手を伸ばしながら、何かしら会話を楽しんでいた。
 アイニスの手は、いつも忙しなく動いていた。気に入った菓子でもあるのだろうか。
 それに引き換え、ラティアーナは時折カップに手を伸ばして喉を潤す程度で、菓子には手をつけない。
 アイニスもそれに気がついたのか、ラティアーナに菓子をすすめている。だが、彼女はやんわりとそれを断っていた。
 二人の仲はよさそうに見えた。いや、アイニスが一方的にラティアーナを慕っているようにも見えた。
 ただラティアーナは誰に対してもあのような態度をとるのだ。
 一線を引いたような、一歩下がったような態度。自分の領域には他人を寄せつけないような態度。
 その領域に踏み込めるような人間はこの世に存在するのだろうか――。
 ラティアーナが聖女でなくなり、その聖女という名を受け継いだのはアイニスである。
 理由は明確。アイニスがラティアーナから『聖女の証』と呼ばれる首飾りを受け取ったからだ。
 聖女はこの『聖女の証』と呼ばれる首飾りを授与されて、聖女となる。
 歴代の聖女たちは、不幸な事故で命を失った者も多く、聖女から次の聖女へとその首飾りが渡ることはなかった。聖女が亡くなると、首飾りは神殿が預かり、そして次の聖女として相応しい女性にその首飾りを授ける。
 聖女であるラティアーナ自らアイニスに首飾りを渡したのは、前例がなかった。
 それでも聖女自身が認めた次期聖女とのことで、神殿は仕方なくそれを受け入れたようだ。
 神殿としては、ラティアーナはその命がある限り、聖女とあってほしかったのだろう。そんな思いがひしひしと伝わってきた。
 聖女となり王太子キンバリーの婚約者となったアイニスの生活は一変する。むしろ、今までラティアーナが行ってきた内容をこなす必要があるのだ。
 けれどもアイニスは、頑なに神殿で生活することを拒んだ。
 その結果、竜の世話をするときだけ神殿へ行くということで神殿側と合意した。それには、キンバリーの力も働いているにちがいない。むしろ、国の力か。
 だから今、アイニスは王城のサロンでゆったりとくつろいでいた。
 テーブルの上にはティースタンドが置かれている。下段はすっかりとなくなっているが、中段と上段にはまだ菓子が残っていた。
 他には誰もいない。ただぼんやりと、彼女はお茶を飲み、菓子に手を伸ばす。
 それなのに、彼女の顔には疲労の色が濃く表れている。
「アイニス様……」
 サディアスがやわらかく声をかけると、アイニスはゆっくりと顔をあげた。
 彼女の顔を見て、ぎくりとする。
 あれほど妖しく艶やかであった彼女の顔は、まるで死人のように青ざめている。色めく紺色の瞳も、どことなくくすんで見えた。
 華やかなドレスを好む彼女が、灰緑という地味な色合いのドレスを着ているせいもあるのだろう。艶感溢れていた赤い髪も、地味に一つにまとめて三つ編みにしてあるだけ。
 キンバリーとの婚約を宣言したときの彼女とは、まるで別人のように見える。
「サディアス様、どうかされましたか?」
 そう言って彼女は微笑んだが、その姿もどこか痛々しい。
「アイニス様のお姿が見えましたので。兄が心配しておりましたよ? アイニス様が無理をなさっているのではないかと」
「まぁ……」
 キンバリーの様子を伝えただけで、彼女はぱっと顔を輝かせる。紺色の瞳にも、星が瞬いたかのような明るさが戻った。
 サディアスは一歩近づく。
「ご一緒してもよろしいですか?」
 サロンの中では二人きりではない。彼女についている侍女もいつもの定位置に立っているし、サディアス付の従者も少し離れた場所でこちらの様子をうかがっている。
 サディアスは、最初からアイニスと話をする目的でこちらに足を運んだ。だから、わざと従者を連れて来たのだ。
 キンバリーの婚約者と二人きりで話をして、変な噂が立っても困る。
 むしろ、アイニスと話をしてほしいと言い出したのはキンバリーなのである。
 アイニスの様子を確認し、彼女が今、何を考え、どのように思っているのかを探ってほしいと。
「ハンナ。サディアス様にもお茶を」
 アイニスが侍女を呼びつけると、表情を変えずにやってきて、義務的にお茶を淹れると立ち去っていく。彼女は昔から王城で働いていた侍女である。
 アイニスの下で働くのが不満なのだろう。せめてもう少し愛想よくできないのかと、サディアスでも思う。友人のように親しくしろとは言わないが、自分の立場を理解してもらいたいものだ。
 アイニスにとっても少しでも心許せる人物が近くにいれば、ここまでひどい表情を見せないだろうに。
「いい香りのするお茶ですね」
 当たり障りのないところから話題を振る。
 それでもアイニスは、口角を少しだけあげて、嬉しそうに微笑んだ。
「そうですね。こちらは、隣国のアストロ国のお茶ですの。私の大好きなお茶ですから、準備していただきました」
「アストロ国の……僕は、初めて口にしますね」
 一口飲んでみると、口の中に清涼感が広がっていく。今まで味わったことのないお茶である。
「デイリー商会で扱っているのです。もし、サディアス様が気に入ったのであれば、口添えいたしますが?」
「お気遣いありがとうございます」
 そう言って、その場は誤魔化す。不味くはないが、何度も飲みたい味かと問われるとそうでもない。こうやって付き合いであれば飲んでもいい。その程度のものだ。
 アイニスもサディアスの気持ちを汲み取ったのだろう。それ以上は何も言わない。人には好みというものがある。それを押し付けないところは評価したい。
「こちらの生活には慣れましたか?」
 口の中からお茶の味が消えた頃、サディアスは尋ねた。
 本来であれば神殿で暮らす必要がある聖女を、王太子妃教育があるからという名目とその他いろいろと理由をつけて、王城で引き取っているのだ。
 そうさせたのはキンバリーなのだが。
「はい……覚えることはたくさんありますが……」
「神殿のほうにも足を運ばれているのですよね?」
「はい……ああいったことを、ラティアーナ様がやられていたとは、知りませんでした……」
 ふと彼女の顔が曇る。
「あのようなこと? 聖女は竜の世話をするとお聞きしているのですが、そうではないのですか?」
「あ、はい……。そうです。竜の世話をしております。竜のうろこを磨かなければなりません。それが、おもっていたよりも大変でして……。竜のうろこが汚れると、庇護を受けているこの国に厄災が訪れるなんて、そんな話を知らなかったのです」
 まるで聖女になったことを後悔するような言い草である。
「ですから、必ず三日に一度はうろこを磨かねばならないのです。ですが、竜が……。大きな生き物ですから、ね」
 それ以上言ってはいけないと自分を戒めるかのように、不自然なところで言葉を止めた。
 カップに手を伸ばして、お茶を一口飲む。その姿すら痛々しい。
 キンバリーの横に立ち、婚約者として紹介されたときの妖艶な彼女はどこにいってしまったのだろう。
 人とはこれほどまでに変わってしまうのだろうか。
 聖女になったのが原因か、キンバリーの婚約者となったのが原因か。
 アイニスをしっかりと見つめてみたが、サディアスにはよくわからなかった。
「ラティアーナ様は……私の前ではけして弱音を口にはしませんでしたわ。ですから、本当に聖女になるということが、これほど大変なことであると、わからなかったのです」
 きっとアイニスはサディアスに話を聞いてもらいたいのだろう。いや、サディアスではなく誰かにだ。
「そうですか……。あまり、気の利いた言葉は言えませんが、アイニス様がそうやって言葉にするだけで気持ちが晴れるのであればお聞きしますよ?」
 その言葉に、ぱっと彼女の顔が子どものように輝き出す。やはり、話し相手を求めていたにちがいない。むしろ、愚痴を言う相手だろうか。
