一瞬、虹奈が目の前に現れたように見えて、心臓が止まりかけた。
 だから、虹奈の妹である虹乃ちゃんだと気づくのに、数秒かかってしまった。
 虹乃ちゃんは、目の奥に憎悪の炎を燃え上がらせながら、私を見ている。
 「久しぶりだね。元気だった?」
 「うん……」
 「記憶無くなるって本当?」
 間髪入れずにそう聞かれ、虹乃ちゃんがどうして私に会いに来てくれたのか一気に想像できた。
 虹乃ちゃんは、ずっと会うことが怖かった人だ。この世で今一番、どんな顔で会ったらいいのか分からなかったから。
 『ねぇ深青ちゃん、中学生になってもお姉ちゃんと仲良くしてくれる?』あのときの、腹を探るような表情を今でも鮮明に思い出す。
 私が心の中で虹奈をどう思っていたのか、すべて見透かされているようだった。
 虹乃ちゃんが次に放つ言葉が、すでに怒りを含んだ目に書かれている。
 「お姉ちゃんのこと、忘れるの?」
 予想した通りの鋭い質問に、体の中心を貫かれたような感覚に陥った。
 つい足元をふらつかせると、隣にいた映が心配そうな顔で目配せした。
 映には先に帰ってもらったほうがいいと分かっているのに、言葉が出ない。心臓がバクバクと暴れて、頭が働かなくなっていく。
 周りの生徒も異常に気付いてざわつき始めている。
 「強制的に忘れることになって、罪悪感から逃げられるって思った?」
 容赦なく続けられた言葉に、私は激しく動揺してしまい目を泳がせる。
 「否定、しないんだ……」
 虹乃ちゃんの声が絶望に満ちていく。
 明らかな挑発に対して、まさか私がなにも言い返してこないとは、思っていなかったのかもしれない。
 ただ苦しげな顔で突っ立っているだけの私を見て、虹乃ちゃんはふつふつと怒りを煮えたぎらせていった。
 「深青ちゃんも、お姉ちゃんを傷つけたネット上の人たちと同じだから」「……ごめんなさい」
 ただ謝ることしかできない。
 SNSを削除していたせいで、虹奈があのとき炎上していたことにすら、気づけていなかったのだから。
 「私の顔見るとお姉ちゃん思い出すから、目合わせるのも辛い?」
 詰め寄ってきたところで、隣にいた映が「おい……」と小さく声を出して、私たちの間に入って盾になろうとした。
 でも私はすぐにそれを制して、「大丈夫」と目で返す。
 私は今、虹乃ちゃんの言葉をすべて受け止めるべきだ。
 「……忘れないから。深青ちゃんの記憶が無くなったって、私は忘れないから」
 「虹乃ちゃん……」
 「お姉ちゃんが会いに行ったとき拒否したこと、ツラいときそばにいてくれなかったこと、絶対忘れてやらないんだから!」
 ほとんど叫ぶような声でそう言い捨てたところで、騒ぎを嗅ぎつけた教師がこっちに近づいてきた。
 それに気づいた虹乃ちゃんは、最後に私をひと睨みしてから、無言で足早に去って
 いった。
 「深青……」
 映が心配そうに私の名前を呼ぶ。
 どうしよう。ここから一歩も動けない。
 虹奈だけでなく、私は虹奈を大切に思っている人たちのことまで傷つけたのだ。
 その事実が重たくのしかかり、どんどん肺を押しつぶしていく。
 呼吸が乱れそうになったところで、ぐいっと腕を引っ張られた。
 「歩けるか」
 映の真剣な顔を見ながら、ただこくんと頷いた。
 映は、青白い顔をして動かない私を、虹乃ちゃんが走っていった先とは反対方向に、無理やり引っ張っていく。私はなんとか振り絞った力を足に移動させて引きずるように歩いた。
 好奇の視線から離れるように校舎を後にすると、学校の近くにある小さな公園にたどり着いた。
 幸い人は誰もおらず、私たちは大きな木の下にある茶色いベンチに腰掛けた。「大丈夫?」
 「ごめん、私、迷惑かけて……」
 映の心配した言葉を遮るように、すぐさま謝罪した。
 ずっと頭の中がぐわんぐわんと揺れていて、ここが現実なのか分からなくなっている。
 もし映がフォローしてくれなかったら、私は校門で倒れていたかもしれない。
 でも、その代わり、すべて映に聞かれてしまった。私がずっと逃げていた過去のことを、すべて。
 なにを聞かれるだろう。どう思っただろう。映の感情を勝手に想像して、ぐっと唇をかみしめる。
 「……なあ、先に俺の話していい?」
 「え?」
 過去のことを掘り下げられると思いきや、映は突拍子もないことを言ってのけた。
 私はゆっくり顔を上げて、映とまっすぐに目を合わせる。その穏やかな表情を見て、膝の上に置いた手の力が、少しずつ緩んでいった。
 「俺、母親に後遺症が残るくらいの怪我をさせた過去があるんだ。中三のときに」
 「え……」
 「それからずっと、時が止まったようで、自分の未来を捨ててでも一生償わなければならない気持ちでいる。……今もだ」
 なんて、言葉を返したらいいのか、分からない。
 映は壮絶な過去を淡々と語り、私の顔をまっすぐ見つめている。
 忘れたい過去ばかりだと言っていたのは、そのため?
