あの日の一件以来、僕の演技には命が宿った。自分でもわかるくらいに調子がいい。体が勝手に動くというか、心が勝手に僕を主人公に仕立て上げる。教室でも「おはよう」と挨拶を交わし、彼女と普通に会話もできる。『無名』としての彼女も相変わらず深夜0時に更新を再開しているが、その話は敢えて話題に出していない。
全てが順調だった。3日後は文化祭だ。そんな時に、また運命は悪戯を仕掛けた。血相を変えて紗希が教室に飛び込んでくる。僕は袖を掴まれて廊下に連れ出された。
「葵大、大変だ。ヒロイン役の齋藤さん、インフルエンザだって。当日の参加も難しい···他にも何人か発熱で」
紗希は泣きそうな顔で僕に言った。
「落ち着いて···代役は?誰かできそう?」
「今から台詞入れて···誰か覚えてる子いたらいいけど女子部員も少ないからさ」
「台詞を覚えてる人、か···」
チラッと教室の中を見ると、彼女は相変わらず自分の世界をノートに綴っている。僕はごくりと唾を飲み込んだ。今から無茶なことを言おうとしているからだ。
「紗希、もうこれしか方法がないと思う。可能性は低いけど」
紗希は察したのか、大きく頷いた。
僕はまっすぐに彼女の席を目指した。スカイツリーで彼女は正確に台詞を口にしていた。それにその姿はヒロインにぴったりだった。これは僕の願望だけど、彼女ともう一度、あの会話をしたかったのだ。僕が間違えて終わってしまった即興劇の続きを、ふたりで。
「橋口さん、ちょっといいかな?」
彼女は半分泣き顔の紗希の顔を見ると、目をぱちくりさせて「どうしたの?」と心配そうに聞いた。
状況を手短に説明する。もし彼女が表舞台に立つとしたら、部員達からしたら当たり前に疑問が出るだろう。台詞を完璧に覚えているとしたら、物語を書いた人物でしか有り得ないからだ。そうすると紗希の立場が危ぶまれる。仮に紗希が脚本に直した···とすれば橋口さんが小説を書いていることが少なくとも演劇部の連中には知られてしまう。だからリスクしかないこの頼みを彼女が引き受けてくれる可能性なんて限りなく0に近い。それを承知で彼女に頭を下げた。
「それで、私にヒロイン役を?」
「部員達には僕から話す。演技だってちゃんとサポートするから。だからお願いできないかな?」
「紗希は?それでいいの?」
「私もちゃんと話すよ。今は皆で作ってきた舞台を成功させたい。その後で脚本の事はちゃんと言うよ。だけど里佳がゴーストライターだって皆に知られちゃうのは」
彼女は黙って考え込む。そして、こう提案した。
「私が書いたって知られるのはいいよ。ただ演技もしたことがない私が急に舞台で演じていいのかは部員の人の総意じゃなきゃダメ。だから今日の放課後に演劇部に行くから、一度ちゃんと見てもらってから···」
その瞬間、紗希は彼女に飛びついて大泣した。教室中に響く声で泣くもんだから、皆の視線を感じて僕は慌てて彼女を宥めた。放課後の演劇部は正に喜怒哀楽だった。橋口里佳は事の経緯を丁寧に説明し、あくまで紗希と一緒に考えた物語だと彼女を守った。納得いかなそうな部員もいたが、それから僕と即興で演じたラストシーンに部員たちからは拍手が起こった。苦労して準備してきた舞台ができる安堵感と、脚本を書いた橋口里佳にも賛辞が起きる。彼女と一緒の時間が過ごせること。休んだ部員には悪いと思っても、それが僕は嬉しくてニヤケてしまった。独りよがりな恋かもしれないけど、これが僕の初恋なんだ。少し照れながら恥ずかしそうにしている彼女が可愛くて、また見惚れてしまっている。
静寂に包まれながら、静かに舞台の幕が上がった。
彼女も卒なく演技をこなしながら順調に物語は進み、いよいよあのラストシーンだ。
「こんなに綺麗な景色が、もう見れなくなるんだね」
僕はあの日を思い出していた。目の前に東京の街が広がる。空には大きくなった月が見え、もうその時は近い。
「ねぇ、手を繋いでもいいかい?」
彼女はこくりと頷き、ゆっくりと左手を差し出した。少しひんやりと彼女の手は震えている。僕は安心させようと、強く握った。
「ほら、さっきよりも月が大きく見える。もうすぐ···」
「ねぇ、いいことを考えよう。そうだ、もし願いが叶うなら君は何を願う?まだ間に合うかもしれない」
「そうね···。私の願いか。無理だよ。運命はもう決まってる」
彼女は涙ぐみながら、台詞を口にしている。
「簡単に諦めるのかい?」
「私は生きたかった。もっと生きていたかった。君ともっと仲良くなりたかった。夢を、私も夢を叶えたい。それとね、君が夢を叶える姿を見たかった。だけどそんな欲張りは願わない。ひとつだけ、一言だけわがままを言えるなら、最後に君の気持ちを聞かせて欲しい。ねぇ、君は夢を叶えてくれる?」
──知らない台詞だ。
舞台袖の部員も驚いた顔で慌てている。紗希は呆然とこちらを見つめていた。練習では完璧だった彼女だ。おかしい。何か違和感を感じて腑に落ちないが、ここは舞台上だ。僕は何とか軌道修正を測ろうとするが、どうすればいいのだろうか。頭は混乱しているが、心には叫びたがっていることがある。
「必ず。必ず叶えるよ。この世界では無理でも、僕は必ず夢を叶える。それに、僕も君と仲良くなりたい。だって、君は僕の初恋の人なんだ」
咄嗟に、僕は君を抱きしめた。
今にも壊れそうな、細く華奢な体を強く。
「私も、好き···」
拍手にかき消されたその言葉は、泡のように弾けてしまった。体育館中に響いた拍手はいったい何を祝福しているんだろう。僕はその空気の振動の中で、違う不安に揺れていた。心臓が大きく揺れている。
つい、言ってしまった。咄嗟に告白未遂をしてしまった。だけど、僕はそれでいいのか?
