その一月後。記録的大雨の夜だった。
大荒れの天気が原因で、俺の体調も良くなくて、久しぶりに喘息の発作を起こした。
苦しいなか、なんとか薬を吸入し、ソファーに身体を預ける。気圧のせいだろうか、頭もずきずきと痛んだ。
目を閉じると、なぜだかひどい不安に駆られる。嫌な予感、虫の知らせ。そんな言葉が頭を過ぎる。
スマートフォンが震える。美海の父からの電話だった。
やけに冷えた手で通話のボタンをタップする。低く震えた声が、美海の病態の急変を告げた。
病院に辿り着く頃には、美海の意識はすでになく、血圧も低下していた。
痩せ細った指から外れてしまったのか、指輪が床に転がっているのを見つけた。拾いあげようとしてもなぜか何度も落としてしまい、見かねた父が代わりに拾ってくれた。どうやら手が震えているらしい、と気づいたときに、ようやく俺は気がついた。
美海が死ぬかもしれない。このまま意識が回復することもなく、お別れのときを迎えてしまうかもしれない、ということに。
身体がひどく震えた。指輪と一緒に美海の手を握りしめて、名前を呼び続けた。
美海は死んだ。意識を取り戻すことはなかった。
最後に美海とした会話を思い返す。
『美海、ゼリーとプリンならどっちが食べたい?』
『桃のゼリーかなぁ。大きい桃が入ってるやつ!』
『じゃあ明日は桃味のちゅーだ』
『なぎちゃんのばーか! 気をつけてね、またあした』
『うん。またあした』
どこにでもある、何気ない会話。
いつ最後の日になってもいいように、心構えはしていたつもりだった。それでも生まれてくる後悔の波に、俺はへたり込んだ。
帰るとき、最後にキスをすればよかった。
愛してるよ美海って、ちゃんと言えばよかった。
お守りの指輪が指から外れていないか、しっかり確認すればよかった。
ぼろぼろと泣き崩れて、その後の記憶は曖昧だ。気付いたらお葬式まで終わっていて、美海は遺影の中で笑っていた。お姫様抱っこをしたときに見せた、とびっきりの笑顔だった。
骨壷の中に、結婚指輪を入れてもらった。今度こそ美海のそばを離れるなよ、と心の中で呟いて、静かに目を閉じた。
まぶたの奥では、美海が笑っている。なぎちゃん! と呼ぶ声が、鼓膜を揺らす気がする。全て気のせいだ。二度と戻ってこない。そう分かっているのに、頭がぐらぐらと揺さぶられているようで、ひどく苦しかった。
「凪斗くん、今日はありがとう」
「いえ………………なにも、できなくて…………」
喪主である美海の父が声をかけてくれたのに、意識がぼんやりしてまともに受け答えすらできない。
美海がいなくなって、俺の世界は欠けてしまったのだろう。そしてこれはきっと、取り返しがつかない。
呆然と立ち尽くす俺に、おじさんは見覚えのあるノートを差し出した。やりたいことリストを書き出していた、あのノートだ。
「生前、美海の願い事をたくさん叶えてくれてありがとう。あの子の父として、本当に心から感謝しています」
「そんな…………」
言葉が続かない。頭が回らなくて、何も話せない。逃げるように目線を落として、ノートをめくる。最後のページに、見覚えのない文章が書かれていた。
結城凪斗くん。
私を、結城美海にしてくれてありがとう。
寝る前の約束、ずっと忘れないでね。
世界一周した後の約束も、ちゃんと守ってね。
なぎちゃんのおかげで、幸せだったよ。
でも本当はもっと一緒にいたかった。
ずっとそばで生きていたかった。
だから約束、忘れないでね。
私を寂しくさせないでね。
一人で泣いたりしないでね。
大好きだよ。
あなたの美海ちゃんより。
瞬間、何かが壊れたように、その場に崩れ落ちた。おじさんが慌てた様子で俺の背中をさすりながら、優しい声で語りかける。
「そのノートは、凪斗くんが持っていてくれないかな。その方が、美海も喜ぶだろうから」
止まらない涙を拭くこともなく、ただただ頷き続ける。ありがとうございます、とかすれる声で呟いて、ノートを抱きしめると、美海が耳元で笑った気がした。大好きだよ、なぎちゃん、と。
俺は泣きじゃくりながら、なんとか言葉を紡ぎ出す。
美海、愛してるよ。
その言葉が、どうか姿の見えない彼女に届きますように。そう強く願いながら。