凍華の頬に直接風が当たる。
真上を向けば、冬の弱い日差しが顔を照らした。
肌寒いけれど、微かに暖かさを感じる。
「太陽の下に素顔をさらすのは、気持ち良いよいものですね」
目を細め珀弧を見上げれば、微かに琥珀色の瞳が揺れた。
どうしたのだろうかとじっと見つめれば、眉が寄せられ、そして視線を逸らされた。
「顔を隠すように言われていたのだったな」
「はい。私の目はみっともないですから」
「俺は、美しいと思う」
その言葉に、凍華ははっと息を飲んだ。汚らわしい、忌み子だと苛まれ続けた目を美しいと言われ、ただただ混乱してしまう。
「……家族からは気味悪がられていましたから」
「あやつらは家族ではない」
ピシャっと言い切るその口調の強さに、反射的に身を竦めれば、珀弧は困ったように首を振った。
「凍華に怒っているわけではない。俺はお前と一緒に住んでいたあの人間に腹を立てているのだ。凍華は、俺が少し口調を強めただけで、身を竦める。それは、なにかにつけ殴られてきたからなのだろう。だが、俺は凍華を決して殴らない。信じて欲しい」
「信じています! 珀弧様はお優しいです。ロンとコウも、凛子さんも。私に人間の血が流れていても、みんな親切にしてくれます」
身を竦めてしまうのは、それはもう身体に染み付いた癖で、珀弧が殴るなんて考えたこともない。凍華は誤解させてしまったのかと、ふるふる頭を振れば、宥めるように珀弧が優しく背中を撫でた。
「人間は自分達と違う存在を排除したがる。分からないのが恐ろしいのだろう。妖は「妖」と一括りに言われるが、実態は様々だ。姿、声、能力何もかも違う。だからそのものの本質を見る。見て、己に害をなすかを考えるんだ。凛子達に受け入れられたなら、それは凍華が人間や妖だからという理由ではない」
「……そ、それじゃ」
「皆が優しいというなら、凍華が皆に優しいからだ。主人の俺よりよっぽど好かれている」
「そんなこと……」
ない、と言いたかったのに言葉が詰まり、変わりに視界が揺らいだ。
次の瞬間には涙がポロポロと頬を伝う。
急いで手の甲で拭うも、止まってくれない。
涙を流したのは何年ぶりだろうか。
叔母の家に貰われたときはいつも泣いていた。
悲しくて、辛くて、寂しくて。
でも、その度に五月蝿いと殴られ、次第に泣くことを忘れた。
「……そんなこと、誰も……」
「誰も言ってくれなかったか?」
こくこくと頷けば、地面に次々小さなシミができる。
たまらず顔を覆い肩を震わせれば、背中に大きな手が回された。そのまま、まるで壊れ物でも扱うようにそっと抱きしめられる。
「好きなだけ泣けばいい」
甘い低音が耳元で響き、背中に当てられた手が幼子をあやすようにポンポンと優しく叩かれる。
珀弧からは若草の匂いがした。
こんな風に優しく触れられ、温もりに安堵したのは遠い記憶の中でだけだ。
凍華の涙は益々止まらず、いつのまにか珀弧にしがみつくように泣き始めた。
子供のように声を出し泣けば、腕の力が強まりぎゅっと抱きしめられる。
出会って間もない男性の腕の中ではしたない、みっともないと思われないだろうかと頭の片隅で考えるも、腕から伝わる暖かさが、そんなことはないと否定しているようで、凍華は珀弧の着物をさらにぎゅっと握りしめた。
どれぐらいそうしていたのだろうか。
ぐずっと鼻を鳴らし離れたときには既に山裾に日は沈みかけていた。
「すみません。もう日が暮れてしまいます。珀弧様、裏山にご用があるのですよね」
「一つはもう済んだ。お前を外に連れ出し、この景色を見せたかったのだ」
「そう、だったのですか」
この景色を、珀弧が守る景色を見せたいと思ってくれたことが嬉しかった。
そこに特別な思いなどないだろうが、それでも、凍華の胸は暖かく、鼓動が早くなる。
「あともうひとつはこっちだ。足元がさらに悪くなる、手を貸そう」
差し出されたのは、先ほどまで凍華を抱きしめてくれていた大きな手。
そっと重ねれば、強く握り返された。
珀弧は木々の茂みに分け入っていく。凍華が着いて来やすいように、草履で草を踏みつけながら進むその先にあったのは、湧き水だった。
岩場からちょろちょろと細い清水が流れ落ち、足もとに小さな泉ができていた。それは細い流れとなって森へと続いている。
凍華は泉の周りに咲いている花を見てはっと息を飲んだ。
銀色に輝く五枚の花弁の小さな花は、雨香に頼まれ山に取りに行ったものとそっくりだった。
この山に、現し世と似た花はあっても同じものはない。不思議に思い手を伸ばすと、凍華より先に珀弧が花を手折った。
「この花を知っているのか?」
「はい。楠が持つ山に咲いておりました」
「山? 楠の屋敷から山までだと随分距離があるだろう」
どうして珀弧が楠の家の場所を知っているのだろうと、凍華は不思議に思いつつも、雨香に頼まれ花を取りに行っていたことを話した。
「取りに行く理由は分かったが、この花の意味は知っているか?」
「花の意味、ですか? 祖父が亡くなったのは、私が三歳の頃で、父は屋敷と土地を妹である叔母に譲り、工場経営もすべて任せたそうです。でも、その山の頂にある湖の周りに花を植えることだけは望んだと聞いています」
花の意味については聞いていないが、父が生きている頃はその花が絶えず家にあったのを覚えている。
一度、父親が鉢植えで育てようとしたことがあったが、すぐに枯れてしまった。
どうやら、あの場所でしか花を咲かせられないようで、そのうち乾燥させたものを匂い袋に入れて持つよう言われた。
叔母達と暮らすようになったある日、凍華にとっては父の形見のようなその匂い袋を雨香に見つかり、気に入って奪われてしまう。
雨香は匂いが薄まれば新しく作るように命じるとともに、同じものを凍華が持つことを許さなかった。
かいつまみつつ話をすれば、珀弧はしゃがみこみ花を見ながら暫く考えこんだ。
やがて、さらに数本手折ると立ち上がり、それを凍華に手渡した。
「これは『惑わし避けの花』だ。人魚の……力を抑える作用があると言われている」
珍しく言い淀む珀弧から、凍華は花を受け取る。
現し世で摘んだときと同じように甘く濃厚な香りが鼻孔をくすぐった。
「これを匂い袋に入れて、お守りだと思い肌身離さず持っていて欲しい。布が必要なら凛子に言えばよい」
「はい」
父親と同じことをいう珀弧に引っ掛かるものを感じつつも、凍華は頷く。
『惑わし避け』の意味は分からないが、この花が凍華にとって大事なものだということは理解できた。