今、この役をやりきった僕は無敵にさえ思える。この役が僕に憑依したのか、君を求めている。そして、現実でもやっぱり君を。
「なぁ、待ってよ」
舞台袖に降りていく彼女を急いで呼び止める。
「ごめん、緊張して、台詞間違えちゃった」
「間違えたって···」
「書き直す前の台詞。そっちを言っちゃった。ビックリさせてごめんね!でも流石だ。即興で合わせてくれて。助かったよ、ありがとね」
「なんだよ···焦ったじゃん」
「紗希にも謝らなくちゃ。それから皆にも」
すぐに僕から逃げようとする彼女を慌てて制止した。
「ちょっと待ってよ」
僕は咄嗟に彼女の細い手首を掴んでしまった。
「えっ···?」
驚く彼女に、僕は間髪入れずに胸の内を吐き出した。
「あの答えは、僕の本心だ。紛れもなく僕の心の声だ。だから君の気持ちも聞かせて欲しい」
「私は、凪良君と舞台が出来て楽しかったよ」
「違う、そうじゃなくて。だから、月じゃなくて、恋に堕ちたんだ。僕が君に」
──それは一番聞きたくなかった言葉だ。
でも私だってズルい。間違えた台詞のせいにして、君に本音を伝えたんだ。自己満足のヒロインを演じたの。
私も言いたい。素直に言えるんなら言いたいよ。
「君が好きなんだ」って。恋愛感情なんて、一番最初に諦めたはずだったのに。わたしに死にたくないって思わせないでよ。私にも君にも悲しい未練なんて残したくないんだよ。だったらね···。
「ごめんなさい。私は、凪良君は友達と思ってるから」
彼女は表情を変えずに僕にそう告げた。
当たり前だろう。僕だけがフルスロットルで君に恋に堕ちた。まだ知り合って間もないし、納得いってる。だけど気持ちは抑えられないくらいに、全部君だ。
「ありがとう、それで今は十分嬉しい」
僕の精一杯の強がり。
でも、ここから始めればいい。
友達からでも、僕の気持ちは変わらない。
君が好きって気持ちは暫くは消えない。緊張で乾いた喉に一気にスポーツドリンクを流し込んだ。
「ねぇ、最後の台詞って···」
紗希が僕の傍に来て彼女の背中を見ながらそう言った。
「修正前の台詞って言ってたけど···」
「そうなんだ。私ねちょっとだけ、不安に感じちゃったんだ。なんか里佳が遠くに行っちゃうような、そんな不安。この小説を見た時から何か違和感があってさ···里佳の本心が分からなくて」
それには僕も同意した。彼女は全く本心を見せない。
だけど、思春期の僕は、それから彼女に遠慮をするようになった。僕の一挙手一投足や言葉が、君との僅かな希望を削ぎ落としてしまったらと臆病になったからだ。あんなに前向きだった気持ちも、強がっていた気持ちも、見えない壁に弾き返されるみたいに消沈していった。彼女と簡単な挨拶を交わすのが精一杯で、君は相変わらずノートに夢中だし。僕はそんな君を見つめることしか出来ずにいた。君は本音を隠すのが上手だから。僕には何も分からないんだ。
そして、僕らは高校3年生になった。
クラスも変わって、君は僕の手の届かないところに行ってしまったんだ。
──友達ってどうしたらいいんだろう。どこまでが友達なんだろう。全てを知ってるのが友達なのか、挨拶を交わすだけでも友達なのか。ねぇ、君の言う友達って何だったんだろう。君は僕に何を求めていたんだろう。
全てが順調だった。3日後は文化祭だ。そんな時に、また運命は悪戯を仕掛けた。血相を変えて紗希が教室に飛び込んでくる。僕は袖を掴まれて廊下に連れ出された。
「葵大、大変だ。ヒロイン役の齋藤さん、インフルエンザだって。当日の参加も難しい···他にも何人か発熱で」
紗希は泣きそうな顔で僕に言った。
「落ち着いて···代役は?誰かできそう?」
「今から台詞入れて···誰か覚えてる子いたらいいけど女子部員も少ないからさ」
「台詞を覚えてる人、か···」
チラッと教室の中を見ると、彼女は相変わらず自分の世界をノートに綴っている。僕はごくりと唾を飲み込んだ。今から無茶なことを言おうとしているからだ。
「紗希、もうこれしか方法がないと思う。可能性は低いけど」
紗希は察したのか、大きく頷いた。
僕はまっすぐに彼女の席を目指した。スカイツリーで彼女は正確に台詞を口にしていた。それにその姿はヒロインにぴったりだった。これは僕の願望だけど、彼女ともう一度、あの会話をしたかったのだ。僕が間違えて終わってしまった即興劇の続きを、ふたりで。
