「もっと、もっともっと、声を聞かせろ」

 男がの太い指が太ももにかかる。

「い、いや!!」
「そうだ。叫ぶんだ。その声を、その声でもっと」

 もはや男が何を言っているのか分からない。
 ただ、尋常ならざる状況に混乱したまま凍華は叫んだ。

「いやぁぁぁ!!!」

 途端、部屋が青白く光った。
 喉が焼けるように乾く。
 全身の血が冷たく凍りつくようなのに、羽が生えたかのようかに身体が軽く感じる。

 それは不思議な感覚だった。
 別の人格に身体を乗っ取られたかのような、まるで夢の中にいるようで現実味をまったく感じない。

 気づけば、凍華の手が男の喉を掴んでいた。
 細い指が太い喉に食い込むと、そのまま軽々と男を持ち上げ立ち上がる。
 腕をめいいっぱい伸ばせば、男の足は畳を離れ宙にぶらぶらと浮いた。

「うっ、く、苦しい」

 目を白黒させ、喉を震わせながら男は涎を垂らす。

「ば、化け物! 助けてくれ。目が、青く光……」
(何を言っているの? 助けて欲しいのは私のほうなのに。それに目が青いのはもとからで……)

 男の言葉を不思議に思いながら、なぜ自分はこんなに冷静なのだろうと頭の片隅で考えた。
 でも、そんな考えは、喉の渇きにすぐに霧散しる。

 指先に力を込めれば、その部分がさらに青白く光った。
 それはもう本能のようなものだった。
 凍華は口を開け……。

「出たな! 妖!!」 

 その瞬間、扉が開いてひとりの軍人が部屋に飛びこんできた。
 途端、ばらばらだった意識と身体がひとつになり、凍華の指が男の喉から離れる。
 まるで夢の中から目覚めたばかりのような感覚に襲われながら足元をみれば、男が泡を吹き転がっていた。ひっと叫び後ずさりする。

 どうして、と思うと同時に、自分が先ほどまで片手でその男を持ち上げていたことも理解していた。理解はするが気持ちが追い付かない。

「な、なに? さっきの感覚は……」

 自分が自分でないようだった。月が雲に隠れたので、部屋の中は行灯の明かりだけがゆらゆらとしている。ずっと感じていた喉の渇きも幾分か治まったようだ。

 目にかかるほどの長い黒髪の軍人は刀を抜くなり斬りかかってきた。

(殺される!)

 目を瞑ったのに、いつまでも痛みは感じない。その代わり、ひゅっと、刀が宙を斬る音が耳のすぐ横で聞こえた。

「ちっ、すばしっこいな。避けたか」
(避けた? 私が刀を?)

 そんなことできるはずがない。でも、どこも斬られていないのもまた事実であった。

 呆然としているうちにもう一度、刀が振り下ろされる。
 今度は刀筋をしっかりと見て避けた。やけに刀がゆっくり振る降ろされるように見えたことや、自分自身が驚く速さでそれを避けられたことにただただ、混乱するばかり。

 そうしているうちに、扉の向こうからさらに足音が聞こえてきた。五人ほどだろうか。その人数より足音だけで数が分かる自分が怖く、凍華は扉から離れるようにさらに窓へと近づく。

 下を見ればやけに地面が近く見え、ほぼ無意識に窓の桟に手をつき窓枠を飛び越えた。ひょい、と階段二段ほどを飛び降りるような感覚で宙に浮かぶとくるりと一回転して着地をする。

「……私、いったいどうしたの?」

 自身の考えが及ばないところで勝手に身体が動く。
 飛び降りた窓を見上げれば、「逃げたぞ!」「追え!!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
 と、そのとき。窓枠に足を掛ける男の姿が黒い影のように見えたかと思うと、男は、そのまま飛び降り凍華の前に着地した。

 土埃が舞う中、顔を上げた男は、やはり一番に部屋の中に飛び込んできた軍人だった。
 真っ黒な軍服の肩には、白い紐が二本ついており、彼が軍の中でも上位の中の階級であることを示している。胸には幾つもの勲章があり、相当の手練れのようだ。

 再び月が顔を覗かせ男の顔を照らす。
 すると、長い前髪の下、黒かった瞳が微かにだが青みを帯びていった。

「……私と同じ?」

 凍華が驚き見つめるその先で、再び月明かりが陰ると、青く見えたはずのその瞳は再び漆黒へと色を変えた。
 細く切れ長な瞳を眇め、男は剣を構える。

「狭い部屋の中では十分に動けなかったが、ここなら遠慮はいらない。安心しろ、俺はお前を殺すつもりはない」
「貴方はだれなの?」
「妖狩りだ。ずっとお前を探していた。人魚の血を引くお前をな」

(人魚? 妖? この軍人は何を言っているの?)

