それはまさに、脳天を撃ち抜かれたような衝撃だった。
 十八年生きてきて、願ってもない、チャンスだと。
 『君たちが昨日食べた学食に、記憶削除の脳薬が混ぜられていた』
 その衝撃的な告白を聞いた瞬間、心のどこかで、俺はぞくぞくしていた。
 もしかしたら、卒業と同時に別人に生まれ変われるかもしれない、と。
 このクソみたいな人生を捨て去って、新しい人生を歩めるかもしれないと――。
 事件発覚後、静かに帰宅すると、瘦せ細った母親が八人掛けのダイニングテーブルの端にうずくまっていた。
 その姿を見て、すでにいやな予感を感じ取る。
 俺は足音を立てないようにリビングを通りすぎようと、気配を消すことに集中した。
 家族三人が住むには広すぎるこの家は、いつも怖いくらいキチンと整っていて生活感がない。
 ひとり兄がいるけれど今は東京の大学に通っていて、一緒に住んでいた祖母は三年前に亡くなった。祖父は俺が生まれる前に亡くなったので会ったことがない。
 市長を務めていた今は亡き祖父が建てたこの家は、ここら辺で一番大きく目立っている。見上げるほどの高さの門で囲まれているので、外からは全く中の様子は見えないけれど。
 もうだいぶ築年数が古く和室ばかりのこの家は、横にだだっ広いせいかいつも寒い。
 「映、そこにいるの」
 自室に直行しようと階段をのぼろうとしたところで、母親がかすかな物音に気付き低い声を出した。
 その声を聞いた俺は一瞬ですべてを諦め、リビングへと向かう。
 すでに負のオーラを放っている母親は、顎下の長さで切り揃えられたワンレンの髪をかきあげて、ゆっくり視線を俺に向けた。
 「学校から聞いたわ。ああ……っ、なにか後遺症とかあったらどうしよう……」
 「もう連絡あったんだ」
 「お母さん、映しか頼れる人がいないのに、映がお母さんのこと忘れちゃったら、生きていけない!」
 すでにヒステリックになり始めている母親に、深いため息が出そうになる。
 たしかに今回の事件はかなりショッキングなもので自分でも動揺しているけれど、自分以上に不安定になっている母親を見ると、なぜか冷静になってくる。
 母親は席を立ちあがると、ソファの前に立っていた俺の肩を激しく揺さぶった。
 「映、お母さんのこと忘れないよね……? 大丈夫だよね⁉」「消えるのは十年分だから、家族のことは普通に覚えてるよ」
 大きな瞳を血走らせて詰め寄る母親を宥めるため、どうにか落ち着いて答える。
 しかし母親は事実を受け止めきれないのかかなりの興奮状態で、俺の肩に爪を食い込ませる。
 「ありえない……っ、学校ごと訴えてやるわ……! 絶対に許せない……」
 怒り狂う母親の額には痛々しい傷痕があり、それは自分のせいでできたものだ。
 その傷を見るたびに胸が痛み、この家から俺は逃げられないのだと実感する。
 三年前、俺が中学三年生の頃。
 母親が必死に守ってきたものをプツンと切ってしまったのは……自分なのだから。
 「勉強に関する記憶には影響ないんだから、そんなに慌てることじゃない」
 「なに言ってるの! うちの大事な息子に訳の分からない薬を飲ませられて黙ってられないわ」俺の肩を離した母親は、今度は必死の形相で弁護士の名刺を棚から探し始めた。
 もうあのモードに入った母親を止めることはできないと諦めた俺は、棒立ち状態でつけっぱなしだったテレビに視線を向ける。
 『速報です。静岡県××市にある私立S高等学校で、集団記憶喪失事件が発生しました……』
 つけっぱなしのテレビでは、もうすでに今回の事件のニュースが速報されていた。
 集団記憶喪失、というなかなかにパワーのあるワードが、テロップででかでかと表示されている。
 ニュースになるのは明日ごろかと思っていたけれど、すでに拡散されていることに驚く。
 そのまま流し見ていると、突然自分の父親がパッと画面の中に現れた。
