その会話を聞いたのは偶然だった。

 美海が検査で病室にいなかったので、院内を散歩して歩いていた。病棟は意外と広いので、上下左右全ての階段と廊下を歩こうと思うと、結構な運動になるのだ。
 幼い頃は、ほんの少し動いただけでやれ発作だ、今度は熱だ、と大変だった。喘息の発作は本当にしんどくて、毎回死んでしまうのではないかという恐怖に駆られる。
 でも嬉しいことに、最近は体力がついてきた。学校にも少しずつ通えるようになってきたし、調子がよければ体育の授業に参加することもあった。
 自分は恵まれている、と思う。確かに人より身体は弱く、喘息の発作で苦しむこともある。それでも、成長するにつれて少しずつ、求めていた自由な生活に手が届くようになってきたのだった。

 幼い頃から想いを寄せてきた、笑顔のかわいい彼女を思い出す。美海の検査の結果はどうだろう、そこまで考えたところで、ふいに俺は振り返った。今し方通り過ぎた病室から、知った名前が聞こえてきたのだ。

「レンの新しい彼女ってどんな子? 病院で知り合ったんでしょ?」
「んー、美海ちゃんって言うんだけど、なんつーか、ちっちゃくてかわいいみたいな?」
「えー意外! あんたのタイプとは正反対じゃん!」

 声の主は、きっと美海が最近付き合い始めたという例の彼氏なのだろう。確か、足の骨折で入院している……村上。
 そっと病室を覗き込むと、スカートの短い女子高生が三人、一つのベッドを囲んでいた。見舞いに来るのが女子ばっかり、というのも気に入らない。何より、ベッドの上で楽しそうに話すその男が、整った顔立ちをしているのはもっと気に食わない。
 顔が良くて、スポーツも自由にできて、健康な身体がある。それだけで、十分すぎるだろ。その上かわいい彼女まで欲しがるなよ、こちとら十年前から片想いをしてるんだぞ。
 俺は散歩の休憩をするふりをして、病室のドア近くの廊下に寄りかかる。盗み聞きなんて趣味が悪いかもしれない。でもだったらなんだよ。なりふり構ってられないんだよ、こっちは。

「あーあ、レンの次の彼女は絶対あたし、って思ってたのになぁ」
「ははっ、じゃあミヅキ、予約しておく? 次の彼女」
「えーなにそれずるーい!」
「レン、付き合い始めたばっかりじゃないの?」

 ふざけた会話に、苛立ちが募っていく。
 どうして美海はこんな軽い男と付き合おうと思ったんだ。

「だってほら、なんかロマンあるじゃん? 病気の彼女と付き合ってて、その子が死にましたーってなったらさ」

 その瞬間、きっと頭に血がのぼってしまった。俺は無我夢中でその男に殴りかかり、整った顔に思い切り一発くれていた。
 周りにいた女子達の悲鳴のせいか、はたまた誰かがナースコールを押してくれたのかは分からない。
 気がつけば、看護師達に取り押さえられていた。

「…………な、なんだよこいつ、頭おかしいだろ! 急に殴りかかってきたんだぞ!?」
「うるせえよ! 美海に謝れ! 今すぐ頭下げてこいよ!! そんで二度と近づくな!!」

 無茶苦茶なことを言っている自覚はあった。でも、口からこぼれていく罵倒の言葉は止まらなかった。

「謝れ! 美海の大切な時間、一分一秒でも無駄にしたこと、一生反省しろよ!!」

 村上は、ひいていた。
 到底理解の及ばない、頭のおかしいものでも見るかのような目で、俺を見つめていた。
 どんなにひかれようが、気味悪がられようが、どうでもいい。そんな些細なことよりも、美海を、美海の命を軽んじたことを、目の前の男に後悔させてやりたかった。