泡沫の恋だった。
その運命の流れに儚く浮かぶ君を、僕は両手でそっとすくい上げることしかできなかった。強く抱き締めたら、君は割れて消えてしまうような気がしたんだ。
僕は命の儚さを、思い知った。

高校の文化祭で演じる舞台の台本を放り投げ、凪良葵大(なぎらあおと)はベットに倒れ込んだ。台本と言ってもA4サイズの紙がクリップで止められただけの簡単なものだ。もう何度も読み返し、しわくちゃになっている。僕の夢は役者になること。でも誰にも言っていない。夢の始まりは小さなもので、幼稚園のお遊戯会で主役を演じたこと。それが楽しくて親に我儘を言って児童劇団にも入れてもらった。僕じゃない誰かを演じるのが面白くてしょうがなかった。台詞入れなんて得意中の得意。きっと自分には才能があるのだと疑わなかった。周りには「習い事で仕方なく⋯」なんて言ってたけど、寝る時間を削っては台詞を覚えて人知れず努力をしていた。

一応、今もそれくらいにはやる気はある。

子役のオーディションを数回受けてはみたが、現実は甘くない。僕はそんなに強い人間じゃなかったみたいだ。成功を勝ち取るには努力は必要不可欠で、それも中途半端な努力じゃなくて本気のやつ。僕のやってきた努力は人並みかそれ以下。それじゃ結果なんて出るわけが無い。だけど演じる楽しさは今でも変わらないから、高校でも演劇部に入った。楽しむくらいがちょうどいいと思いつつも、くすぶってはいるが役者になる夢は捨てられずにいる。
床に落ちているくしゃくしゃに丸まった紙をベットの上から手を伸ばして拾う。提出期限が明日までの進路希望調査だ。大学受験まで残り1年と少し。大学には行かず本気で役者を目指してるなんて言ったら周りに馬鹿にされるだろうし、現実を見ろと言われるのがオチだ。だから、僕は悩んでいた。最初は「やりたいことをやればいい」と言っていた親からでさえ、最近は「大学くらいは出ておけ」と言われる。心配する理由も分からなくは無い。だけど、親世代と今は時代が違うんだ。大学を出るだけが全てじゃない。学力だけが人生じゃない。そんな言い訳がましい僕の態度が、きっと無気力に見えるんだろうな。 やりたいことが無いんじゃない。叫びたくても叫べないから黙っているだけ。そんな本音を上手く隠した僕の演技はなかなかのもの。だけど、現実は騙されてくれないから無難な進路を書いてその場を凌ぐか、勇気をだして「役者になる」とカミングアウトして、そんな現実と戦うか。思春期ってやつは考えなきゃいけないことが山ほどだ。

「いっそ、地球ごと消えてしまったら楽なのになぁ⋯めんどくさ」
また進路希望調査をクシャッと丸め、台本を手に取る。
夏休み明けすぐに、脚本担当の藤間紗希(ふじまさき)から渡された『月が、堕ちる。』とタイトルの付けられた舞台劇は、月が地球に堕ちてくるまでの残された30日をどう生きるか?と、メッセージ性のあるなかなか本格的なものが仕上がってきた。部内でもその内容に最初こそ感嘆の声が出たが、いざ配役になると、皆尻込みをした。
「主役は凪良君、どうかな?」
偉大な決定権のある紗希の声に、部員たちもすがるようにこちらを見る。
「凪良君、演技の経歴も長いでしょ?児童劇団にも所属してたんだし、きっといい舞台になると思うの」
紗希はごめんねという顔で僕を見つめる。紗希とは児童劇団からの付き合いだ。
「じゃあ、演じさせてもらいます」
僕の声に一斉に拍手が沸き起こった。
僕が主役に抜擢されたのは嬉しいが、やはりこの役はかなり難しい。人類に突きつけられた突然の余命宣告。さっきはつい、地球ごとなくなったらなんて言ったが、いざその時の心情なんてまるで想像がつかない。ずっと遠くにあって、僕とは縁遠い話だ。
僕の祖父母なんて今だに放っておいても100歳まで生きそうな勢いで元気だし、うちの家だけの平均寿命を算出しても、90歳を軽く超える。実際、僕も普通にそれくらい生きると思っているし。
皆そうじゃないのか?しかし、紗希はまるで自分が余命宣告でもされたかのような文章を書く。そんな事を考えているうちに、時計の針は並んで天辺を指そうとしている。