「橋口さん、ちょっといいかな?」
彼女は半分泣き顔の紗希の顔を見ると、目をぱちくりさせて「どうしたの?」と心配そうに聞いた。
状況を手短に説明する。もし彼女が表舞台に立つとしたら、部員達からしたら当たり前に疑問が出るだろう。台詞を完璧に覚えているとしたら、物語を書いた人物でしか有り得ないからだ。そうすると紗希の立場が危ぶまれる。仮に紗希が脚本に直した···とすれば橋口さんが小説を書いていることが少なくとも演劇部の連中には知られてしまう。だからリスクしかないこの頼みを彼女が引き受けてくれる可能性なんて限りなく0に近い。それを承知で彼女に頭を下げた。
「それで、私にヒロイン役を?」
「部員達には僕から話す。演技だってちゃんとサポートするから。だからお願いできないかな?」
「紗希は?それでいいの?」
「私もちゃんと話すよ。今は皆で作ってきた舞台を成功させたい。その後で脚本の事はちゃんと言うよ。だけど里佳がゴーストライターだって皆に知られちゃうのは」
彼女は黙って考え込む。そして、こう提案した。
「私が書いたって知られるのはいいよ。ただ演技もしたことがない私が急に舞台で演じていいのかは部員の人の総意じゃなきゃダメ。だから今日の放課後に演劇部に行くから、一度ちゃんと見てもらってから···」
その瞬間、紗希は彼女に飛びついて大泣した。教室中に響く声で泣くもんだから、皆の視線を感じて僕は慌てて彼女を宥めた。放課後の演劇部は正に喜怒哀楽だった。橋口里佳は事の経緯を丁寧に説明し、あくまで紗希と一緒に考えた物語だと彼女を守った。納得いかなそうな部員もいたが、それから僕と即興で演じたラストシーンに部員たちからは拍手が起こった。苦労して準備してきた舞台ができる安堵感と、脚本を書いた橋口里佳にも賛辞が起きる。彼女と一緒の時間が過ごせること。休んだ部員には悪いと思っても、それが僕は嬉しくてニヤケてしまった。独りよがりな恋かもしれないけど、これが僕の初恋なんだ。少し照れながら恥ずかしそうにしている彼女が可愛くて、また見惚れてしまっている。
静寂に包まれながら、静かに舞台の幕が上がった。
彼女も卒なく演技をこなしながら順調に物語は進み、いよいよあのラストシーンだ。
「こんなに綺麗な景色が、もう見れなくなるんだね」
僕はあの日を思い出していた。目の前に東京の街が広がる。空には大きくなった月が見え、もうその時は近い。
「ねぇ、手を繋いでもいいかい?」
彼女はこくりと頷き、ゆっくりと左手を差し出した。少しひんやりと彼女の手は震えている。僕は安心させようと、強く握った。
「ほら、さっきよりも月が大きく見える。もうすぐ···」
「ねぇ、いいことを考えよう。そうだ、もし願いが叶うなら君は何を願う?まだ間に合うかもしれない」
「そうね···。私の願いか。無理だよ。運命はもう決まってる」
彼女は涙ぐみながら、台詞を口にしている。
「簡単に諦めるのかい?」
「私は生きたかった。もっと生きていたかった。君ともっと仲良くなりたかった。夢を、私も夢を叶えたい。それとね、君が夢を叶える姿を見たかった。だけどそんな欲張りは願わない。ひとつだけ、一言だけわがままを言えるなら、最後に君の気持ちを聞かせて欲しい。ねぇ、君は夢を叶えてくれる?」
──知らない台詞だ。
舞台袖の部員も驚いた顔で慌てている。紗希は呆然とこちらを見つめていた。練習では完璧だった彼女だ。おかしい。何か違和感を感じて腑に落ちないが、ここは舞台上だ。僕は何とか軌道修正を測ろうとするが、どうすればいいのだろうか。頭は混乱しているが、心には叫びたがっていることがある。
「必ず。必ず叶えるよ。この世界では無理でも、僕は必ず夢を叶える。それに、僕も君と仲良くなりたい。だって、君は僕の初恋の人なんだ」
咄嗟に、僕は君を抱きしめた。
今にも壊れそうな、細く華奢な体を強く。
「私も、好き···」
拍手にかき消されたその言葉は、泡のように弾けてしまった。体育館中に響いた拍手はいったい何を祝福しているんだろう。僕はその空気の振動の中で、違う不安に揺れていた。心臓が大きく揺れている。
つい、言ってしまった。咄嗟に告白未遂をしてしまった。だけど、僕はそれでいいのか?
