そんな──優しい気持ちで帰宅した夜。

私が一人で夕飯のコンビニ弁当を食べようとした時だった。いつもより早く父が帰って来ると、スーツのジャケットを羽織ったまま私と目があうと直ぐにテーブルの真向かいに座った。

「え……パパ、なんで……こんな早いの?」

難しい顔をした父が口を開こうとしたとき、再び玄関の扉が開く音がして険しい顔の母がすぐに私の右横に座った。

「ちょっと! 抜け駆けしないでよ! 優に何話したの?!」

「うるさいな! いま俺も帰ってきたばかりだ!」

「本当かしら。ねぇ、優、パパから何も言われてない?」

私は母の言葉に黙って頷いた。何だかわからないがいつもと雰囲気の違う両親に私は心が騒がしくなっていく。

母が私の方に体を向けると静かにその言葉を吐き出した。

「優、パパとママね、離婚することにしたら」

(──え?)

静かなリビングに冷たい母の言葉が響き渡って私の心の一部分がまたすこし壊れた気がした。

「……わかった」

思った以上に私の声は小さく掠れていた。
予想はついていたはずだ。
一度壊れた物はもう同じようには戻らない。
元通りには直せない。

それでもこの瞬間から私にはついに家族と呼べるものが完全になくなった。
心の中が真っ黒の絶望で染まっていく。心も体も見えない海の底まであっという間に落ちていく。

わかってたはずなのに──でも本当はいつかあの頃を思い出してまた元のように暮らせる日がくれるんじゃないかと思ってた。
だからずっとずっと我慢してきた。

幼かった私の手を左右から引いて、夕陽を背に仲良く三人並んで歩いた坂道も、不器用な父の包丁を持つ手にヒヤヒヤしながら三人でカレーを作って笑いながら食べたことも、私が絵画コンクールで銀賞をもらったとき二人が泣き笑いして喜んでくれたことも。

(……全部、忘れちゃったんだね)

私が未だに手放せず心の端っこに大事に大事に置いていた想い出達を、忘れずに大切にしていたのは私だけだった。

ネクタイを緩めた父を睨みながら母が聞いた。

「優、ママと来なさい。来るわよね? だってお洗濯だって、お料理だって、パパは何一つできないんだから、優はパパについて行っても困るだけ」

「何言ってるんだ! パパを選ぶべきだろう! 経済的にも不安定なママより、より良い教育を受けさせてやるから。将来のことを考えたらわかるね、優」

「…………」

「優、ママよね? 答えなさいっ」

「優、本当の気持ち言っていいんだぞ」

「…………」

母が黙ってる私にイラついたようにテーブルの上でひと指し指をトントンと鳴らせば、父がそんな母を軽蔑するように腕組みすると、まるで当てつけのようにため息を繰り返す。

結婚って何なんだろう。生きている間、その命を全うする最後の最後まで互いに寄り添い支え合い、愛し合うことを選んだんじゃないの?

それが今じゃ最後の最後まで言い争って私を持ち物のように扱って、もう心底うんざりだ。

──二人とも選ばない選択肢があればいいのに。

「優、早く答えなさい。ママよね?」

「優、ママのことなんて無視しなさい。パパと暮らそう」

私はこみ上げてきそうになる涙を何度も飲み込む。

「優、ママでいいわね?」

「さっきから聞いていれば勝手なことを言うな! 優、こんなママに遠慮せずにパパって言っていいんだぞ」

(いやだ、いやだいやだいやだ、もういやだ!)

私は両手の拳を思い切り叩きつけた。

「パパもママ大っ嫌い!! もうほっといてよ!!」

そう大きな声で叫ぶと私は両親が止めるのも構わず家を飛び出した。


どのくらい走っただろう。私は息が切れて足を止めると、たまたま目に入った小さな公園のベンチに腰かけた。

「……ぐす……ひっく……」

上手く吐き出せない苦しい思いは雪のように心にしんしんと降り積もって呼吸(いき)ができなくなりそうだ。

「もう死んじゃいたい。いなくなっちゃいたい……っ」

ベンチから見える目の前の道路を幼い我が子を自転車の後ろにのせて楽しく談笑しながら親子が通り過ぎていく。また家族が誕生日なのだろう、スーツ姿の男性がケーキ片手に足早に家路を急ぐ姿に涙がとめどなく溢れ流れていく。

「どうして私ばっかり……」

世の中はいつだって不平等に溢れている。皆平等なんて言葉があるが、どれほどの人がそれに当てはまるのだろうか。人間なんで日々不平等の中で、色んなカテゴリーに勝手に分類されて、ゴミの分別と同じで(ふる)い分けられていくだけだ。

「私なんて……生ゴミ……」

ゴミの分別に例えるならば私はきっと、生ゴミなんだろう。日々の名ばかりの家族というカテゴリーから吐き出されたいらないもの。誰からも本当に必要にされることなんてなくて、ゴミのようにリサイクルされて生まれ変わることもできない。本当のただのゴミだ。

「……苦しいよ……寂しいよ……」

私は気付けばスマホにメッセージを入力していた。そしてそのまま読み返すこともせずに夜空に向かって電波に乗せてメッセージを飛ばす。

『苦しい、寂しい、俺はきっとゴミだと思う』

正直、俊哉からすぐに欲しい返事がもらえるなんて期待していなかった。ただ初めてサイトに登録してくれた時、俊哉が言ってくれたみたいに『寂しい』を落としてラクになりたかった。