「サディアス様は、お優しいのですね」
 彼女は少しだけ微笑みながら、首を傾げた。それでもその目尻からは、涙が零れ落ちそうにも見える。
「兄が心配しているのです。兄に言ってはならないことがあれば、きちんと教えてください。そうでなければ、つい僕も兄に言いそうになってしまう。なによりも、兄があなたのことを心配しているので」
「キンバリー様に言ってはならないことなんてありません。包み隠さず、お伝えしてもらって問題ありません……。キンバリー様もお忙しい方だから、私のことなどお忘れかと思っていたのですが……」
 彼女は右手の人さし指で目元を拭った。
 キンバリーはアイニスを忘れてなどいない。張りぼての令嬢と悪態をつきながらも、張りぼてから本物になろうと努力している点は評価していた。それでもまだ、彼の心の中にはラティアーナがいるだけ。
 それを考えると、目の前のアイニスが哀れに見える。いっときだけキンバリーに利用され、利用された挙句「張りぼて」と呼ばれる。
 聖女でありながらも、聖女の役目すらうまくこなせていない。能力と役柄が合っていないような、そのようにも見える。
 となればやはり「張りぼて」なのだろう。
「私の実家がデイリー商会であることは、サディアス様もご存知でしょう?」
 泣きそうだった顔は、口元に微笑みをたたえている。
「えぇ。デイリー商会が仕立てるドレスは、質がよいと評判ですから」
 その言葉に、アイニスは苦しそうに眉をひそめた。
 デイリー商会のドレスは、社交界でも貴婦人たちの話題にあがる。デザインが画期的でありながらも、身に纏う者の魅力を最大限に引き出す。
 質の割には価格も思ったほどではない。
 そんな噂で持ち切りだった。だから彼女たちは、次から次へと競い合うかのようにして新しいドレスを仕立てるようになる。
「そうですね。父と兄がそちらの事業に力を入れて……今のデイリー商会があるのです」
「ですが、一時期は他の商会からも反発があったとお聞きしております。それを乗り越えて今の形になさったと」
「えぇ……よくも悪くも目立てば、他からはいろいろと言われますから」
 成功者の耳に届くのは賛美の声だけではないだろう。そこには黒い嫉妬だって混じってくる。物事にはよいところもあれば悪いところもある。それのどこを切り取って話題にするかは、個人の自由なのだ。
 それでも、その自由な言葉を悪い方向へと補う者がいる。となれば、そこには怒りや嫉妬の感情が芽生え、小さな争いの種ともなりかねない。
 その種を握りつぶす力がある者が最終的には勝つ。そして、デイリー商会にはその力があった。
 それもこれも、狡猾なアイニスの兄の手腕だろう。
 デイリー商会にまとわりついていた黒い噂や嫉妬は、やがて聞こえなくなり、褒め称える声だけが聞こえ始める。
 それだけの風格をデイリー商会は持ち合わせるようになったのだ。むしろ、そういった悪意さえ利用したのかもしれない。
「父が爵位をいただいたのは、私が十歳のときです」
 それはサディアスも人を使って調べた内容でもある。
 デイリー商会長、すなわちアイニスの父はそれまでの功績を認められ、叙爵をという話になった。
 これは、デイリー商会がこれ以上の力を持つのを防ぐための施策でもある。こちら側に引き入れて、動きを制限させたいというのが貴族院側の考えだったのだ。
 特に存在感を表し始めたデイリー商会は、平民だけでなく貴族の心もとらえ始めている。さらに、王都の民だけでなく、地方に住んでいる者にもデイリー商会のよさが広まっていく。
「今までただの商売人だった娘が、いきなり貴族と呼ばれるような方々の中に混ざれるわけがないでしょう? それでも、兄も父も……いえ、特に兄が、私に貴族としての振舞を身に着けるようにと、厳しく言い出しまして……」
 アイニスの身の上話が始まってしまった。
 だが、サディアスが聞きたかったのはこの話だ。
「ですが、十歳の少女にそのようなことを言われても、さっぱりとわからないでしょう? そもそも貴族の振舞など、何もわからないのですから」
 キンバリーが口にしていた張りぼてという言葉は、ずっとサディアスの心に引っかかっている。
「家庭教師などは、つけてもらえなかったのですか?」
「えぇ……口では立派なことを言う兄ですが、財布の紐は硬いのです。図書館などからそういった本を借りてきて、読んで学べと」
「なるほど……」
 サディアスは彼女の兄を思い出す。どういった人物だったろうか。
 男爵位を持っているのは彼の父であるため、兄にはなんの権力もない。となればただの商売人として振舞っているはずだから、サディアスとの接点は少ないはずだ。
「私は、幼いながらにも兄の教えを忠実に守ろうとしていたのです。兄は……怒らせてはならない人なので……」
 アイニスが兄とどのような関係であったかを、サディアスは知らない。十歳年が離れているとは知っているが、その年の差が兄弟関係にどう影響を及ぼすのかなど、想像すらできない。
 まして男と女。
 きっとサディアスとキンバリーの関係とも異なるのだろう。サディアスはいつだってキンバリーの予備なのだ。サディアスはキンバリーのために存在している。だから今だって、キンバリーのためにアイニスから話を聞いているのだ。
 もしかして彼女も、彼女の兄のために存在しているのだろうか。
「私の兄は、頭がよくて。幸いにも、父は兄を学園に通わせておりましたので、兄はそこでもよい成績をおさめていたのです」
 レオンクル王国の王都には、貴族子女が通う王立学園がある。昔は、貴族の中でも上流の子息しか通えぬ学園であったが、時代の変化とともにその門戸を広げた。
 学園の授業料が支払える者であれば貴族の子でなくとも通えるし、女子学生も受け入れている。
 それでもキンバリーとサディアスは学園に通わず、この王城内で家庭教師によって知識を身に付けていたし、ラティアーナに関しては神殿と王城の往復をするくらいで外に出ることすら制限されていた。まして、学園に通うなどもってのほか。だから、この三人は学園がどのような場所であるかを知らない。
 そうやって大勢の人と接していれば、ラティアーナの心も少しは華やいだのだろうか。
「ですが、アイニス様は学園には通われていないですよね?」
「はい。兄が、女は無駄に知識を付けるものではないと、そう言いまして……。教養は身に付けても知識はいらないと」
 なんとなく彼女の兄の人柄が見えてきた。そして、アイニス自身はそれの言いなりだったのだ。
「私は、兄に言われた通り図書館へ通いまして、本を読みました。ですが、やはり本で読むのと人から教えていただくのでは違います」
 それに気づけただけ、彼女を褒めてあげたい気持ちになった。
「そして、突然。兄からウィンガ侯爵……義父を、紹介されたのです」
 そこで彼女は白磁のカップに手を伸ばす。点々と赤い何かが散りばめられているカップは、よく見ると薔薇の花びらが描かれていた。だが、ちらりと目にしただけでは、血がついているようにも見えてしまう。
 キンバリーはアイニスを張りぼての令嬢と言っていたが、紅茶を飲む姿は優雅に見える。
 少しだけ潤った唇は、以前のような艶やかさを取り戻していた。微笑む姿も、ラティアーナに婚約破棄を突きつけたキンバリーに寄り添ったあのときの表情と同じ。
「とある夜会で、兄と一緒にいたときに、ウィンガ侯爵は私を図書館で見かけたとおっしゃって、近づいてきました……。きっと、兄が彼をたぶらかしたのでしょうね」
 兄の言いなりになっているものと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
