「卒アルのアンケート、なんとか集まったね。皆協力的でよかった」
 「そうだな。ほんとお疲れ」
 「卒業まであと二週間しかないのにって感じだけどね」
 映と二回目の打ち合わせで、なんとか方向性が決まった。
 内容は、皆の印象アンケート、思い出TOP3など。かなり定番といった感じだが、結局これが一番求められているのではないかと思った。
 全員を忘れてしまう、こんな状況だからこそ。
 アンケートは映がささっと項目を立てて作成してくれたので、とても助かった。
 「どうしてそんなにパソコン作業が得意なの?」
 不思議に思い問いかけると、映は一瞬考えるそぶりを見せてから、「あー、編集作業とかよくしてるから」とぼそっと答えた。
 編集作業……? それって動画とかの……?
 「え! もしやユーチューバーとか?」
 「いや……そうじゃない」
 歯切れの悪そうな映の言葉の続きを、じっと待ってみる。
 「作曲してるんだ。ボーカロイド使って」
 「え、すごい……!」
 「ただの趣味だよ。なにもすごくない」映の意外な一面を知り、ドキッとする。
 そう言われてみれば、いつもヘッドフォンで音楽を聴いていたのも納得がいく。そうか、映は……音楽が好きなんだな。
 どんな曲を作っているのか知りたいと思ったけれど、さすがにまだ関係値が浅いのに厚かましいかなと思い、我慢した。
 「じゃ、さっそくアンケート集計するか」
 「よし、頑張ろう」
 あんまり作曲の話をしたくないのか、会話を切り替えた映がパソコンをいじって、データを抽出しはじめた。
 ここからは地味な作業が続くので、だれないように気合いがいる。
 「テレビでも観ながらやる?」
 「え、テレビなんか……あった」
 映の突然の提案に驚いていると、映が指さした先に小型テレビが置いてあった。
 埃がかぶっているので観れるかどうか怪しく感じたが、チューナーは繋がったままだ。
 「リモコン発見」
 映が見つけ出したリモコンでスイッチを入れると、パッと画面がついた。
 「え、普通に観れるのすごい」
 「地上波久々に観るな。夕方だしニュースばっかりだろうけど」
 チャンネルをころころと替えると、ちょうど集団記憶喪失事件のニュースが流れてきた。
 「あ」と私が声を出したので、映はそこでチャンネルを止める。
 最近は大きなニュースがないせいか、いまだに今回の記憶喪失事件はトップニュース扱いだ。
 画面の中で市長が真剣な顔で怒りを滲ませながら、『早急に対応していく』等と近況を語っている。
 「なんか、まだ記憶を失ってはいないんですけどって感じだよね。集団記憶喪失って言い方、キャッチーなんだろうけど」
 「……そうだな、言っとく」
 ……言っとく?
