「古代先生には大変お世話になりました」
 まだまだ見習いの医者である僕に、深々と頭を下げて丁寧な挨拶をしてくださったのは、長いグレイヘアを頭の後ろで品よくまとめている初老の女性。
 杏莉さんのご家族だ。
「いろいろとワガママにつき合っていただいて、ほんとうにありがとうございます」
「いいえ、僕のほうこそ――」
 その人は、杏莉さんによく似た穏やかな笑顔を浮かべながら、ホッとしたようにつぶやいた。
「きっと、母も喜んでいたと思います」

――きみにとっては、はじめての看取りになるだろうから。
 杏莉さんの主治医の先生は、事あるごとに僕にそう言っていた。
――できるだけ患者の心に寄り添ってあげなさい。苦痛や悲しみにもがくことなく、安らかな気持ちであの世に旅立てるように。
 はじめは、半ば義務感で引き受けたところもあった。
 だけど……。

「もう寝たきりで、私たち子どものことについても記憶があいまいだったのに、急に元気になったと思ったら、自分は十六歳だなんて言い出して。もう九十近いっていうのに」
 杏莉さんのお嬢さんは、クスクスッと小さな笑い声を立てたあと、
「母の少女時代は戦時中で、終戦間もないころ親の取り決めで父と結婚したそうです。父は、ずっと自由奔放に生きて母に苦労をかけ通しのまま、数年前に亡くなって。だけど、母は父が生きていた間、文句ひとつ言わなくて。あれがしたいとか、誰かにこうしてほしいとか、そういうことを一言も言わない人でした。だからでしょうか、人生の最後に、ずっと心に秘めていたワガママが、ワッとあふれ出したのかもしれませんね」
 と、さみしさの入り交じった笑みを見せた。
「僕とデートしていたとき、杏莉さんはとっても元気でかわいらしい女の子のようでした。その明るいエネルギーに僕のほうが圧倒されたくらいです」
――人生の終わりに近づくとね、人はどんどん子どもの頃に戻っていくんですって。最後には赤ちゃんみたいにまっさらな心に変わるのだそうよ。
 ワガママなんてとんでもない。とっても楽しいひとときでしたよ、杏莉さん。
 遊園地でのあなたの無邪気にはしゃぐ様子。
 バニラソフトをほおばるときの笑顔。
 両手をつないで観覧車に乗ったときのときめき。
 海を見ていたときの少し切なさのただよう横顔。
 事あるごとに僕を励ましてくれた、あの明るい声。
 すべて、僕にとってかけがえのない宝物になりました。 
 
 僕のあげた淡いブルーのシーグラスは、ペンダントとなって杏莉さんと共に棺に納められたのだそうだ。

 数日後、休けい中に病院の外へ出てみると、いつの間にか付近の桜が満開になっていた。
 ふと、杏莉さんからもらったシーグラスを手に取ってみる。
 桜の花びらにも、そして涙のしずくにも似た薄いピンクのかけら。
 こうして花が咲いては散っていくのと同じように、新たな命が生まれては、その幕を閉じていく場面を、これから僕は何度も何度も目の当たりにするのだろう。
 医者として上手くやっていけるのだろうか、そんな不安がよぎるたび、自然と空を仰ぐようになった。
 この空のどこかで、白い雲に寝転んだ杏莉さんが僕を見守っている気がするから。
 
 そんなに心配しなくても大丈夫よ先生。
 あせらなくてもきっとなんとかなるわ。
 あなたには未来があるんだから。
 
 苦手だったはずのバニラソフトが、なぜかひとくちだけ食べてみたくなった。