 それにしてもあのウィンガ侯爵が図書館とは、似合わない。むしろ、嘘だと言っているようなものだろう。もう少しまともな理由はなかったのだろうか。
「ウィンガ侯爵は……私と結婚したかったようですが……」
 アイニスは今、仮にも王太子キンバリーの婚約者である。だから、そういった内容を口にするのも躊躇いがあるのか、語尾を濁した。
 それでもウィンガ侯爵の性格を考えたら、アイニスと結婚したいというのもあながち嘘ではないだろう。
 サディアスも少しだけ口元を緩めた。
 その様子を見た彼女も、安堵のため息をこぼす。何か咎められるとでも思ったのか。
「それも兄とウィンガ侯爵が話をして。私は彼の養女となりました。私としては、どちらでもよかったのですが……」
 それは、ウィンガ侯爵と結婚してもよかったと、そう聞こえる。
 幼い頃から家族に利用されている彼女だからこそ、それがおかしいと思っていないのかもしれない。
 だがサディアスも、わざわざその件に関して確認しない。触れてはならない内容だってあるのだ。
「あの兄と離れることができれば、どちらであっても大した問題ではないのです」
 まるで言い訳でもするかのような呟きだった。
「ですが、ウィンガ侯爵の養女となりまして、ラティアーナ様と知り合うことができました。彼女が南のテハーラの出身であると、ご存知でしたか?」
 サディアスの心臓が震えた。
 知らない。
「い、いいえ……」
 サディアスの知らないラティアーナを知っているアイニスに対して、ぶわっとどす黒い感情が生まれた。
 それが嫉妬なのか憎悪なのか羨望なのか、どういった感情であるかはわからない。
 サディアスの知らないラティアーナを彼女が知っているという事実が、胸の奥をざわつかせた。
 アイニスに気づかれぬように、テーブルの下できつく拳をにぎりしめる。
「私は、生まれたときから商人の娘として王都で暮らしておりました。それでも、兄によって年の離れた男性と結婚をさせられそうになって……。ですが、辺鄙な田舎に住んでいたラティアーナ様は、聖女となりキンバリー殿下の婚約者となった。不思議なものですよね」
「きっと、それが縁というものなのでしょう。何がどこでどう繋がっているのかだなんて、誰も知りません。そして、それがこの先、どのようになっていくのかも」
「ええ……」
 頷いた彼女は、今度はテーブルの上に置いてあるスタンドの中断のスコーンに手を伸ばす。たっぷりとジャムを塗ったら、いきなりかぶりつく。
 このようなところが、張りぼてなのだろう。
 だが、サディアスは何も言わない。それはサディアスの役目ではないからだ。
 そんな彼女の姿を目にしたら、すっと胸のつかえが取れた。
 彼女を張りぼてとキンバリーが罵るのであれば、彼女に教師を手配するのはキンバリーの役目である。まして、二人は婚約者同士なのだから。サディアスの気にするところではないが、キンバリーに助言をしたほうがいいのかもしれない。
「サディアス様とお話をしたら、一気にお腹が空いてしまいました。最近、ずっと食欲がありませんでしたの……」
 そう言った彼女の頬にも明るさが戻ってきている。
「サディアス様のおっしゃる通りですね。すべては縁。きっと、ラティアーナ様は縁に恵まれていたのでしょうね。お話を聞いたとき、心底羨ましいと思いました」
 田舎に住んでいた少女が聖女に見初められ、さらに王太子の婚約者となる。その話を聞けば、誰だって羨ましいと思うだろう。その気持ちを隠すか曝け出すかの違いだ。
「私は、ずっと兄の言うことを聞いて我慢してきました。その結果、得たのが侯爵令嬢という地位です。ですが、ラティアーナ様は? あの方は、何か苦労されましたか? 私には苦労しているようには見えなかったのです」
 気持ちを落ち着かせるためか、彼女は残っていたお茶を一気に飲み干した。
「ラティアーナ様の友人となり、一緒にお話もしましたが。あの方はいつもにこやかに微笑んでおりました。だから、私から見たら、本当に羨ましい存在だったのです。いつの日からか、私が聖女だったら、私がキンバリー殿下の婚約者だったら……。そう思うようになっておりました」
 彼女の気持ちもわからなくはない。サディアスだって、キンバリーを羨ましいと思ったことは多々あるからだ。
「突然、ラティアーナ様のお召し物が変わったの、ご存知でしたか?」
 それはキンバリーも言っていたし、サディアスも本人に問うたことでもある。
「はい」
 アイニスの問いに頷き、小さく返事をする。
「ラティアーナ様にしては珍しいので、お聞きしたのです。すると、神殿から支給されたものだと言うではありませんか。ですが、私にはピンとくるものがありました。侯爵が……義父が言っていたものですから」
「何を、ですか?」
「キンバリー殿下が、私的に神殿に寄付をしていると。それも、ラティアーナ様のためだと。ですから、キンバリー殿下にも、ついこぼしてしまいました」
 そこでアイニスはカップに手を伸ばしたが、先ほど飲み干してしまったことに気づいたのだろう。カップに手をかけて、すぐにあきらめた。行き場を失った右手は、テーブルの上に置かれる。
「ラティアーナ様の素敵なドレスは、殿下からの贈り物なのですねって。羨ましいですわ、と……」
 キンバリーの寄付金でラティアーナがドレスを仕立てたと、ウィンガ侯爵がアイニスに伝えたのだろう。それを、ラティアーナのドレスはキンバリーからの贈り物であると、アイニスが解釈したにちがいない。
「ですが、その一言がきっかけとなり、殿下がラティアーナ様を見る目が変わったようにも見えて……。それに、殿下がラティアーナ様のことで悩んでいらっしゃるようにも見えましたので……」
「そんな兄を、あなたが慰めてくださったのですね。兄は、アイニス様がいて励みになったとも言っておりました」
 彼女の手は、所在なさげに動いていた。言葉を選んでいるようにも見える。
「そうですか……。そう言っていただけると、安心いたします。私にとっても、キンバリー殿下は心の支えのような存在ですから」
 サディアスは、自分のカップに視線を落とした。カップが透けるほど透明な緋色の液体に、自身の顔がちらっと映りこむ。その自分と目が合う。
「ですが、今となっては後悔しております。あのときは、ラティアーナ様のようになりたいと。ラティアーナ様から、『聖女の証』とキンバリー殿下を奪ってやりたいと。そう思っておりましたのに」
「なるほど……」
「私には、ラティアーナ様のような生活は送れません。できることならば、この『聖女の証』をお返ししたいくらいです」
 神殿には国を庇護する竜がいる。その竜の世話を行っているのは神官と聖女である。
 また神殿には、聖女や神殿で生活する者たちの世話をする巫女と呼ばれる女性たちもいる。巫女は聖女と異なるため、竜には近づかない。竜に向かって祈りを捧げるだけ。
 特に聖女には、竜のうろこを磨くという仕事があった。このうろこを磨く仕事は、意外と重労働であるが、その大変さを知っているのは、もちろん聖女のみである。
 それでも聖女が竜のうろこを磨かねば、宝石のように輝くうろこは次第にくすんでいき、すべてのうろこが穢れで覆われたときには、この国へ厄災をもたらすと言われている。だから聖女は、竜のうろこを磨く。
 だが、聖女だって不老不死ではない。そのため、聖女が不在になると竜は眠りにつき、竜が眠りから覚めると聖女が選ばれる。
 聖女は竜のうろこを磨くために選ばれ、竜はうろこを磨いてくれる聖女がいなくなれば、長き眠りにつく。
 聖女が先か、竜が先か――。
 それが竜と聖女の切っても切れない関係でもあった。
 ラティアーナの先代の聖女が神殿にいたのは、今から二十年ほど前と聞いている。だが、正確な年まではわからない。
 その先代の聖女が不慮の事故で亡くなったため、竜は眠りについた。