 『今事態を詳しく調査している最中です。誠に遺憾な事件で、許されるものではありません……』
 家ではいつも不愛想で偉そうにふんぞり返っているだけの父親が、『誠に遺憾』等とテンプレートな発言をして、市長らしく語っている。
 父親が『息子が被害に……』と語り始めたところで、気分が悪くなりテレビを消し
 た。
 「ねぇ、三年前の春のこと忘れても、映はお母さんを見捨てないよね?」名刺を探す手を止めて、母親がこっちを振り返っている。
 父親の会見で一瞬気がそがれていたけれど、こっちにも地獄があるんだった。
 母親の脅すような言葉に、俺は石のように無表情になる。
 「映がいなかったら、本当にこの家にお母さんの味方はいなくなっちゃうんだからね。
 ひとり暮らしなんて許さないから」
 「……大学は家から新幹線で通う。約束は守る」
 「就職先も絶対こっちで決めるのよ。憲文さんが選んでくれるわ」
 最後の言葉は聞かなかったことにしたかったけれど、「ああ」と低い声で頷く。
 俺の生返事をよそに、目を血走らせながら弁護士の名刺を見つけだした母親は、すぐにスマホを取り出して本当に電話をかけ始めた。
 今しかないと思った俺は、そっとリビングを後にし、自分の部屋へ逃げる。
 階段を昇り自室のドアを開けると、まず大きなPCモニターが目に入った。
 暗い部屋の中で青い光を放っているその場所に、吸い込まれるように着席する。
 すぐさま音楽制作に欠かせないソフトウェアを立ち上げた。脇のデスクには、曲を打ち込む用のキーボードや、やたらとごついスピーカーが供えつけられている。
 ソフトウェアを立ち上げた俺は、デスクに置いていた黒いヘッドフォンを頭につけて、途中まで作っていた曲を流した。
 音が鼓膜を震わせた瞬間、俺はうるさすぎる外界と完全に分断される。
 俺が、唯一生きていると感じることができるのは、音楽を聴いているか、作っているときだけだ。
 みるみるうちに安心感が広がり、頭の中にメロディーが溢れ出てくる。
 作曲を始めたのは、中学生になったときのこと。
 有名な作曲家である叔父の自宅に招かれたときに、気まぐれで音楽制作の流れを教えてもらったことがきっかけだった。
 もう使わないからと古い機材を一式譲り受けてから、世界は一気に変わった。
 「……誰も……入って来るな」
 ヘッドフォンを手で両耳に押さえつけると、丸めた腹の底から低い声が漏れた。誰も入って来るな。たったひとつしかない、俺の安全なこの場所に。
 取り乱した母親から流れ出ていたどろどろとした所有欲を、一刻も早く洗い流したい。なかったことにしたい。
 俺は手当たり次第に過去のフォルダを開いて、曲を流し続けた。
 「あ……」
 そのとき、シャッフル再生で、中学生の頃に作った曲が流れてきて、一気に頭の中がクリアになった。
 とても上手とは言えない、かなり子供っぽく拙いメロディーだ。
 でもこの曲には、忘れられない思い出がある。
 そうだった。記憶がなくなるのであれば、この曲もただ初期に作られた駄作となるのだ。
 今更そんなことに気づいた俺は、大きな喪失感に襲われ、力なくアームチェアに背中を預けた。
 そして、ヘッドフォンを外して首にかけ、現実の世界に戻る。
 今朝、事件について聞かされたとき、皆が感情を取り乱して騒ぐ中、まっすぐ黒板を見据えていた〝彼女〟のことを思い出した。
 俺の、たったひとつのある感情を、彼女だけがすべて握っている。
 人生のほとんどをやり直したいと思っている俺が、唯一忘れたくないと思っている過去に、彼女がいる。それさえ忘れてしまうことに気づき、感情が一気に絶望に傾いていった。
 「……明日、話しかけよう」
 ずっと、そばで見守るだけでいいと思っていた。
 けれど、あの記憶ごと消されてしまうのなら。
 俺はひとつ心に決め、そっと瞼を閉じた。