慌てて部屋の照明を落とし、世界から僕を遮断した。
真っ暗な部屋の中で、スマホの液晶だけが僕の顔を照らしている。
うつ伏せで布団を頭から被り、亀みたいな格好でスマホを構えるとお待ちかねの時間が始まる。きっちり深夜0時に更新されるweb小説を楽しみにしているのだ。読書と言うと堅苦しいが、スマホで読めるWeb小説は僕の数少ない趣味だ。その中でもお気に入りの『無名』と言う作家が綴る世界観にすっかり魅了され、その作家の作品を全部読んだ。僕が密かに小説家デビューを願っている1人だ。性別も年齢も分からないけど、そんな事は気にしない。好きなことを全力で、そしてちゃんと形にしている『無名』に僕は勇気を貰っているのだ。

「帰りのホームルームで進路希望調査を集めるからな。ちゃんと準備しとけよ」
朝のショートホームルームで担任の佐藤は皆に釘を刺した。担任が教室を出ていくと、一斉に周りでざわざわと進路の話が始まった。
「お前、どこの大学書いた?」
「うわー、マジ?自分の成績表見たことあるか?」
「私は専門学校かな。美容師になりたいの」
「私も!ねぇどの専門学校にするの?一緒にしようよ」
四方から未来への期待の声が聞こえてくる。
「凪良は志望校どこ?」
「あー⋯僕はまだ考え中で」
「なんだよ、つまらないな。おい、高橋!お前どこ書いた?」
確かにつまらない。みんな本当にそれがやりたいことなのか?何となくで選んだ未来に満足できるのか?と、僕の頭に皮肉が並ぶ。
仕方なしに持ってきた皺くちゃな紙にとりあえず名前だけ書いた。すると僕のため息と同時に、バサッと隣の席の橋口里佳の机に積まれた教科書が落ちた。彼女は真っ直ぐにノートを見つめて何かを書いている。朝から勉強なんて、物好きなもんだ。
「ほら、落ちたよ」
僕は足元に落ちた教科書と、それから白紙の進路調査票を拾い上げて彼女に差し出した。
「あー、ごめん。気が付かなかった。ありがとう」
ニコッと笑った彼女の笑顔とは裏腹に、白紙の紙が妙に気になってしまった。僕はあまり話したことは無いが、彼女は男子に意外と人気がある。儚げで透明感のある肌に、艶のあるロングヘアーが純情そうで守ってあげたくなるタイプなんだそうで。そんな雰囲気を裏切らないように、授業中の彼女も熱心にノートを書いている。僕の中でもかなりの優等生のイメージだ。だから彼女の進路はとうに決まっていると思っていた。有名な私立大学とか似合いそうだもんな。そんな目標があるから、つまらない授業でも熱心に聞いているんだと思っていた。
「これ、白紙だけど⋯進路は決まってるんじゃ?」
「うん。決まってるよ?でも書く必要ないかなって」
また彼女はニコッと笑って、僕の手から教科書と白紙の紙を受け取った。
「なんだよ。仲間だと思ったのに」
僕は皺くちゃな紙をひらひらと見せる。
「まだいるんだね、貰ったプリント用紙をカバンの中でぐちゃぐちゃにしちゃう人⋯クリアファイル余ってるのあげようか?」
彼女は大きな目を輝かせながら悪戯に笑った。
「ほっといてよ。決まってるなら書かないと。担任にしつこく言われるぞ」
「大丈夫よ。先生には言ってあるから」
「そっか。ならいいけど」
彼女のあっけらかんとした態度に、少しだけ嫌な感じがした。僕との間に壁を作られた気がしたのだ。同じ白紙仲間じゃなく、君とは違うからと分別されたような。落ちない位置に教科書をきちんと置くと、また彼女はノートに筆を走らせる。まだ、僕はそんな彼女から目が離せないでいる。
「まだ何か?」
僕の視線が気になるのか、彼女は怪訝な顔でこっちを見た。
「あっ、ごめん。そんなに熱心に勉強してて、何か目標があるんだろ?そーゆーのいいなって⋯なんか羨ましいなって」
「凪良君には無いの?やりたいこと」
「⋯特にないかな」
「へー。つまんないね」
「つまんないって⋯」
「だって凪良君には未来があるでしょ?いくらでもやりたいことやれるのにさ。欲も出さずに諦めてるのって、つまんないじゃん」
「そりゃそうだけど⋯」