 竜が眠っている間、不思議なことに厄災は訪れない。レオンクル王国は年中穏やかな気候を保ち、嵐も干ばつも害虫被害も起こらない。それが、二十年ほど続いた。
 だが、その竜が突如として目覚めた。
 永き眠りから竜が解放されたとなれば、竜の世話人として聖女を決めなければならない。
 聖女は、貴族の娘だろうが、孤児であろうが、竜が気に入った娘であれば誰でもよい。年齢も、特に決まっていない。それでも選ばれるのは十代後半から二十代前半の女性が多かった。
 それは、竜のうろこを磨くという重労働も関係しているのだろう。それに耐えられるだけの体力が必要だ。
 十数年ぶりに目覚めた竜は、いきなり「ミレイナの娘を連れてこい」と言った。
 そうやって竜が一人の女性を指名するのも、異例中の異例である。今まで聞いたことがないし、文献にも記載されていない。
 いつもであれば、神官が聖女に相応しい女性を選び、その女性を竜に引き合わせ、その中から竜が選んでいた。竜がどのような基準で、複数いる聖女候補から一人に絞るのかはわからない。
 また、ミレイナとは先代の聖女の名である。その聖女に娘がいたなど、神官たちは知らなかった。
《あれの記憶が流れてくるからな……。我に隠れて穢され、子を産み落としていた》
 竜が寝そべりながら、神官たちに命じる。
《一か月以内に娘を連れてこなければ、この国がどうなるか。賢いお前たちならわかっているのだろう? 我のうろこは徐々に汚れ始める。お前たちの憎悪が、我のうろこを穢すのだよ》
 腹の底に響くような声。ずっと聞き続けていると、頭が痛くなるような声。
「ですが、ミレイナの娘がどこにいるのか……。我々には皆目見当がつきませぬ」
 神官長が、こめかみを押さえながら尋ねた。
《なるほど。あやつは、それほどまで巧妙に穢れを隠していたのか》
 くつくつと喉を鳴らした竜は、どこか楽しそうにも見える。
《娘は、この国の南にあるテハーラという村にいる……。この村は、ミレイナの故郷か? いや、違う。穢れの故郷か……。ふむ》
 竜が身体を揺すると、地面も揺れる。ミシミシと神殿の柱が音を立て、ぱらぱらと柱のつなぎ目から、石膏が落ちる。
 竜の言葉は絶対であり、間違いはない。
 神官たちはその言葉を信じ、それに従う。
 神官たちは、すぐに南にあるテハーラの村へと向かった。ここは長閑な村である。
 石造りの民家が建ち並び、どこから鈴の音が響いてくるし、牛の鳴き声が聞こえてくる。
 家のない場所には、田畑と牧草地が広がっており、広い畑では子どもたちが駆け回っていて、ときおり子ども特有の甲高い賑やかな声が耳に入ってくる。
 高い建物もなく、山もない。透き通るような空はどこまでも続いている。
 ここだけ時間がゆっくりと過ぎているのではと勘違いしてしまうほど、穏やかな場所であった。
 そんな田舎に神殿から三人も神官たちがやってくれば、誰だって驚く。
 畑で遊んでいた子どもたちは、立て襟の平服と黒い上着に身を包む神官の姿を見つけると、興奮した様子で大人たちに知らせに走った。となれば、大人から大人へも話しが広がっていく。
 長閑で建物が密集している街だから、あっという間にその話を知らない者はいなくなる。
 神官がわざわざこのような田舎の村をなぜ訪れたのか――?
 誰もがそう疑問に思いながらも、神官に問い質すような者はいない。
 皆、遠くから三人の神官を眺めるだけ。
 神官たちは迷うことなく、この村の代表である村長の屋敷へと足を向けていた。
 となれば、村長の屋敷で神官たちをもてなす必要がある。屋敷に彼らが休める部屋を用意し、食事を振舞う。
 村長とその息子のカメロンは、少々緊張しながらも、神官たちと夕食を共にした。
 長閑な村なので、贅沢な料理など用意はできない。それでも神官たちは始終にこやかに、料理も素材の味が生きていると褒めながら、口にしていた。
 その食事の席で、神官はこの村に聖女がいると言った。
『国のために、彼女を神殿に預けてほしい』
 こんな田舎の村から聖女が輩出されるなど、たいへん名誉なことである。
 そう思った村長は、息子のカメロンと顔を見合わせてから、二つ返事で了承した。
 神官たちは破顔し、感謝の言葉を口にする。
 だが神官が聖女として選んだ女性がラッティと知ると、村長とカメロンは激しく後悔した。
 ラッティは父親と二人暮らしであり、その暮らしは慎ましい。だが、子どもたちから好かれ、村人からも慕われている。
 彼女の父親はこの村の出身であるが、王都の学園へと通い、そこで騎士として王都の警備や要人の警護などに従事していた。
 そこで伴侶と出会い、結婚を機に故郷であるこの村へと戻ってきたのだ。そして二人の間に生まれたのがラッティである。
 自然と、同じ時期に生まれたカメロンと仲良く育つ。
 ただ、ラッティの母親は、彼女産んですぐに亡くなってしまった。
 村長は、カメロンの相手が騎士の娘であるラッティであれば、なんら問題ないと思っていた。何よりも、カメロンがラッティを慕っているし、ラッティもカメロンを慕っている。お互いの気持ちが一番だと、カメロンの母親は言っていた。
 そんな状況でありながらも、ラッティとカメロンのほうが大人だった。
 彼らは現実を受け入れ、別れを惜しんだ。
 カメロンは黙って唇をかみしめ、ラッティの背を見送った。彼らはけして涙を見せなかった。
 ラッティの父親は、幾言か神官に文句を言ったらしい。言い合いしている様子を、村の者が目にしていた。父と娘で二人暮らしをしていたのだから、彼の気持ちもわからなくはないと、目撃した村人も同情する。
 それでもラッティは神官たちと共に、神殿へと向かったのだ。
 だが、その後すぐに、彼女の父親は不幸な事故で亡くなってしまった。
 それは、ラッティが旅立った次の日。農業用水をためておく沼に浮かんでいた。
 沼の周りを散歩していて、足を滑らせ、誤って沼に落ちてしまったのだろうと、村の者たちは思った。
 だが、村長とカメロンはそうは思っていない。
 彼らは、旅立ったばかりのラッティを不安にさせないようにと、しばらくの間、父親が亡くなったことを黙っていた。
 ひっそりとラッティの父親を弔った。
 カメロンは静かに目を伏せた。

◇◆◇◆◇◆◇◆

 サディアスは神殿に足を運んだ。
 王城からも白亜の建物が見えるが、馬車で三十分ほど離れている距離にある。
 神殿では神官と巫女が竜に祈りを捧げながら暮らしている。
 竜は、この神殿の奥にある竜の間と呼ばれる広い部屋にいる。ごろりと寝そべって、寝ているのか起きているのかわからないが、そこからレオンクル王国を感じているらしい。
 聖女は竜の間のすぐわきに私室をかまえており、竜に何かがあればすぐにそれを察して対処する。そのため、竜の世話をする聖女も神殿で暮らす必要があるのだが、今はそこにはいない。
 なぜなら、その聖女であるアイニスは王城で暮らしているからだ。そのかわり、三日に一度、神殿を訪れるという約束をした。しかし最近では、神殿への行きしぶりを見せている。
 そのうち仮病を使い出して行かなくなるのではと、キンバリーもサディアスもそう思い始めていた。そう思えるくらいのアイニスの態度なのだ。
「これはサディアス様。お待たせしまして、申し訳ありません」
 サディアスが神殿に来たのは、アイニスのこともあるが、ラティアーナに会いたいがためだった。その気持ちはキンバリーもアイニスも同じで、彼らももう一度ラティアーナと会い、話をすることを望んでいる。
 白い上衣姿の神官長は、サディアスの向かい側にでっぷりと座った。この神官長は肉付きがよく、血色もよい。どのような生活を送っているのか、なんとなく想像ができる。
 質素で倹約はどこにいってしまったのか。