 私と同じように、ずっと罪の意識に囚われていたから……?
 「私、は……」
 「いい。そんな辛いこと、話さなくていい。俺は勝手に話しただけだ」優しく私の言葉を制する映に、涙が溢れそうになる。
 少し冷たい風が吹いて、私たちの真上にある木々を揺らした。見つめあっている間、葉が重なり合うさわさわという音だけが、鼓膜を震わせている。
 どうして映は、今そんな過去を私に打ち明けてくれたのだろうか。
 私と映の状況は、全く違う。
 でも……、私たちにはそれぞれ、決して忘れてはならない過去がある。
 ――全て忘れて、悲しいことをリセットしたら、別の人生を歩めるのか?本当に、別人にはなれるのかもしれない。でもそれを繰り返したら、私の人生に最後なにが残るだろう。
 大切な人を傷つけたことも、大切な人と過ごした日々も、すっかり忘れてこの先を生きていく私に、いったいなにが残るというのか。
 「私、虹奈といるときだけはっ……、うまく呼吸ができたの……」なにも考えずに、涙と一緒に言葉が溢れでる。
 なんの説明もなしにこんなことを吐露しても、映には伝わらないだろう。それでも、言葉は止まらない。
 「でも、もういない……二度と会えない……」
 いつも私の味方でいてくれた虹奈は、もう世界のどこにもいない。
 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
 どうして突き放してしまったんだろう。
 最後の会話があれになるなんて、思ってもみなかった。
 『大人になっても、私のこと忘れないでいてくれる?』
 どうして私に会いに来てくれたのか。どうしてあんな質問をしたのか。
 あのとき、虹奈は私を必要としてくれた。それなのにそばにいられなかった。
 虹奈の訃報を知ったとき、私は真っ先に、虹奈が一番苦しかった日を見逃したのだと悟った。
 あのときほど、死にたくなったことはない。
 悔しくて悔しくて、血が出るほど唇をかみしめて泣いた。
 虹奈が自殺をしたわけではないことは分かっている。
 でも、間違いなくあの日、虹奈は私にSOSを出していたはずだ。
 『深青の家はやっぱり落ち着くなー』
 私の部屋で、長い手足を投げ出してくつろぐ虹奈とは、もう一生会えない。
 嫌だ。忘れるなんて絶対に嫌だ。
 虹奈と過ごした全部が、今の私を作っているというのに。
 「虹奈……虹奈、ごめん……っ」
 虹奈の名前を呼びながら、カタカタと震えた指でスマホを操作する。
 ずっと怖くて、二度と見返すことなどないと思っていた虹奈とのトーク画面を開く。
 そこには、私が三年前に送ったメッセージが未読で残っていた。【一昨日はごめんね。仲直りがしたいです。今日、会いに行っていい?】
 ずっとスマホを握りしめて返信が来るのを待っていたあの夜。心臓がおかしくなってしまいそうだった。
 虹奈が怒っているのだと勘違いしていた頃の私は、まだ平和ボケしていた。
 人生が幕を閉じる瞬間は、誰にでもあっけなく訪れる。
 既読マークが永遠につくことがないトーク画面を見て、私は堪えきれずに嗚咽を漏らした。
 「忘れたくないっ……、虹奈との全部。なにもかも、忘れたくないっ……」やっと逃げていた罪悪感と向き合えた。
 涙がとめどなく溢れ出てくる。
 薬の混入を告げられたあの日。私はただ、防衛本能でなにも考えないようにしていただけだ。あのときすぐに泣くことができた生徒たちの方が、よっぽど大人だ。
 「虹奈を忘れることは、自分を失うのと一緒だ……っ」
 「……深青」
 今までずっと黙って聞いてくれていた映が、そっと私の背中をさすった。
 こんなに自分のことを誰かに曝け出してしまったのは初めてだ。
 大きな手から伝わる体温に、少しずつ体の緊張がほぐれていく。
 「たとえ全部忘れても、深青の中にはきっとなにか残る。その子からもらったものが」映は、諭すわけでもなく、語るわけでもなく、ただ思ったことを言葉にしている感じがした。
 私は流れる涙を放置しながら、映の優しい声に耳を傾ける。
 「人生が変わるほど大切な人との記憶なら、骨となって血となって、残るはずだ」骨、血、という言葉を聞いて、私は思わず自分の両腕をぎゅっと掴んだ。本当に……?