 映の反応に疑問を抱いたけれど、映があまりに険しい顔でニュースを見ているので、それ以上聞くことができない。
 なんだっけ。この市長の名前。たしか、久我山……久我山?ぱっと顔を上げると同時に、映が「親父」と一言言い放った。
 「え、そ、そうだったの……。まさかとは思ったけど」
 今テレビに出ている人の息子だという事実に、驚きを隠せない。
 しかし、映の反応は微妙で、あまり嬉しくなさそうだ。
 「落として欲しいから、投票すんなよ」
 「いやいやいや……」
 「はは、選挙違反かこれ」
 映が市長の息子だということを知ってる人は同じクラスにいるのだろうか。まったくの初耳だ。
 もしかして映にとっては知られたくないことで、ずっと隠していたのかも知れない。
 「十年分しか消えないから、家族の存在自体は、記憶消せないんだろうな」テレビを見ながらぽつりとつぶやく彼は、本気の顔をしていた。
 その寂しげな瞳には、もう誰も映らないんじゃないかと思ってしまうほど、家族に対する複雑そうな感情が入り混じって見える。
 私はなにも言えなくて、ただ彼の中にある闇を想像することしかできない。
 「浅羽は……この前話してくれた親友との記憶、忘れたい?」
 突然話題の方向が私の過去に向いたので、分かりやすく動揺してしまった。
 映はいつも、絶妙なタイミングで私に矢を向けてくる。
 「ツラい記憶だろ。浅羽にとって」
 そう言われて、私は喉に言葉を詰まらせた。
 なにか言おうとしたけれど、空気になるだけで音にならない。
 ツラい記憶と言われて、あまりしっくりこないのは、どうしてだろう。虹奈のことを思い出すと、いつも真っ先に浮かぶのは彼女の眩しい笑顔だ。
 不意打ちで虹奈との記憶が再生されて、気づいたら、ぽろっと涙をこぼしていた。
 「浅……」
 「ごめん、ちょっと」
 どうして? そんなつもりはなかったのに。
 私はぐっと涙を手の甲で拭って、ガタンと席を立った。
 突然の涙に、私自身もコントロールが効かない。
 テレビからは、まだ集団記憶喪失事件のニュースが流れている。
 『多感な時期である十代の記憶のほとんどを失うことになり、生徒たちは今どんな思いを抱えているのでしょうか――』
 リポーターが私たちの高校の門前で、生徒たちを突撃取材している映像を見て、心がささくれ立っていく。
 忘れたい、忘れたくない、そんな言葉で語りつくせるほど、簡単な感情ではない。
 大人たちが想像するよりずっとずっと、私たちは、複雑だ。
 「ごめん、軽率に聞いて」
 真剣な顔で、素直に謝る映に、ふるふると首を横に振った。
 「大丈夫。ちょっと昔のこと思い出しちゃって……、頭冷やしてくる。集計の続きは家でやってもいいかな?」
 「……わかった」
 映はそれ以上、深掘りしてこなかった。
 泣き顔を見られないようにサッとデスクの上を片づけ、コートとマフラーを身に着けて、資料室をあとにした。
 私は本当に、ただ向き合ってこなかっただけだ。落ち着いた人間なんかではない。
 刻一刻と卒業式が近づいているのに、私は……、いつまでも虹奈から逃げている。
 もうリミットが近づいているというのに。
 廊下を小走りで移動し、すぐに外で頭を冷やそうとした。
 「わっ」
 しかし、曲がり角で誰かとぶつかってしまい、私は即座に「すみません!」と声を上げた。
 「……平気」
 ぶつかってしまった相手は、ずいぶん学校に来ていなかった生徒、黒木千枝だった。
 『十年分の記憶が消えるって……なにもなくなるってことですか⁉』あのとき、黒木さんはほとんど叫ぶように取り乱していた。
 あれから見かけなかったけれど、今日は登校していたんだ。どうしてこんな放課後まで残っていたんだろう。
 初めて彼女のことをこんなに面と向かって見たけれど、猫のような釣り目に、泣きぼくろが印象的なクールな顔立ちだ。顔周りの髪がくるんと内側に向いたウルフカットがよく似合っている。