 案内された応接室だって、派手ではないが、手がかけられているだろうことは見てわかる。
 壁に施された細やかな装飾も、天井に描かれている竜の絵も、見事なものだ。それに今サディアスが座っているソファだって、王城と使用しているものと同じくらい豪奢なものだ。
 ここにあるものは、どれも質素で倹約なものではない。
「早速ですが。ラティアーナ様に会いたいのですが、居場所はわかりますか?」
 彼女の名が出たところで、神官長の顔は曇った。さらに、わざとらしく大きく肩を上下させて息を吐く。
「何をおっしゃるのかと思えば……。ラティアーナの居場所など、我々も知りませんよ。王太子殿下が婚約を解消されたから、彼女はここからいなくなったのです。竜王様が聖女へと望んだのは、アイニスではなくラティアーナであったというのに」
 それはまるで、聖女がアイニスでは不安であると言っているようなものだ。
「ですが聖女は、『聖女の証』を持っていればいいのですよね?」
 だからラティアーナは、次の聖女としてアイニスに聖女の証を手渡したのだろう。
「王族の方々は、何か誤解をされているようですね。聖女を選ぶのは竜王様。竜王様がラティアーナを選んだから、『聖女の証』を彼女に与えたのです」
 それはラティアーナが聖女となったときの話である。竜がラティアーナを聖女として選んだため、神官長は神殿で保管していた聖女の証である月白の首飾りを彼女に授けた。
「となれば。ラティアーナ様がアイニス様に『聖女の証』を与えたとしても、アイニス様は聖女にはなれないということですか? 今でも正式な聖女はラティアーナ様なのでしょうか?」
 ふん、と神官長は鼻で息を吐く。その仕草すらわざとらしい。まるで、サディアスを馬鹿にしているような感じさえする。
 いや、ばかにしているようなではなく、ばかにしているのだろう。聖女ラティアーナを王族の不手際、いやキンバリーのせいで失ったとでも言いたいかのように。
「聖女は、竜王様がお認めになるか、聖女から聖女へと引き継ぎされるかのどちらかです。聖女ラティアーナがアイニスを聖女として認めたのであれば、誰がなんといおうとアイニスが聖女になるのです」
 それもどこか冷たい声。淡々とした、感情の色を押し込めた声で、神官長は説明した。
「そうですか……」
「サディアス様からも、王太子殿下とアイニスに伝えていただけませんか? 聖女は神殿で暮らす必要があると。神殿の暮らしによって、聖女の穢れは浄化されるのです」
 今でも三日に一度の神殿へ行き渋るようなアイニスに向かって、神殿で暮らせというのはなかなか難しい。
 だが、それが本来の聖女のあるべき姿なのだ。
「聖女が神殿で暮らすのは、(いにしえ)からの決まりであるから、ですか?」
「ええ、そうですよ」
 神官長は首肯する。
「古より、竜王様と聖女は一心同体と伝えられています。竜王様がいらっしゃるからこそ聖女が生まれ、聖女がいるからこそ竜王様がお目覚めになる」
「だが、聖女が竜に対して行うのは、うろこを磨くことくらいだと聞いています。それも、毎日ではなく三日に一回でいいと」
「竜王様はお優しいですからね。慣れないアイニスを気遣ったのでしょう。本来であれば、それだって毎日行うことなのです。ですが、少しずつ、聖女としての自覚を持ち、いずれはこの神殿で暮らしてくれることを望んでいるのです」
「なるほど……」
 神殿側の考えはわかった。
 ラティアーナがいなくなった今、アイニスを手元に置いておきたいのだ。アイニスが聖女であるかぎり、それは神殿の正当な主張であるのも理解している。
 ただアイニスのことを考えると、今の申し出を「はい」と即答するのははばかれる。いくら張りぼての令嬢であり聖女であっても、アイニスも一人の人間だから。
「私は、ラティアーナが聖女であるときから思っていたのですよ」
 そう言った神官長は、背中を丸め少しだけサディアスに顔を寄せてくる。
「やはり、聖女という理由で王太子殿下と婚約するのは、いかがなものかと」
「つまり……兄は聖女様の相手として相応しくないと。神官長はそうおっしゃりたいわけですか」
 王族と神殿の関係は同列である。どちらの地位が高いとか、そういった関係はない。
 それは神殿が国を庇護する竜を住まわせているからだ。
「いいえ、ちがいます。アイニスでは、王太子殿下の相手として相応しくないと。そう思っております。殿下であれば、もっと地位があり教養のある女性のほうが、将来の王太子妃として安心されるのではないですか?」
「ですが……。兄の婚約者にと、最初に聖女であるラティアーナ様を推薦なさってきたのは、神殿からですよね?」
「竜王様のお望みだったからです」
 そこで神官長は喉を潤した。カップを持つその仕草を、じっくりと観察する。彼のふっくらとしている手も、荒れていない指も、神殿の教えに従っているとは思えない。
「兄とラティアーナ様の婚約は、竜が決めたと?」
 神官長はカップの裏が見えるくらいに傾けて、お茶を飲み干している。そのたびに喉元は上下するが、その時間が異様に長く感じられた。
「ああ、すみません。喋ったら、喉が渇きましてね」
 ベルを鳴らし別の神官を呼ぶと、神官長はお茶を淹れるようにと命じた。
 その神官が部屋を出ていく様子を、サディアスは目で追う。
「何を話していましたかな……。あぁ、そうでした。ラティアーナの婚約についてですね」
「そうです。ラティアーナ様と兄の婚約は、竜が決めたのですか?」
「そうですよ。竜王様は、このレオンクル王国の未来を案じております。ですが、ラティアーナと王太子殿下が夫婦(めおと)となり、二人の間に新たな命が育まれることで、この国の未来は明るいだろうと、そうおっしゃっておりました。竜王様が決めたというよりは、認めた、ですね」
 サディアスは眉間に深くしわを刻む。
「ですが、ラティアーナ様は自身が聖女であったために、兄と婚約したと。聖女であることが王太子との婚約の条件であったと。そう思っていたようですが」
「彼女は少し、思い込みの激しいところもありましたからね」
 神官長は目を細くして、口角をあげた。
「サディアス様は、ラティアーナが南のテハーラの村の出身であるのはご存知ですか?」
「ええ。あそこは、とてものんびりとした村のようですね。足を運んだことはありませんが……」
 アイニスから話を聞き、サディアスはテハーラの村についてすぐに調べた。ラティアーナの故郷と知り、この村を調べなければならないと、そう思ったのだ。
 衝動的な気持ちと、義務的な思いからくる行動でもあった。
「ラティアーナを聖女にと望んだのは竜王様です。彼女は、誰よりも聖女に相応しい女性でした。だから、わざわざテハーラの村から、こちらへと来てもらったのです」
 神殿に仕える者は、庇護する竜を竜王様と呼んでいる。その言葉に、サディアスには引っかかるものがあった。
 竜様では響きが寂しいかもしれないが、竜王様と王がつくとニュアンスは異なる。王とは支配する者であったり、同族の中でもっとも優れた者であったりする。となれば、この国を庇護する竜は、竜の中でももっとも優れている竜なのだろうか。とはいえ、この国に竜は神殿にいる竜しかいない。
「我々だって、彼女の両親から彼女をさらってきたわけではないのですよ。きちんと話をして、説得して、名誉あることだと。この国を救えるのはラティアーナだけだと、そう伝えたのです」
 やはりラティアーナは、ここに望まれて聖女になったのだ。
「ですが、サディアス様。ラティアーナとの婚約を王族側だって認めましたよね? むしろ、喜ばれたのではないですか?」
 神官長の言葉は正しい。
 婚約の提案をしてきたのは神殿側であるが、それを喜んで受け入れたのは王族側である。それに、この話を聞いたキンバリーは、どこか嬉しそうで恥ずかしそうにも見えた。