「凪良君は命懸けでやりたいことやっても、死にはしないんだから。今やらなきゃ後悔してからは遅いよ?」
「死ぬなんて⋯大袈裟な。たかが目標だろ?」
「そうね。たかが目標。時間の無駄ね」
ムッとして言い返してやろうと思ったが、彼女はお構い無しにもうノートに顔を向けていた。だけどカリカリとペンの音が強くなった。不機嫌そうに彼女は何かを書き殴っている。
引っ掛かるのは、なぜあんなにムキになって僕に言ったのか。自分が周りに思う「つまらない」と今、僕が言われた「つまらない」は多分同じ意味。だけど彼女は皮肉ではなく、哀れみの感情を込めて僕に言った。進路の話で盛り上がる教室の喧騒の中で、僕たちだけが冷めきっていた。僕たちじゃない。僕だけだ。彼女は騒がしい声に耳も貸さず、見ているのは自分の未来の為のノートだけだもんな。
結局、何も書かずに出した進路希望調査の皺くちゃ加減に担任は眉をひそめたから、職員室に呼び出されるのは時間の問題だろう。挨拶が終わると僕は一目散に教室を飛び出した。部室に向かう途中、頭をすぐに切り替える。今の僕はあと30日で地球が滅亡する運命の高校生だ。進路なんて無縁。じゃあ、何をする?残りの時間を、どう過ごす?お前は進路希望調査に何て書くんだ?
現実の思考が入ってくる様じゃ、まだ役に入り込めていない。それが僕にはストレスだ。
「葵人、お疲れ様」
紗希が後ろから声を掛けてきた。
「お疲れ!なぁ、聞きたいんだけどさ」
「何?私の進路?私はね⋯」
「違う。進路はどうでもいいんだけど⋯って違う。このどうでもいいってのは今はって話で、興味が無いって意味のどうでもいいじゃなくて。今は舞台のことで頭がいっぱいで」
「はいはい。昔からそうだもんね。それで?何が聞きたいの?」
「紗希は何であの脚本にしたの?すげーいい脚本で面白い。だけど30日後に死ぬって、その感情が僕はわからない。紗希はどんな感情で書いたの?」
「え?えっと⋯」
意外な反応に少し疑問を感じた。
「ちゃんと役を演じたいから知りたいんだ。ひとりで台詞の練習しても気持ちが乗らないって言うか」
「あー⋯」
「えっと、作者がその反応じゃ困るんだけど」
紗希は顔を顰めて、何やら悩み出した。
「何だよ、まさか盗作?」
「違うわよ。完全にオリジナルよ」
「じゃあ何だよその顔は⋯」
紗希の顔につられて、僕も眉を顰める。長い付き合いだから分かるが、これはきっと何かを隠している時の反応だ。小さい頃から紗希は都合が悪くなると、よく顔を顰めていた。
「ほら、早く白状しろ。楽になるぞ」
「うーん。誰にも言わないって約束できる?」
「そんなことだろうと思ったよ。昔のよしみだ。秘密にする」
僕はどうせ大した話じゃないだろうと笑い飛ばした。紗希はなんで笑うのだろうと首を傾げている。
「笑う話じゃないんだけど⋯、脚本の代筆を頼んだ人がいる。だから本当の脚本家は私じゃない。別の人なの」
「えっ?だって去年のアレも⋯紗希の脚本でやったじゃんか。今年のもそれくらい完成度高いけど」
「ごめんなさい。去年も⋯、代筆です⋯」
紗希は小声で白状した。別に罪に問われる話でもないし、僕からしたらやっぱり大した話じゃなかった。それより、この脚本を書いた人物が気になる。僕が知りたいのはそっちの方だ。どんな意図でその人物はあの脚本を書いたのか。作者に意図があるのなら、それをきちんと僕は理解して演じたいのだ。
「代筆はわかった。それで、この脚本を書いたのは誰?教えてくれよ」
「それはダメ。絶対!言えない。約束だから」
その慌てぶりに、本当に言えない秘密はこっちかと察しがついた。だけど、僕の探究心は納得できない。
「なんだよそれ。ここまで言っておいて⋯。ならその人に話してみてくれないか?会って聞きたいことがあるって。もちろん誰にも正体は明かさない。誰か知っても、この脚本は紗希が書いたやつって事で通すから」
「でも···可能性低いよ?それでもいい?」
「あぁ、頼む」
「わかった。伝えてみるよ」
