湯殿の扉の前には頬に傷がある男が一人座している。女将が言っていた番頭とは彼のことだろ。 
 強面の顔に屈強な身体を見て、凍華は逃げるのが不可能であることを悟った。

 ガラガラとやけに煩い音を立てる扉を開け、中に入ると震える手で帯をほどき内扉を開けた。
 もわっとした湯気の向こうに大きな湯船が見える。もう、仕事の始まる時間なのか凍華以外に誰もおらず、ガラリとした中に時折ぴちゃん、ぴちゃん、と水の滴る音が響いた。
 凍華は言われた通り、桶で湯をすくい温度を確かめるように指先で混ぜた。

「暖かい」

 温かい湯に浸かるのはいつぶりだろうか。
 生ぬるい湯の入った洗い桶だけ渡され、手拭いで身体を拭くことのほうがずっと多かった。時折湯に入るのを許させるときもあるけれど、湯気がもわもわと立ち上がる湯船に身体を沈めた記憶はもはやない。

 桶と一緒に渡された石鹸は、あとで凍華の給料から引かれるらしい。桶にしても部屋を使うにしても全てお金がかかるのが廓というものだ。

 凍華は重い気持ちで、それでも石鹸を泡立て身体を洗った。そうしなければ、あとから怒鳴られ叱られるかも知れない。
 あちこち力任せにごしごし擦り、湯を頭から被る。
 さっぱりするも、もちろん気持ちが晴れることはない。
 でもそんな凍華の心の内とは裏腹に、染み込んだような汚れは石鹸で驚くほどよく落ち、白い肌が窓から差し込む月明かりで美しく輝く。

 ぴちゃりと小さな音を立てながら、凍華は足を湯船にいれた。
 寒さに強いからと言って身体が冷えないわけではない。
 足先の方からじわりとぬくもりがひろがり、そのまま肩まで浸かれば身体の内からぽかぽかとしてくる。

 ちょうど窓の外に満月が見えた。
 綺麗な丸い月だ。

「満月の日に外に出てはいけないのよね……」

 そう凍華に言い聞かせたのは亡き父だ。
 夜になると座敷牢に閉じ込められる凍華は、月明かりの下を歩いたことがない。
 太陽の明るさとは違う、冴え冴えとした冷たく美しいその光を半地下の窓から見上げながら、一度で良いからそぞろ歩きをしたいと思っていた。

「その夢はもう叶わないのね」

 場所が変わっただけで囚われることに変わりはない。 
 結局、自分はこういう運命のもとに生れたと諦めるしかないのだと、小さく息を吐く。
 いつからだろうか、ため息と一緒に諦めるのが癖になっていた。
 
 くらり、と目の前の景色が歪んだ。
 久しぶりに入る温かな湯にのぼせてしまったようだ。でも、まだ出たくはなくて湯船の縁に腰掛けようとしたのだけれど、なぜか身体が思うように動かない。

 頭の中にどんどん白い靄がかかっていき、何をしたかったのかも分からなくなる。
 ただ、喉が渇いた。
 水が欲しいのとも違う、今までに感じたことのない渇きに凍華は喉を押さえる。

 身体が何かを欲している、それは分かるのに何かが分からない。
 そのまま崩れ落ちるようにして、凍華は湯の中に沈んでいった。

 湯の中で目を開ければ、ゆらゆらと動く湯を通して窓の外の月が見える。
 淡い輝きのはずなのに、目の奥がちかちかと痛むように感じた。

 まるですぐ目の前にあるかのように、銀色に輝く月。
 そのあまりの美しさに手を伸ばすと指先が青白く光る。
 随分湯の中にいるのに全然息苦しくない。
 それどころか、疲れ切った身体に力が戻ってくるように感じるではないか。

 ――喉が渇く。

 いったい何に渇望しているのだろうか。
 思い出せるようで思い出せないのは、過去の記憶。遠い遠い昔から受け継がれてきた(いにしえ)の血。

「おいっ、お前、何をしている」

 突然腕を引っ張られ、凍華は湯から引きずり出された。
 目の前には眉を吊り上げた番頭が、鬼のような形相で凍華を睨んでいる。湯船が静かになったのを奇妙に思い様子を見に来たところ、凍華が湯に沈んでいたので慌てて引き上げたのだ。
 自分が一糸まとわぬ姿あることを思い出し「きゃ」と両手で身を包み湯船にしゃがみ込む凍華の顎を、男はガシリと掴んだ。