 対等にあると言われている王族と神殿の関係だが、国を庇護する竜と聖女がいるかぎり、国は神殿に逆らえない。だが、国には金がある。その金をちらつかせることで、神殿と対等な関係を築いているのだ。
 つまり力があるか、金があるか。
 力があるのが神殿で、金があるのが国。それで均衡を保っている。
 その関係をさらに友好的なものであると国民に見せつけるために、王太子と聖女の婚約を心から喜んだのは国王なのだ。
「ええ。神官長のおっしゃる通りです」
「別に、この神殿は神官や巫女の結婚を禁じているわけではありませんから。もちろん、聖女の結婚も許されております。王太子殿下と婚約したことで、ラティアーナが幸せであるなら、それでいいと思っておりました。ですが、現実とは非情なものですね」
 その言葉に、サディアスもひくっとこめかみを震わせる。
「どういう意味、でしょうか?」
 一際低く、尋ねた。目を狭めて、神官長を鋭く睨みつける。
「サディアス様もご存知でしょう。陛下の即位二十周年記念パーティーでの茶番劇を。王太子殿下がラティアーナに婚約破棄を突きつけ、ラティアーナは自らの意思で聖女を辞めた。本来であれば、これはあってはならないのです」
 聖女が次の聖女を指名するときには、相手もそれを受け入れる覚悟が必要だと神官長は言った。そうでなければ『聖女の証』が次期聖女にふさわしくないと反応するらしい。
 だが、あのときのアイニスは聖女になりたがっていた。したがって、難なくアイニスが次期聖女となったのだ。
「先ほども申し上げましたが、ラティアーナ様は聖女だったから兄と婚約したと。本人はそう思っていたようですね。婚約者でなくなれば、必然と聖女でなくなる。だから、アイニス様が兄の婚約者として指名されたことで『聖女の証』を託した。ようは、王太子の婚約者が聖女であると、そう判断したのでしょう」
 その通りですと、神官長も首肯する。
「我々としては、勝手に婚約を破棄した王太子殿下に腹立たしい思いはあります。ラティアーナは忙しい時間の合間をぬって、王太子妃の教育を受けるために王城へも通っておりました」
「はい。それは重々承知しております。ですが、兄はこちらの神殿に個人的に援助をしていたという認識です。その援助が適切に使われなかったため、今回の婚約を破棄したと。神殿とのつながりを断ち切ろうとしたわけです」
「王太子殿下の寄付は受け取りました。ありがたいことです」
 神官長は目を細くした。少し穏やかな表情になったのは、心からの感謝の表れだろうか。
「その寄付は、神殿での食事改善のために使ってほしいと寄付したものであると、認識しております」
「はい、王太子殿下のおかげで、食事は少しずつ改善されております」
「ですが、ラティアーナ様は……。まともな食事をとられていなかったようですが?」
 そこでサディアスは視線を鋭くする。キンバリーの寄付がどのように使われていたのか、それを把握したいのだ。
「ラティアーナは食が細いのです。こちらが食べるようにと食事をすすめても、彼女は少しばかりのパンとスープで十分だと、そう言っておりましたね。もし、神殿内での食事を疑うのであれば、あとで食堂も見学していってください。やましいところなどありませんから」
「わかりました。あとで、確認させていただきます」
 そうサディアスが返事をすると、神官長も満足そうに頷いた。
「ところで。もう一つ確認したいことがあるのですが」
「なんなりとどうぞ。我々に、やましいことなどございませんから」
「兄からの寄付金で、ラティアーナ様がドレスを仕立てられたというのは事実ですか?」
 神官長の目は、ぐりぐりと大きく見開いた。
「ええ。ラティアーナが王城へ行くのに、巫女姿のみすぼらしい服ではかわいそうだと思いましてね。王太子殿下の婚約者としてふさわしい服を仕立てるようにと、彼女には言ったのです。ですが、彼女もそういったことには疎いようでしたので、ドレスはすべて仕立て屋にまかせました」
 神官長が嘘をついている様子はみられない。
 神殿がけして裕福ではないこともわかっている。
 聖女のドレスを仕立てる。そしてその婚約者が寄付金を出した。となれば、その金から出すのが妥当なのかもしれない。
 ――この金でドレスを仕立てろ。
 渡された寄付金を、そういった意味でとらえたのだろうか。
 サディアスは話題を変える。
「アイニス様は、こちらではどのような様子でしょう」
 ラティアーナのドレスの件は、なんとなく話がみえた。となれば次は、アイニスのことを聞いておきたい。
 サディアスの問いに、神官長は大げさに息を吐くと、頭を左右に振る。
「本来であれば、神殿で生活をしていただきたいのです。竜王様の側にいることで、竜王様と共にその聖なる力が高められるのです。アイニスは竜王様に認められた聖女ではありませんから、こちらでの生活には抵抗があるかもしれません。ですが、せめて王太子殿下と結婚するまではこちらに来ていただけないでしょうか」
 アイニスが三日に一度の神殿での務めを嫌がっているため、彼女の様子のさぐりをいれたかった。だが、やはり神殿側としては、聖女を神殿におきたいようだ。むしろ、竜の側にいてほしいのか。
「その件は僕の一存ではどうしようもできませんので、兄とアイニス様にはそれとなく伝えるようにします。神殿からの希望ということで」
「希望ではなく、慣例であると伝えていただけますか?」
「承知しました……ところで、竜と会うことはできますか?」
 キンバリーからも、竜の現状を確認してほしいと言われた。
 サディアスが神殿を訪れたのも、ラティアーナの居場所、アイニスの現状、そして竜についてと、すべてが神殿とかかわるものである。
「ええ、問題ありません。ですが、アイニスが側にいないので、多少は目をつむっていただきたい点もありますが、よろしいですか?」
「はい。問題ありません」
 アイニスがいないことで、竜にどのような変化があるのかも知りたかった。
 応接室を出ると、神殿の奥にある竜の間を目指す。
 奥に行けば行くほど、回廊には石膏の柱が並び、先ほどまでいた場所と比べても年代を感じた。
「このような場所に、聖女の部屋があるのですか?」
 そう問うてしまうほど、この場所は寂しい。人の息遣いも聞こえず、無機質な柱が並んでいるだけなのだ。床も石でできているため、どことなく冷たい感じがする。
「竜王様は昔からここにいるのです。ですから、こちらの建物に手をくわえるようなことはいたしません。もちろん、修繕ぐらいはいたしますが」
 カツーンカツーンと足音が響き、その音すら虚しく聞こえた。
 ラティアーナは、どのような気持ちでこの場所で時間を過ごしたのだろう。アイニスは、この空間に耐えられるのだろうか。
「ここが竜の間です」
 銅製の扉を開けると、解放感溢れる大広間に竜が寝そべっていた。その大広間ですら、今までの回廊と同じように白い石で造られている。
 だが、目の前に竜がいるというのに、サディアスは顔をしかめたくなった。
 原因はこの腐敗臭だ。解き放たれるようなこの場所であってもなお、においが漂っている。
 竜は大きな身体を、広間のど真ん中に横たえていた。人間でいうところの、寝そべっている状態に近い。
「聖女が側にいないと、竜王様はこのように汚れてしまうのです」
「聖女がうろこをみがくと聞いていますが。アイニス様は、きちんと三日に一度、務めを果たしておりますよね?」
「それが最低頻度なのです。ラティアーナは毎日みがいておりましたよ。たしか、明日がアイニスの来る日でしたね」
 そう指摘され、アイニスが一作昨日に嫌そうにしながら馬車に乗り込んでいた様子が、脳裏をかすめた。
