──10年後。

呼び出されたカフェで、コーヒーを飲む。ミルクも砂糖も要らないなんて、すっかり僕も大人になった。勢いよく扉を開けて紗希が店に入ってくる。相変わらず騒がしいやつだ。
「葵大、久しぶり!最後に会ったのいつだっけ?」
「紗希も。変わらないな」
「葵大こそ大活躍ね!夢叶えてさ」
「まだまだ、これからだよ」
僕はあれから役者の道に進んだ。憧れた俳優の所属する事務所に手紙を送って、その俳優の付き人 になり経験を積ませてもらった。役者のイロハを学び、ようやく芽が出てきた所だ。最近では舞台だけじゃなく、ドラマや映画なんかにも出させてもらってる。橋口里佳との約束だから、僕は全てをかけて役者をやろうと決心した。
「この前の舞台、こっそり見に行ったんだよ?変わらないね、楽しそうに演じるのはやっぱり葵大の良さだよ」
「なんだよ、言ってくれたら招待したのにさ。それで?紗希は今なにやってんの?」
「実は今日はその話をしに来たの」
「え?何の話し?」
「私ね、今脚本家になったの。今度のドラマの企画に出そうと思ってる作品がこれ。この中の物語」
それは見覚えのあるノートだった。机の上に数冊並んだキャンパスノート。
「それは···」
「うん。里佳の小説。脚本に起こして採用されたら、私は葵大を主役に推したいと思ってる。脚本家の意見がどこまで通るか分かんないけど、監督を説得しようって思ってる。だってさ···」
「彼女の夢だから···?」
「うん。ふたりの夢なの。私が里佳の小説を脚本にしてドラマを撮るんだって」
「僕も約束した。彼女の作品を演じるって」
「じゃあ絶対だ。絶対にやらなきゃ。私たち3人でやることに意味がある」
「僕も、もっと有名な役者になるよ。誰もが納得できるようにさ。この役は凪良葵大じゃなきゃダメだって言わせるよ」
「それは頼もしいね」
紗希は、メロンソーダを注文する。
「あのさ、今だから聞くんだけどさ、葵大って里佳の事好きだった?」
「ちょっ···なんだよ急に」
僕は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。
「え?だってほら、もう聞いてもいいかなって」
紗希は僕の左手に光る指輪を指さして言った。
「そうだね、僕の初恋だったよ。大切な思い出だ。僕は橋口さんのおかげで純愛を知った。命の大切さと儚さを知った。生きる意味を教えてもらった。だから僕は残りの人生を精一杯に生きる。橋口さんの分までって言ったらありがた迷惑って嫌な顔されそうだけど」
紗希は穏やかな顔で頷く。
「今の彼女を大切に愛するよ。結婚しようと思ってるんだ。彼女はもっと売れてからって言うんだけどな」
「なによ、その顔···惚気けちゃって。私にもいい男、紹介してくれてもいいんだけど?」
紗希は拗ねたように、メロンソーダをごくりと飲む。
「そうだ、まだ企画って間に合うの?橋口さんの書いた最後の小説があるんだけど」
「え!知らない!どんな話?タイトルは?」

僕は優しく、こう言った。
「まだ、名前の無い物語」