「まさか、溺死しようとしたんじゃねぇだろうな」
「ち、違います」

 頭を振りたいが、指の力が強くできない。震える声でそう伝えれば、番頭は目を眇めたのち手を離した。

「もう充分だろう。さっさと出ろ。客が待っている」
「はい……」

 しかし、そんなところに立っていられては湯船から出ることはできない。
 困ったように泣きそうに眉を下げると、番頭は嫌らしく唇の端を上げた。

「こちとら見慣れている。それにあんたに手を出せば俺の首が飛ぶ。比喩じゃねぇ。物理的にだ」

 それがどういう意味か知り、温かい湯船の中でゾッと鳥肌が立つ。
 ここはそういう世界なのだと、腹の底が冷えた気がした。

「お前も早く行かなきゃ、折檻されるぞ」
「分かりました」

 慌てて湯船から出ると、番頭は背を向け湯殿から出て行った。興味がないというのは本当のようだ。

 凍華は着慣れぬ赤い長襦袢を一枚だけ羽織り、番頭の後を追うように長い廊下を歩いていく。
 髪は、渡された椿油を垂らした湯で洗ったこともあり、絡まることもなくさらりと肩に流れている。
 本当は結い上げるらしいが、波打つ髪と青い目が異国情緒があって良いと、そのままになっている。

 不思議と、先ほど感じた喉の渇きは治まっていた。

(湯につかったせいで、のぼせたのかしら)

 もしくは緊張か不安からか。

 番頭は階段を上がと、二階の一番奥の部屋へと向かう。開けられた廊下の窓から賑やかな声が聞こえ、凍華は頭上を見る。沢山の足音が聞こえ、何やら騒いでいるように思えた。

「今日は軍の偉いさんが三階を貸し切っている。豪勢な話だ」
「軍……よく来るのですか?」
「そうだな。金払いはよいが横柄な奴が多い。ま、こっちは、金が貰えりゃそれでいいけどな」

 父も来たことがあるのだろうか。青い目をした母と籍を入れなかったのは、母が廓にいたからだろうか。そんな考えが脳裏をよぎった。

「ここが今夜のお前の部屋だ」

 番頭が立ち止まり部屋の中に声をかけると、十歳ほどの女の子が出てきた。
 今宵、凍華の相手をする男は、普段は太夫を指名する上客で、凍華がくるまで太夫付きの禿が話し相手をしていた。

「三沢様、お待たせいたしました。今宵到着したての凍華といいます」
「おうおう、待ったぞ。今夜は気位の高い太夫相手ではできぬことを楽しみたいものだ」
「へぇ、お手柔らかに。では、あっしはこれで」

 三沢と呼ばれた男に、嗜虐的な光が宿る眼で舐めるように見られ、凍華は内臓が縮み上がった。
 これから一体何をされるのか、恐怖に手が震える。

「おい、こっちに来て酌をしろ」
「はい」

 返事をして隣に膝を付き、徳利を手にする。ぐい飲みにたっぷり注ぐと男はそれを一息に飲み干した。

「上手いな。しかし、部屋が少々暗い」
「そうでしょうか」

 部屋の隅二か所に行灯が置かれ、充分に明るいように思うが、男はそれでは不充分だと首を振る。

「今夜は月が明るい。月明かりの下で見るお前の泣き叫ぶ顔はさどかし美しいだろう」

 男はそう言っていやらしく口角をあげると、窓を開けるように命じた。
 悍ましい言葉に泣きたくなりながら、凍華は立ち上がり、震える手で窓を開ける。
 ちょうど雲間から現れた月の光が部屋に差し込んだ。

「おお、これはいい。楽しい夜になりそうだ」

 ははは、と笑う男の顎の肉が揺れる。
 充満する酒の匂いに吐き気がした。

 ――喉が渇く

 湯殿で感じた飢えが喉の奥からこみ上げてくる。
 一体何だこれは、と戸惑っていると、男がなみなみと酒の入ったぐい飲みを凍華に突き出した。

「こっちに来て座って飲め」
「で、ですが、私は飲んだことがなく……」

 月明かりの下、声が揺れるように響く。
 自分の声はこんな風だったかと思うほど、馴染のない声だった。
 
 凍華の声を聞いた途端、男が目を見開き、次いで何かに取り付かれたかのようにうっとりと顔を歪めた。
 ゆらゆらと身体を揺らしながら立ち上がり、凍華に迫ってくる。明らかに先ほどまでと様子が違っていた。

「もう一度、その声を聞かせろ」

 手を伸ばされ反射的に後ずさるも、窓が背にあたりそれ以上は下がれない、男は胡乱な瞳で凍華を見ると、いきなり抱き着いてきた。

「い、いやぁ!!」
「もっと、もっとだ。その声を聞かせろぉぉ!!」

 何かに陶酔しているような狂った咆哮に、凍華は腕を伸ばし男を引きはがそうとする。

「助けて!! 助けて」

 涙ながらに叫ぶ声は、廊下で見張っている番頭に届いてはいるが、もちろん番頭が助けるはずがない。それどころか逃げられないようにと襖を両手で抑え込んだ。

 男は凍華の腹にしがみつき、そのまま畳に倒し組み伏せた。
 見上げたその顔に先ほどまでの嗜虐的な色はなく、変わりに濁りとろりと蕩けた瞳が凍華を見下ろしている。
 
 ――喉が渇く

 不思議と恐怖は消えていた。
 ただ、ひたすら喉が渇く。とんでもない飢えが腹の底からこみ上げ、喉がごくりと生唾を飲み込んだ。