 「……浅羽さん」「え、はい……」
 黒木さんは、なにかもの言いたげな雰囲気で、黒い瞳をこちらに向けてくる。そんなに、怒らせてしまっただろうか……。
 ふと、足元に黒いカバーケースに入ったスマホが落ちていることに気づく。
 すぐにしゃがんで、黒木さんのスマホを拾い上げたけれど――私はロック画面を見て固まった。
 「虹奈……?」
 その画面には、ファミレスでジュースを飲む虹奈の画像が設定されていたのだ。ポニーテールに、青いリボンが特徴的な制服姿で、笑顔でカメラ側を見ている。
 久々に観た虹奈の写真に、一瞬呼吸が止まりかけた。
 どうして、黒木さんが虹奈の写真を……? 虹奈と知り合いなの……?ドクンドクンと、心臓が激しく脈打つ。
 「……浅羽さん、知ってんの? モデルのニナ」
 「え……」
 「ファンなんだよね」
 黒木さんの言葉に、すぐにハッとした。
 そうか、虹奈は有名人だったのだから、ファンとして応援しているということもありうるのか。プライベートな写真に見えたから、勘違いしてしまった。
 黒木さんの問いかけに、私はワンテンポ遅れて、気まずげにこくんとうなずく。
 「知ってるというか……幼馴染で」
 「え、そうなんだ。同じ市内に住んでるのは知ってたけど」
 黒木さんのようなクールな人が、虹奈のファンということに、少し意外性を感じる。
 彼女と話したことは本当に初めてで、同じクラスになったのも三年生になってからだったから、性格や趣味もなにも知らないけれど……。
 「ずっと……お線香をあげに行ってみたいと思ってたの。住所知ってたりする?」
 「え……」
 会話の糸口を探しているうちに、黒木さんが少し言いづらそうな声音で切り出した。
 お線香、という言葉に再びドクンと心臓が跳ねる。
 現実を受け入れることが怖くて、一度しかお線香をあげに行けていない。虹奈の母親に会うことも、なぜか怖くて……。
 「お願い」
 もう一度力強く、懇願してくる黒木さん。
 教えていいのか迷ったけれど、彼女は今、本当に真剣な顔をしている。
 虹奈の突然すぎる死に、ファンの人も相当ショックを受けただろう。
 「私、小さい頃春風団地に……住んでたの」
 しばしの沈黙の後に、私は静かに口火を切る。
 「隣の家に、虹奈がいた」
 虹奈の住所をそのまま教えることに抵抗があったから、少し遠回しな伝え方をした。黒木さんは最初、なんの話をしているのかという顔をしていたけれど、会話の流れを察して「ありがとう」とつぶやく。それから、スマホの画面にいる虹奈の顔をじっと見つめた。
 「……皆どうせいつか忘れる?」
 苦笑交じりに、黒木さんは急にそんなことを言い放った。その瞳は暗く、世間を嘲笑っているようにも見える。
 「どんなに有名になっても、いつか話題にも出なくなる?」
 「え……」
 「遅かれ早かれ……、死んだって生きてたって……、そうなる?」
 記憶喪失になることを嘆いているのだと、理解するまで少し時間がかかった。
 今回の薬のことがなくても、私は虹奈を遠ざけていくうちに、いつか自然と虹奈のことを思い出しもしなくなる未来があったのだろうか。
 そう考えたら、恐ろしくて、泣きそうになった。
 ……違う。そんなことはない。そんなのは、空っぽな人間だ。私のこれからの人生に、虹奈との思い出は必要だ。絶対に。
 『浅羽は……この前話してくれた親友との記憶、忘れたい?』さっき、映が投げかけた質問が頭の中に浮かび上がってくる。
 忘れたくない。私は、虹奈と過ごした記憶全部、失いたくない。
 「春風団地、行ってみる。……じゃ、うち、先生に呼び出されてるから」そう言い残して、黒木さんは廊下を去っていった。
 取り残された私は、その場に棒立ちしながら、最も後悔している日のことを、思い出していた。
 もし過去に戻れるなら、私は間違いなく、あの日に戻る。 ……虹奈が私の中学校まで、ひとりで会いに来てくれたあの日に。

 〇

 ――中学三年生、夏。