今、この役をやりきった僕は無敵にさえ思える。この役が僕に憑依したのか、君を求めている。そして、現実でもやっぱり君を。
「なぁ、待ってよ」
舞台袖に降りていく彼女を急いで呼び止める。
「ごめん、緊張して、台詞間違えちゃった」
「間違えたって···」
「書き直す前の台詞。そっちを言っちゃった。ビックリさせてごめんね!でも流石だ。即興で合わせてくれて。助かったよ、ありがとね」
「なんだよ···焦ったじゃん」
「紗希にも謝らなくちゃ。それから皆にも」
すぐに僕から逃げようとする彼女を慌てて制止した。
「ちょっと待ってよ」
僕は咄嗟に彼女の細い手首を掴んでしまった。
「えっ···?」
驚く彼女に、僕は間髪入れずに胸の内を吐き出した。
「あの答えは、僕の本心だ。紛れもなく僕の心の声だ。だから君の気持ちも聞かせて欲しい」
「私は、凪良君と舞台が出来て楽しかったよ」
「違う、そうじゃなくて。だから、月じゃなくて、恋に堕ちたんだ。僕が君に」
──それは一番聞きたくなかった言葉だ。
でも私だってズルい。間違えた台詞のせいにして、君に本音を伝えたんだ。自己満足のヒロインを演じたの。
私も言いたい。素直に言えるんなら言いたいよ。
「君が好きなんだ」って。恋愛感情なんて、一番最初に諦めたはずだったのに。わたしに死にたくないって思わせないでよ。私にも君にも悲しい未練なんて残したくないんだよ。だったらね···。
「ごめんなさい。私は、凪良君は友達と思ってるから」
彼女は表情を変えずに僕にそう告げた。
当たり前だろう。僕だけがフルスロットルで君に恋に堕ちた。まだ知り合って間もないし、納得いってる。だけど気持ちは抑えられないくらいに、全部君だ。
「ありがとう、それで今は十分嬉しい」
僕の精一杯の強がり。
でも、ここから始めればいい。
友達からでも、僕の気持ちは変わらない。
君が好きって気持ちは暫くは消えない。緊張で乾いた喉に一気にスポーツドリンクを流し込んだ。
「ねぇ、最後の台詞って···」
紗希が僕の傍に来て彼女の背中を見ながらそう言った。
「修正前の台詞って言ってたけど···」
「そうなんだ。私ねちょっとだけ、不安に感じちゃったんだ。なんか里佳が遠くに行っちゃうような、そんな不安。この小説を見た時から何か違和感があってさ···里佳の本心が分からなくて」
それには僕も同意した。彼女は全く本心を見せない。
だけど、思春期の僕は、それから彼女に遠慮をするようになった。僕の一挙手一投足や言葉が、君との僅かな希望を削ぎ落としてしまったらと臆病になったからだ。あんなに前向きだった気持ちも、強がっていた気持ちも、見えない壁に弾き返されるみたいに消沈していった。彼女と簡単な挨拶を交わすのが精一杯で、君は相変わらずノートに夢中だし。僕はそんな君を見つめることしか出来ずにいた。君は本音を隠すのが上手だから。僕には何も分からないんだ。
そして、僕らは高校3年生になった。
クラスも変わって、君は僕の手の届かないところに行ってしまったんだ。
──友達ってどうしたらいいんだろう。どこまでが友達なんだろう。全てを知ってるのが友達なのか、挨拶を交わすだけでも友達なのか。ねぇ、君の言う友達って何だったんだろう。君は僕に何を求めていたんだろう。