「聖女の必要性は理解しました。このまま放っておくと、竜は腐敗に飲み込まれると考えてよろしいのでしょうか」
「そうです。そしてそれと同時にこの国に厄災が訪れます。二十年ほど前のように」
 サディアスが生まれる前であるが、大寒波がレオンクル王国を襲い、寒さと飢えにより、多くの国民が命を失ったと記録されている。それが厄災と呼ばれているものなのだ。
「そうならないように、できるだけアイニスには神殿にいてもらいたいのです」
 聖女の必要性は理解した。竜をこのままにしておくのはよくないのだろう。そしてこの状態の竜を助け出せるのが聖女だけだとすれば、聖女の手にこの国の運命がかかっていると表現してもいいのかもしれない。
「アイニス様が兄と結婚すれば、向こうで暮らすようになりますが?」
 結婚した後も、アイニスだけここで暮らすというのはおかしいだろう。
 その結婚が、王太子と聖女の結婚という書類上の契約だけがほしいのであれば別であるが、アイニスは今、王太子妃となる教育も受けている。
「そのときはきっと、竜王様が次の聖女をお探しになるかと」
 腐敗臭漂うなか、竜が少しだけ身じろいだように見えた。
 サディアスは竜の全身を見回した。確かに、ところどころ汚れている。
 竜は、ふたたび静かになった。ピクリとも動かないので、大きな置物のような存在にも見えた。
 この竜が動くのは、どのようなときなのか。
 どうやって、この国を庇護しているのか。
 気になるところであるが、聞いても教えてはもらえないだろう。そんな雰囲気が漂っている。
 サディアスは隣の神官長に気づかれぬように、そっと息を吐いた。
 竜の様子も確認した。神官長からは必要な情報を聞き出した。
 といっても、それが有益なものであったかは別である。
 だが、これ以上ここにいても、実になる話は聞けないだろう。
 サディアスは、神官長に案内されながら、神殿の食料庫と厨房を確認した。ちょうど幾人かの巫女が、夕食の準備にとりかかろうとしているところだった。それをしばらく見学してから、神殿を後にした。
 馬車に乗り込んだサディアスは、護衛の者に付き添われながらも、不規則な心地よい揺れによって、うとうととし始めた。
 神殿は、キンバリーからの寄付金をきちんと食費に当てていた。そしてその一部の金でラティアーナのドレスを仕立てたようだ。
 どのようなドレスにするかは仕立て屋に丸投げしたのだろう。予算、デザインなど、そういった内容については、神殿は関与していないようだ。
 ラティアーナは寄付金を私的に使っていたわけではない。ドレスを仕立てたのは事実であるが、それもキンバリーの婚約者としてふさわしいようにという、周囲のその気持ちからくるものだった。
 それが人を介して、歪んでキンバリーに伝わったに違いない。歪んで伝わった挙句、さらに歪めて解釈をした彼が、ラティアーナを信じられなくなったのだ。
 一つのほころびが次第に大きくなり、気がついたときには大きな穴が開いていた。
 最初のほころびはなんだったのだろうか――。
 馬車が止まり、サディアスははっと目を開ける。
 しっかりとした足取りで馬車を降り、向かう先はキンバリーの執務室。
 コツ、コツ、コツ、コツとゆっくり扉を叩くと、中から返事があった。
「サディアスです」
「入れ」
 サディアスの姿を見た途端、キンバリーは目尻を緩めた。それでもその顔には疲労の色が濃く表れている。
 キンバリーはすぐに呼び鈴を鳴らして、侍従を呼びつける。音もなく現れた侍従は、お茶を準備するとすっと姿を消す。
「それで、どうだった? ラティアーナの居場所はわかったのか?」
「いえ。神殿でも把握していないようです。ですが、神殿側もラティアーナ様を聖女として望んでいるようでした。アイニス様は、神殿での竜の世話も渋っているようですからね」
 あのようなものを見せられたら、誰だってやりたくないだろう。サディアスだってお断りだ。
「あぁ……まぁ、そうだろうな。あれには、聖女としての自覚も足りない。まして、私の婚約者という自覚もな」
 キンバリーはカップに手を伸ばした。その様子を、サディアスはしっかりと見つめている。
 兄は痩せた。やつれたとも言う。それはラティアーナがいなくなってからだ。
「神殿としては、やはり聖女は竜の側にいてもらいたいというのが本音のようです。それから、兄上の寄付金ですが……。それによって神殿の食事が改善されていたのも事実です。厨房も確認してきましたし、巫女たちからも話を聞きました」
 その言葉を耳にした途端、キンバリーのカップを持つ手がぴくっと震えた。それをサディアスは見逃さなかった。
「金は適切に使われていたということか?」
「少なくとも、それによって食事が改善されたのは事実です。ですが、その金の一部から、ラティアーナ様のドレスが仕立てられたのも事実です。王太子の婚約者として相応しい格好をしてほしいというのが、神殿側の考えだったようでして……」
 キンバリーがカップを置いた。カチャリと立てた音が、異様に大きく聞こえた。
「つまり、あのドレスはラティアーナが勝手に仕立てたものではないと?」
「そのようですね。どこかで誤解が生じたのですよ。やはり、ラティアーナ様とお話をされるべきでは?」
「だが、肝心のラティアーナがいない……」
 悔しそうに呟いた。
 いなくなってからその人物の重要性に気づいたって遅いのに、いなくならないとわからない。あまりにも近くにいすぎて、それが当たり前だと思っていたのだろう。
 世の中、当たり前など存在しない。
「ラティアーナの居場所に心当たりは?」
「神殿にいなければ、やはり故郷に戻ったか……」
「だが、ラティアーナに家族はいない。母親は彼女を産んですぐに亡くなったと聞いているし、父親も、ラティアーナがこちらに来てすぐに亡くなったようだ」
「他にラティアーナ様に関係のあるような場所は……」
「……孤児院」
 ぽつりとキンバリーがこぼした。
「もしかして、孤児院にいないだろうか。彼女は、子どもたちに好かれていたし。マザーとも仲がよかった」
 となれば、ラティアーナが孤児院にいることも十分に考えられる。
「そうそう、兄上。アイニス様のことですが……」
 そこでサディアスは話題を変えた。
「聖女様のドレスですか?」
 ラティアーナのドレスを仕立てたという仕立屋に、サディアスは足を運んだ。ここは昔からある仕立屋であるが、最近はデイリー商会に客を奪われつつあるともささやかれている。
 それでも、昔からの仕立屋であるため、ここを信頼している客も多い。特に、以前から懇意にしている者はなおのこと。
 デイリー商会も安くて質はいいのだが、年代によってはそのデザインを好まない者も多いという。
 だから神殿も、デイリー商会ではなく、この仕立屋にラティアーナのドレスを頼んだのだ。
「聖女様が聖女様らしくありますように、私たちもせいいっぱい縫わせていただきました」
 彼女は誇らしげに微笑んだ。
「布地も上等なものを選びました。レースもふんだんに使いまして、清楚な聖女様をイメージさせていただきました」
 ラティアーナのドレスがどれだけ繊細で手の込んだものなのかを、彼女は一つ一つ丁寧に説明をする。
 それを聞いただけでも、サディアスにはドレスの価値がなんとなくわかった。
 キンバリーが嘆くのも無理はないような、そんなドレスなのだ。
 いや、初めてあのドレスを身に着けて王城へとやって来たラティアーナは、お針子が言うように今までになく美しく、清楚で可憐であった。
「普段使いのものから、パーティー用のものまでと、神官長からは言われました」
 彼女に悪気はない。彼女はただ、自分の仕事に誇りを持ち、聖女様のドレスを仕立て上げるという栄えある仕事に全力で取り組んだだけ。
「あのドレスは絶対に聖女様にお似合いになると思ったのです」