 その日は、立っているだけでも汗が出るくらい暑い日だった。
 新居に引っ越し、中学生になった私は、虹奈と極端に関わらなくなっていた。
 たまにメッセージのやりとりはするものの、会うことはなにかと理由をつけて断っていたのだ。
 虹奈自身も仕事がどんどん忙しくなり、授業に出る暇もなくなって、会おうという誘いも自然に減った。
 『虹奈はどうして深青とあんなに仲良いんだろ』
 『深青って、虹奈と友達なこと絶対自慢に思ってそうだよね』
 『分かる。釣り合ってないのにね』
 『いつも超得意げな顔で横にいるもんね』
 小学校卒業間際、虹奈と仲良くしたい同級生から、私はずっと陰口を言われ続けて
 いた。
 もし虹奈に相談したら、きっと虹奈は怒って私の味方をしてくれただろう。
 でももう、私にはその気力もなくて、ただ静かに卒業したいという気持ちだけが残った。
 卒業したら、虹奈の隣にいることをもう責められない。
 虹奈と離れることができる――。
 気づいたらそんな思考になっていて、私は逃げるように私立中学に入学したのだ。
 中学生活は良くも悪くも生ぬるく、皆に溶け込めてはいるけれど、親友と呼べる人はできていない。
 もしせーので二人組を作れと言われたら、私を選んでくれる人は多分いないだろう。改めて、小学生時代は虹奈のおかげで孤独ではなかったことに気づかされる。
 もし虹奈が同じ中学校にいてくれたら……。そんなことを思うときも多々あった。
 でもきっと虹奈は、モデル仲間や新しい中学校の友達と、うまくやっているんだろう。
 虹奈が友達と仲良さそうにコラボ動画をアップしているのを観ることがツラくて、一年前にすべてのSNSを削除した。
 なにも考えずに虹奈と笑っていられた頃に戻りたい。今までにいったい何度、そう思っただろうか。
 でももう自分自身でも、どうしたらいいのか分からない状況だったんだ。
 「あれ……?」
 靴を履いて外に出た矢先、なにやら校門がざわついていることに気づく。
 男女ともにちらちらとなにかに目配せをしている。
 有名人が撮影でもしているのかと思ってチラッと覗いてみると、そこにはなんと、制服姿の虹奈がいた。
 「虹奈……?」
 茶髪ロングに、青いリボンが特徴的な白いセーラー服がすごく似合っている。少し痩せすぎのような気もするけれど、背景がかすんでしまうくらいどこからどう見ても美少女だ。
 誰か恋人を待っているのかと周囲がざわつきだしたところで、虹奈がついに私を見つけて手を挙げた。
 「深青! 久しぶり」
 こっちに向かって手を振られた瞬間、バッと私に視線が集中した。その瞬間、カーッと急激に顔が熱くなる。
 どうしていきなり……? 会えたこと自体は嬉しいはずなのに、羞恥心が勝ってしまう。
 私はすぐに虹奈に駆け寄って、校門の端に寄った。
 「ちょっと……、いきなり来られても困るって」
 卒業間際に陰口を言われ続けたトラウマが蘇りパニックになっていた私は、「久しぶり」も言わずに虹奈のことを責めてしまった。
 すぐに、自分の発言が冷たかったことに気づき反省したけれど、動悸が止まらない。
 それでも虹奈は、嬉しそうな顔で「ごめんごめん」と笑っている。
 好奇の視線がツラくて、心拍数がどんどん上昇していく。
 『釣り合ってないのにね』
 小学生時代の陰口を思い出して、今も周囲にそう思われているのかもしれないと、被害妄想が膨らんでしまう。
 私とは釣り合っていない。そんな視線を向けられている気がして……。
 「急に来たら目立つよ。どうしたの?」
 なるべく焦りを抑えて、落ち着いた声で話すように努力する。
 「ちょっと近くで用事あったから、ついでに寄ってみた」「せめて……、連絡くれたらよかったのに」
 「ごめんごめん。シンプルに会いたかったから」
 会いたかったという言葉を、素直に受け取れない。
 虹奈の隣にいるのに、私はきっとふさわしくない――。
 そうやって、周囲の目に振り回されている自分が嫌で、虹奈から離れたのに……。