 よりいっそう混乱は増していく。ごくりと唾を飲む混むと、振える足を踏ん張りながら凍華は軍人に対し首を振った。

「私は人間です」
「……お前、もしかして何も知らないのか?」
「貴方が何を仰っているのか、全く分かりません」

 声を震わせながら答えれば、軍人は刀こそ降ろさないものの幾分か力を抜き、改めて凍華を見据えた。まるで値踏みするかのような視線に、凍華の歯がガタガタと鳴り始める。

「まさか……半妖か。なるほど、ではもしかしてさっき目覚めたばかりなのか」
「はんよう? 目覚める」
「お前は、人間と妖――人魚の血を引いている。そして人魚は十六歳で一人前になると、食い始めるんだ」

 何を食べるというのか、凍華の喉がごくりとなる。
 でも、それが激しい喉の渇きと関係があると言うことだけは分かった。

「奇妙な妖気の原因は理解した。しかし俺がやることはひとつ! 俺はお前を……」

 軍人は再び刀を持つ手に力を入れた。今度こそ避けられない、本能的にそう思った凍華は気づけば走り出していた。

 どこへ向かっているのか分からない。とにかく走って走って走り続ける。
 軍人は追いかけてくるけれど、追いつくことはなかった。ついてくるのが精一杯といった感じだ。

(こんなに早く走れたかしら)

 頭の片隅でそう考える余裕すらあった。
 だが、土地勘のない道は凍華の行く手を阻み、思わぬところで行き止まりなる。その度に庭をつっきり、ときには屋根の上を走るも、少しずつ軍人との距離が縮まってきた。

 このままではいつか掴まってしまう、そう思い焦りながら曲がったその先で、凍華は出会い頭に人とぶつかりよろけてしまった。
 転ぶ、と思った瞬間、力強い腕に抱き留められる。黒い羽織が目の前にあり、頭上から心地より低温が聞こえてきた。

「ほう、これは珍しい。半妖に会えるとは……」
「あ、あの! 助けてください。追われているのです」

 顔を上げた凍華の視線の先にいたのは、琥珀色の瞳をもつ男。
 銀色に輝く髪、切れ長の目、すっとした鼻梁のその男は、恐ろしいほど整った顔をしていた。
 その切れ長の目が、凍華の青い目を捕らえた瞬間大きく見開かれる。
 
「人魚? まさか、絶滅したはずでは?」

 再び聞く人魚という言葉に、凍華は男から身を離し後ずさる。

「あなたもあの軍人の仲間なの?」
「軍人? そうか、お前、妖狩りに追われているのだな」

 敵か味方か判断ができないまま、凍華は頷いた。しかし、この男を信用するわけにはいかないと踵を返し逃げようとした矢先、通りの向こうから軍人が走ってくるではないか。
 軍人は持っていた刀を振り上げると、その切っ先を銀色の髪の男に向ける。

「その女をこっちによこせ、珀弧」
「また正臣か。断る」
「なぜ、いつも俺の邪魔をする」
「お前達が見境なく妖を斬るからだ」

(二人は知り合いなの?)

 どうすればよいかと狼狽えていると、珀弧と呼ばれた男が凍華をその背に庇い、腰から刀を抜いた。

「おい、名はなんという?」
「わ、私、ですか。と、凍華といいます」

 どうやら助けてくれるようだが、凍華には二人の関係が分からない。
 それに、半妖や人魚や妖狐と混乱する言葉ばかりが入り乱れ、もはやこれが現実とは思えなかった。

「お前、生きたいか?」
「えっ?」
「生きたいかと聞いているのだ」

 唐突の質問に、咄嗟に言葉が出てこないのは、『何をしたいか』なんて楠の家では聞かれたことがなかったからだ。
 虐げられ、我慢して、耐えて、痛みを胡麻化し、傷つかないように心を殺してやり過ごしてきた凍華は、いつの間にか自分の意思を失っていた。
 生きたいという人として当然の欲望にさえ答えられないほど、自分自身をないがしろにし、ただ息をひそめ存在し続けたのだ。

「どうしたい」
「……分かりません」
「自分のことなのにか? お前がまだ誰も食っていないのは匂いで分かる。生きたいというなら助けてやる。死にたいのなら勝手にしろ」

 冷たい口調なのに、その声は暖かく耳に響いた。
 凍華を振り返る琥珀色の瞳は、優しく、すでに答えを知っているようにも思える。

「……生きたい」
「聞こえない」
「生きたい! こんな目も髪も大っ嫌いだけれど、でも、生きたい」

 叫ぶように答えれば、珀弧は切れ長の瞳を細め頷いた。そして薄い唇の端を上げ微笑む。

「俺はその透き通った海色の瞳も、柔らかな髪も綺麗だと思う」
「えっ?」
「だから生きろ」

 そういうと、改めて珀弧は軍人と向かい合った。しかし、すぐに刀を降ろし左手を翳すとあたりに靄が立ち込め始める。
 
「逃がすか!!」
 
 軍人の叫ぶ声が近くに聞こえるのにその姿はもう見えない。
 やがて、ぐるりと身体が反転したように感じ、激しい眩暈に襲われる。
 何が起きたか分からず手を宙に彷徨わせば、大きな手がそれを掴み凍華を抱きしめた。

「掴まっていろ」

 感じたことのない浮遊感と目の前景色が見えなくなる恐怖、に凍華はしがみつき、やがて意識を失った。