 彼女の顔は、自信に満ちていた。

 ラティアーナは、三日に一度、孤児院を訪れていた。孤児院は王都の外れにある。
 マザーと呼ばれる女性が、身寄りのない子どもたちを預かって世話をしている。マザーとなる女性も、この孤児院の出身である者が多い。
 ラティアーナが孤児院へ足を運ぶと、すぐに子どもたちに見つかってしまう。
『ラティアーナ様、ご本を読んでください』
 新しい絵本を抱きかかえて、子どもたちはラティアーナに駆け寄った。子どもたちは、それぞれ見たことのない絵本を手にしている。
 この本は、王城から送られてきたものだろう。ラティアーナが定期的に孤児院を訪れていることを知ったキンバリーが、いくつか本を贈ったのだ。
 マザーはすぐにお礼状を書いたが、キンバリーは未来ある子どもたちのためにと、返事をよこしたらしい。
 その話をラティアーナはマザーから聞いた。だが、キンバリーに確かめようとは思わなかった。
 子どもたちはラティアーナのことが大好きである。
 本を読んで――。
 一緒にお菓子を作ろう――。
 編み物を教えて――。
 追いかけっこをしようよ――。
 それぞれの子どもたちが、それぞれラティアーナを誘う。一人しかいないラティアーナはそれらを同時にこなすことなどできない。
『ちょっと待っていてね。順番よ』
 彼女がそう言うと、子どもたちも素直に言うことをきく。
 ラティアーナが本を読む。子どもたちは黙ってそれを聞いているが、本に書かれている字を覚えようとする。そうするとラティアーナは、石盤(スレート)に真似をして字を書いてみましょうと言う。
 子どもたちはラティアーナの言う通りに、石盤に字を書き始める。
 そうやって字の練習をし始めた子どもたちに「また、後で見にくるわね」と言葉を残して、厨房へと移動する。
 そこでは別の子どもたちがお菓子を作ろうとしているところだった。子どもたちはラティアーナを待っていたのだ。
『ラティアーナ様、お菓子を作りましょう』
 厨房の作業台の上に並べられている小麦粉は、王城からの寄付金で購入したものだ。この小麦粉で、子どもたちはビスケットを作る。
 ラティアーナはビスケットの作り方を子どもたちに教えると、マザーには火を使う時だけ注意するようにと言づけて、次の部屋へと移動する。
 その部屋では、子どもたちが編み物や刺繍をしていた。
 ここにいる子どもたちは、少し年上の子どもたちだ。自分のことはある程度自分ででき、マザーの手伝いもするような年代。そして、本当にあと一、二年でこの孤児院を出ていかなければならないような子どもたち。
 だからこそ編み物や刺繍を学び、工場で針子として働けるようにと、今から練習をしている。そして作ったものはバザーで売り、孤児院のささやかな収入に当てている。
 バザーには収入を得る以外の役目もあった。こうやって子どもたちが作ったものを売ることで、子どもたちの才能を他の人に示す場でもあるのだ。
 過去にも、バザーで売っていた刺繍をすばらしいと褒めた商人が、その刺繍をした子を針子として雇っている。
『ラティアーナ様、ここがよくわかりません』
 細かい刺繍では、編み図から読み取るのも難しい場合もある。そういったときは、ラティアーナが言葉で丁寧に教える。
『こちらの糸をここに通してみましょう。そう、そうよ。上手にできましたね』
 ラティアーナの言葉で、子どもたちの顔もぱっと明るくなる。
『他にわからないところはないかしら?』
 こうやって子どもたちは、刺繍や編み物の腕をあげていく。
 そんな子どもたちの様子に安心したラティアーナは、建物から外に出た。
 外では、まだ幼い子たちが元気に走り回っていた。
『ラティアーナ様、追いかけっこをしましょう』
 五歳くらいの男の子に手をひかれて誘われたラティアーナは、すぐに鬼ごっこの輪に混ざる。
『きゃ~』
『ラティアーナさまが追いかけてくる~』
『にげろ~』
 子どもたちの元気な声を聞きながら、ラティアーナも一緒に走り回る。
 そうこうしていると、マザーが子どもたちを呼びに来た。
『おやつができましたよ』
『では、そろそろ中に戻りましょう』
 ラティアーナの言葉に従う子どもたちは、一列に並んで中へと戻る。その一番後ろを歩くのはラティアーナだ。
『うわぁ、いいにおい』
 食堂に入ると、ビスケットの甘いにおいが漂っている。
『ラティアーナ様に作り方を教えてもらったんだよ』
 子どもたちはおやつの時間となる。
 それを微笑みながら見送ったラティアーナは、マザーに挨拶をして神殿へと戻っていく。
 彼女が孤児院へくるときは、遠くに神官の姿が見えた。それはラティアーナの護衛だったのだろう。
 ラティアーナは孤児院で子どもたちに字を教え、おやつを共に作り、刺繍と編み物を行い、元気な子どもたちと外を走り回っていた。
 それを終えると、子どもたちと一緒におやつを食べた。
 些細な時間であるが、彼女はそれらを通して子どもたちに自立できる力を身に着けさせていたのだ。
 本を読めば自然と文字を覚える。覚えた文字を書かせることで定着する。
 おやつを作るのは、料理をするための基本事項を教えるため。刺繍や編み物は針子として働くために必要な技量であるし、外を走ることで体力をつける。
 もちろん、子どもたち自身はそれに気づいていないし、もしかしたらマザーも気づいていないかったのかもしれない。
 彼らが孤児院から出たときに、少しでも使える力を身に着けてほしいという思いがラティアーナにはあったのだ。
 今ではデイリー商会のお針子として働いている少女は言う。
『ラティアーナ様のおかげで、こうやって仕事を得ることができました。針子としての仕事はもちろんですが、読み書きも少しはできますので』
 ラティアーナが孤児院に足を運んだのは、たった二年であったのに、それでも子どもたちはめきめきと能力を身に着けていたのだ。
『ラティアーナ様が……聖女をおやめになったとお聞きしたのですが……』
 彼女もどこか言いにくそうに尋ねてきた。それでもラティアーナがどうしているのか、気になっているのだろう。
 ラティアーナが今、どこで何をしているのか、誰も知らない。神殿ですら把握していないのだから。
『そうなのですね……。ラティアーナ様には、感謝しても感謝しきれません』
 彼女は微かに微笑んだ。
 さらに、同じくデイリー商会で働いている少年も口にする。
『ラティアーナ様が孤児院に来て下さるようになったのは二年前ですが、それまでと僕たちの生活はがらりと変わりましたよ』
 彼は体力があるため、主に商会で扱う商品の荷下ろしを行っている。
『それまでは、僕たちもマザーも。ひもじい思いをしていましたからね。ここだけの話ですが……』
 そこで彼は少しだけ声を落とす。
『昔から寄付というものはあったらしいのです。だけど、その寄付は孤児院ではないところに流れていたみたいなんですよね。誰の寄付がどこにいっていたんでしょうね。不思議です』
 そう言って首を傾げた彼は、本当に不思議そうに目を細くしていた。
『だけど、ラティアーナ様が孤児院に来てくださるようになってから、その寄付というものがきちんと届くようになったんです。最初の寄付と、届けられた寄付が同じところからのものかどうかはわからないですけど』
 この子は賢い。
 だがそこで、彼は商会の人間から呼ばれた。
『あ、すみません。もう、休憩時間が終わるので』
 貴重な時間に付き合わせて悪かったと言うと、彼は『久しぶりにラティアーナ様の話ができて嬉しかったです』と、笑みを浮かべていた。
 ラティアーナは孤児院の子どもたちから好かれていた。そして、同じくらい感謝されている。
 ラティアーナは今、そんな子どもたちのことをどう思っているのだろう――。