 ようやく気持ちが落ち着いてきたと思ったのに。
 そんなことも知らずに、虹奈は無邪気に可愛い笑顔を浮かべている。
 「とにかくもう、学校には来ないで。皆パニックになってるから……」
 「……分かった。ごめんね」
 虹奈は一瞬傷ついた顔をしたけれど、すぐに笑顔でかき消した。
 その反応を見てズキッと胸が疼くけれど、これ以上優しくフォローできるほどの余裕がない。
 かすかに、「ニナの友達? あれ誰?」「全然知らない、あんな子同学年にいた?」
 というやりとりが聞こえてきて、消えてしまいたくなる、
 「せっかく来てもらってごめんだけど私、今日塾あるからここで……」
 「あ、そうなんだ。まあ……、急に来たから仕方ないね」
 今この場から去るための嘘を、私は簡単についてしまった。ズキンと胸が痛む。もしかしたら虹奈は見抜いているかもしれない。
 今まで虹奈に嘘をついたことなんてなかったから、自ら今までの友情を壊していることに、大きな罪悪感を抱く。
 ――ごめん、虹奈。私が弱いせいで、隣にいられなくてごめん。
 虹奈が変わらず私を友達だと思ってくれていることは分かっているのに、自分が情けない。
 堂々としていればいいのに、どうしてできないんだろう。
 人の目ばっかり、どうして気にしてしまうんだろう。
 自分らしく輝いている虹奈を見るたびに、自分はなんてつまらない人間なんだろうと思う。
 こんな自分、虹奈に見透かされたら本当に嫌われてしまう。
 『やっぱり深青といると落ち着くなー』
 あんな笑顔を向けられる資格は、もう私にはない。
 見ないで。これ以上、今の私を見ないで……。
 「ねぇ、深青」
 逃げるように去ろうとした私を、虹奈が呼び止めた。
 重みのある声だったので、私もピタッと止まって、虹奈のことをちゃんと見つめる。
 どうしてか虹奈は、少し切なそうな……壊れてしまいそうな顔をしている。
 「大人になっても、私のこと忘れないでいてくれる?」え……?
 思いもよらぬ質問をされて、私はその場に固まった。
 なんでそんな、もう二度と会えないかのような発言をするの。
 「なに、言ってるの……?」
 「ううん、ごめん。また今度ね」
 それだけ言って、虹奈は笑顔で手を振り、小走りで去っていった。
 私服姿の女の子と一緒に来ていたようで、虹奈はその子と一緒に、駅と反対方向に消えていく。
 「虹奈……?」
 どうして虹奈はあんな発言をしたのか。
 あんなにキラキラした毎日を送っているのに、どうしてそんなに消えてしまいそうだったのか。
 もしかして私は、虹奈のほんの一部ですら、分かっていないのだろうか。
 なにも答えられなかった自分が情けなくて、しばらくその場から動けなかった。
 距離を置きたいと思っていたくせに、いざ虹奈から別れのような言葉をかけられると、こんなにも簡単に絶望してしまうなんて。
 『大人になっても、私のこと忘れないでいてくれる?』虹奈の声と表情が、脳に焼き付いて離れない。
 もう虹奈はここにいないのに、何度も何度も、問いかけてくる。
 そして、この日の虹奈が、私が最後に見た虹奈の姿になってしまったのだった。

 〇

 黒木さんと別れた後、私は昇降口で靴を持ったまま、動けないでいた。
 虹奈の最後の後ろ姿が現実世界ともリンクして、今遠くに見える校門に、虹奈の幻が浮かんでくる。
 「虹奈……」
 すのこの上で外の景色をぼんやりと見つめながら、名前を呼んだ。もちろん返事はなく、虹奈という名前はただ空気に溶け込むだけ。
 そのしんと静まり返った様子に、これが現実なのだと思い知らされる。
 虹奈の存在ごと記憶が消されることになったと知ったら、虹奈はどう思うのだろう。
 きっと許さないだろう。虹奈を傷つけたことを全部忘れて、私が普通の顔をして生きていくなんて。
 「許さないで……」
 とめどない罪悪感に襲われて、私はとうとうその場に座りこんだ。