僕の悪い癖だ。演技のことになると周りが見えなくなる。若干引いていた紗希には悪いと思いつつも、あんな素晴らしい脚本を書ける人物に興味が湧いたのだ。今回の脚本もそう。前回の脚本も紗希の書いたものだと思っていたから言えなかったが、僕はどちらの脚本も天才的だと思っている。描かれた世界観に、台詞、全てが僕にとって衝撃的だった。だからこそ、役作りを大切にしたいのだ。作者の想いを、きちんと体現するべきだと思っているから。
だけど、予想外の出来事はすぐに起こった。
僕にとっての青天の霹靂。それも、その雷に撃たれた様な衝撃。
僕は練習終わりに何気なく立ち寄った教室で、床に落ちている1冊のノートを拾った。どこにでもあるキャンパスノートに名前は書かれていない。
「誰の忘れ物だ?」
パラパラとページを捲ると、文字がびっしりと書いてある。その綺麗な文字でこのノートの主は、きっと女子のものであることは理解出来た。見てはいけないと思いつつ、僕はページに目を通す。
「あれ?これ、知ってるぞ」
その文章は、僕が夜な夜な楽しみにしている『無名』の執筆している小説だった。頭がこんがらがる。このクラスに憧れの作家が実在したこと、その原本を拾ってしまったこと。動揺と緊張で背筋がピンと伸びた。躊躇いながらも、それが誰なのかヒントはないかと、ページを捲り続ける。そして、『月が、堕ちる。』とタイトルの付いた小説を見つけた。
「これって⋯」
この冒頭の語りは、間違いなく僕が持っている台本の台詞そのままだ。まさか『無名』がゴーストライターだったなんて。困惑と興奮が半分ずつ、僕の表情を歪めた。
「それ、私のノート!」
背後から誰かの声がする。僕はごくりと息を飲んだ。振り返れば尊敬している『無名』いや、今は紗希のゴーストライターがいるわけだ。意を決してゆっくりと声の主を見る。
「返して!」
橋口里佳は真っ直ぐに僕に向かって来たかと思うと、奪い取るようにノートを取り返した。
「橋口さんが、あの脚本を?」
「中見たの?紗希に口止めしたのに⋯あー、やらかした。バレたか」
「いや、凄いよ。あんなしっかりとした脚本書けるなんて⋯それに橋口さん小説も書いてるだろ?」
僕の言葉に彼女は目を丸くして驚いた。
「真夜中に更新される君の小説をずっと読んでて⋯」
「嘘でしょ⋯そんなことある?」
彼女はそう言って呆れた様子で笑い飛ばした。
「ずっと気になってたんだ。あんな素晴らしい小説を書けるのはどんな人なんだろうって」
興奮気味に話す僕に彼女は困惑している。
「それは⋯ありがとう」
「もしかして、進路ってプロの作家に?そうだろ?もしかして小説家デビューとか?」
「違うよ、勝手に想像しないでよ」
あっさり否定する彼女に驚いた。あんなに熱心に毎晩きちんと更新するくらいだから、『無名』の目標は小説家になることだと思っていた。それに進学という選択をしない橋口里佳と重ねてみても合点がいく。小説家になる目標が、まったく無いわけじゃないだろう。
「あれだけの実力なんだから、ほら、何か賞に応募してみたら?可能性あるって!今月も募集してたろ?」
これだけムキになって言うってことは、やっぱり僕は彼女に小説家としてデビューして欲しいのだ。推している作家の成功を願うことなんて、ファンとして当たり前だし。誰でもそうするだろうし。ましてや本人が目の前にいるんだから、つい熱が入る。
「いいの。そこまで言ってくれて悪いんだけどさ。ごめん、期待しないで。それから、これは見なかったことにして。じゃあね」
彼女はノートを鞄に仕舞うと、くるりと背を向ける。
「ちょっと⋯待って」
僕の声を振り切って、彼女はさっさと帰ってしまった。
「なんだよ⋯」
腑に落ちないことばかりだ。あれだけ熱心に書いている小説の道が彼女の進路では無いのなら、あの熱量はどこに向かっているのだろう。彼女は小説に対して本気の努力が出来る人だ。僕には難しかったそれが出来る人で、夢を諦めかけていた僕の光だった。だから、僕は君に小説家になって欲しいんだ。そしたら、僕も役者への希望を見い出せるかもしれないから。

その日の深夜0時。『無名』の小説の更新は無かった。
そして次の日、橋口里佳は学校に来なかったんだ。