 全部忘れ去ったとしても、虹奈からもらったものは、この体に残る……?そう信じたい。自分の一部に、虹奈が残っているかもしれないと。
 「大丈夫。そう信じよう」
 そう言って、映は私のことをそっと壊れものみたいに優しく抱きしめた。きっと、自分自身にも言い聞かせているんだろう。映の腕は震えている。
 思ったよりも広い映の背中に腕を回して、私はそっと目を閉じた。
 今の自分を作っているのは、他者と出会ったことすべてだ。忘れたら、全部洗い流されてしまう気がしていたけれど、そうじゃないと思いたい。
 ……そう信じても、いいだろうか。
 「ずっと怖くて、向き合えてなかった。でも、もう前に進まなきゃ……」
 「うん」
 「罪悪感ごと抱えて、自分の人生に向き合っていきたい……っ」
 映の胸に顔を埋めながらつぶやくと、映は私を抱きしめる力を強めて、「俺も」と少し震えた声で返した。
 どんな後悔があったとしても、私は生きなければならない。それが私の使命だ。
 たとえ人生の節々で自己嫌悪に飲み込まれそうになったとしても、虹奈からもらったものを体の一部にして、這いつくばってでも前に進みたい。
 奥歯の隙間からようやく絞りでてきた三年分の決意を、世界でたったひとり、映だけが聞いてくれた。

 〇
 
 次の日の休日。私は、虹奈のお墓の前に来ていた。
 住宅街を抜けた、小高い丘にある広い霊園だ。
 死を目の前にすることが怖くて、ここには一度しか来られていなかった。
 虹奈が好きだった色の、紫色のお花をたむけて、そっと手を合わせる。目を閉じると、瞼の裏に虹奈との思い出が溢れてくる。
 虹奈。間違いなくあなたは、私にとって世界一魅力的な女の子だった。
 もうあなたのような人には、二度と会えないんだろう。
 「虹奈……そこにいる?」
 熱い涙が溢れでてくる。冷たい風が髪を揺らす。
 でも今日は、とことん謝って、とことん泣こうと思ってやって来たのだ。
 「ごめんね虹奈、ごめん、ごめんなさい……っ」 消えることのない罪悪感。
 虹奈を失った日から、一日たりとも虹奈のことを思い出さない日はなかった。でももう二週間後には、それすらできなくなってしまう。
 すべて忘れてしまうのなら、この情けない私の姿をあなたに全部曝けだしたい。
 「虹奈、会いたい。会いたいよっ……」
 もう想像することでしか、あなたに出会えない。
 その現実が、ただただ悲しい。
 自分らしく生きるということを、もしかしたら虹奈は実現できていなかったのかもしれない。
 でも私は、虹奈と一緒に部屋に転がっているときが、一番自分らしかったと思う。そして、虹奈もそうであったのだと願いたい。
 虹奈からもらったものを言葉にするなら、それはあなたと過ごした時間のすべてだ。あなたと出会ったことすべてだ。
 この出会いを奇跡という言葉で片づけるには足りない気もするけれど、奇跡だったんだと思う。
 この奇跡をなかったことにはしたくない。
 だから、なにもかも手記に残すと決めた。たとえ顔や声を思い出せなくなっても、虹奈が体の一部に残ると信じて。
 「虹奈……、今、送るから、見てほしいものがあるの……」涙でぼやける視界の中、私はゆっくりとスマホを取り出す。
 そして、永遠に既読がつくことのない虹奈とのトーク画面を開いた。
 震える指で、メッセージを打ち込んでいく。
 届くわけがないと知りながらも、一文字一文字、思いを込めて。
 【ねぇ、もし生まれ変わったら、虹奈の動画に、一緒に出してくれないかな。
 その時は、虹奈の親友だと堂々宣言したいよ。
 虹奈。私の、永遠の親友。ずっと忘れない。ずっと。】