 首に急いで巻いていた、紺のマフラーが下に落ちた。でももうそんなことはどうでもよかった。
 許さないで、虹奈。一瞬でも、忘れたほうが楽になれるかもと思った私ごと、どうか許さないで。
 無個性な自分を嫌悪する理由を、あなたの存在のせいにしていた私を、決して忘れてはならない。
 あなたが勇気を出して会いに来てくれたあの日、あなたの手をとって一緒に帰るべきは私だった。
 なにも掴まずに空ぶった右手を、爪痕がつくほど強く握ったまま、私はいまだに虹
 奈の残像を探している。
 「……深青」
 暗闇のどん底で、小さな光が灯るように、私を呼ぶ声が降ってきた。
 深青、と呼ばれたので、一瞬虹奈の声に聞こえてしまい、私は勢いよく顔を上げる。
 すると……、そこには、私を心配した様子の映がいた。 
 「え……」
 「まだいると思った」
 彼は黙って私の横にしゃがみこむと、肩が触れそうな距離まで近づく。
 私は今、いったいどんな顔をしているだろう。
 映が隣にいることに動揺しているのに、今誰かがそばにいてくれてよかったとも思っている。
 「どうして……?」
 主語もなにも言わずに、震えた声で問いかけた。
 すると、映は少し遠くを見てから、ゆっくりと口を開く。
 「さっき、踏み込みすぎたなって思って」
 「いや、こっちこそ急に泣いたりしてごめん」気を遣わせてしまったのだと分かりすぐに謝ると、映はふるふると首を横に振った。
 「あのさ、突然なんの話って思うと思うんだけど」
 「うん……」
 「俺さ、他人を理解したいとか知りたいとかって、すごい傲慢な話だなって常々思ってて……」
 下に落ちていたマフラーを、映がいつの間にか拾ってくれていたようで、話しながら私の首にまわしかけてくれた。
 映はマフラーの端を持ったまま、薄茶色の綺麗な瞳をこっちに向けて、じっと私のことを見つめている。
 「人には人の地獄があるし、知ったところでなにもできないし」
 「……うん、そうだね」
 それはすごく分かる。虹奈のすべてをもし知れたとしても、私にいったいなにができるだろうと思うから。
 でも、なにもできなかったと分かっていても、私はあの日のことを激しく後悔している。
 どうして映は、今そんな話をしてくれるんだろう。
 「そう思って、人間関係諦めてるところがあって……」
 「うん」
 「でも、浅羽のこと、全部知らなくてもいいから、今そばにいたいと思った」
 「え……」
 「だから来た。答えになってる?」
 映は私の顔を覗き込むようにして、そう問いかけてきた。
 そこまで聞いてようやく、映が私の『どうして……?』に対する答えを必死に言葉にしてくれていたのだと分かった。
 全部知らなくてもいいから……そばにいたい。
 そうか。私は、ずっとそのことを悔やんでいたんだ。
 虹奈のことを少しも知らなかったことがショックだったのではない。あの時そばにいなかったこと自体を、ずっとずっと後悔していたのだ。
 熱いものが、再び頬を流れ落ちていく。
 映の言葉が、ずっと凍てついていた私の心を、温かく包み込んでいく。
 「ありがとう……」
 今そばにいてくれて、と、心の中で付け足す。不思議だ。映と会話をしたことなんて、ここ二週間の話なのに。
 どうして彼に涙を見られても、恥ずかしいとは思わないのだろう。
 映もまた、同じような苦しみを抱えていそうだから? どうせ忘れることだから?何度自問しても、答えは出そうにない。
 「……俺も」
 かなり間を空けてから、映が静かにそう答えた。
 なにに対して同調してくれているのか分からないまま、私は必死に泣くのを堪える。
 けれど、映があまりに優しい目で私のことを見るので、涙が溢れ出てしまった。
 あなたの地獄は、なんだろう。
 あなたの孤独は、なんだろう。
 その半月型の瞳を見て、ひとり想像する。
 虹奈と同じように映を大切だと思うほど、私は彼の奥の奥にある闇に寄り添いたくなり、勝手に胸が苦しくなるのだ。