握りしめていたスマホが震えて私はすぐにメールを確認する。

──『ゴミなんかじゃないよ。マサルは優しすぎるから涙の箱が溢れちゃうんだよ。苦しいも寂しいもココに落として、いつか少しだけラクになれることを願っています』

二度、読み返した。私がすぐラクになれないことを分かってくれて、いつかって言ってくれたことが嬉しかった。涙が勝手に溢れてスマホにポタンと落ちた。私は止まらない涙を何度も拭うと心を落ち着かせるように暫く夜空を眺めた。

──『マサル、大丈夫か?』

私がいつもなら俊哉からのメッセージにすぐに返信をするか、会話を終わらせるメッセージのどちらかを送っていたからだろう。

私は少し悩んだが、正直に俊哉にメッセージを送ることにした。

『俊哉先生、私、家出しちゃった』

──『家出? マサル、何処か行く宛はあるのか?』

俊哉からの返事はいつもよりも数倍早くて驚いた。

『公園に泊まる、平気だから心配しないで』

私は精一杯の強がりを書いた。
いつもなら俊哉から最後に励ましのような、見守りのような連絡がきて終わるはずだった。 

──『公園って何市のどこの公園だ? 雨風をしのげるとこなのか? 何かあった時すぐに誰かを呼べそうな民家とかあるのか?』

見ず知らずの私を心配してくれる文面に社交辞令かもしれないと思っていても縋りそうになる。私は大きく深呼吸するとあたりをぐるっと見渡した。

『今見たら、◯◯市……たんぽぽ第二公園って看板に書いてある。すぐ目の前にエイトイレブンもあるし、外灯の近くで寝るから大丈夫。落ち着いたらまた連絡します』

私は聞かれたことだけに答えるとなるべく短い文章で返信したり長く書くと、なんだかもっと寂しくなって涙が止まらなくなりそうだっだから。

そして私は俊哉にメッセージを送るとスマホを制服のスカートのポケットにねじ込んだ。

「寒いな……」

制服のブレザーは着ているものの、家を飛び出す際、いつも着ている紺色のコートを忘れてきてしまった。

「あーあ……。コートさえあったらポケットにお財布いれてたのに。あったかい飲み物も買えないや……」

私はベンチの上で膝を抱えて小さくなると、雲一つない夜空を見上げた。今日は雲がほとんどない星日和(ほしびより)だ。

「星、ちゃんと見るのも久しぶりだな……」

うちの両親は天体観測が好きで大学時代、天文サークルで知り合ったそうだ。そんな星好きの両親に連れられて、幼い頃はよく星を眺めに出かけたことをふいに思い出す。

「優しく幸せな気持ちになれるから……優、か……」

私の名前の由来は心の優しい子になりますように、の他にもうひとつ由来があった。それは星好きな両親が星を見れば心が優しくあたたかくなるが、私を見ていればそれ以上に心が優しく満たされて、たまらなく幸せな気持ちになるからだと話していたことを思い出す。

今は十二月。私はオリオン座の中央に仲良くならんだ三つ星をじっと見つめた。

よく笑う母と優しい父と私。

「三つ星みたいに……仲良しだったのに」

なかなか子供ができなかった両親にとって、待望の我が子だった私は本当に愛情たっぷりに育てて貰っていたと思う。幼い頃の記憶は幸せなものばかりだから。

でもいつからだろう。
考えても考えてもわからない。
ただ両親が自分に向けてくれていた愛情は私のためにと、憎みあい言い争う中で歪んで姿カタチを変えてしまった。

二人とも大好きだったのに──。

家で私にどちらかを選べと迫る恐ろしい表情の両親を思い出して、私は唇を噛み締めると膝の上に両腕を重ねて顔を突っ伏した。


──その時だった。

「……マサル、か?」

(え……っ)

聞いたことのない少し高めの男性の声が背後から聞こえて私はビクンと身体を震わせた。

そして恐る恐るその声に振り返ると私はすぐに声を失った。

私の目の前にはメガネをかけた長身のスーツ姿の男性が立っている。見た目からしてまだ二十代半ば位だろうか。その胸元にはシロクマのボールペンがささっていた。

「あの違ったら本当にごめんなさい。もしかして……君はマサルじゃないかな?」

目の前の男性は困ったように目じりを下げると、私から少し距離を取ったまま気まずそうな顔をしている。

(マサルって……もしかして……)

私の心臓が爆発しそうなほどに音をたてて加速していく。こんなことがあるのだろうか。

まさか──あの俊哉と面と向かって会うなんて。

私はうまく言葉がでてこなくて俯いたまま小さく、こくんと頷いた。

「そっか……やっぱりそうか。ごめんな驚かせて。僕は……その……シロクマ先生をさせてもらっている、者です……」

「…………」

俊哉は頭を掻きながら、たどたどしく自己紹介をする。

「えっと……どこから話したらいいかな。あっ……なんでここがわかったかだよね。実は僕たまたまこの公園のすぐそばに住んでるんだ……で、仕事帰りにその……マサルからメールが来て正直驚いた」

私は俊哉の言葉に驚くと思わず顔を上げた。

「……こんな偶然……」

私が蚊の鳴くような声で呟くとすぐに俊哉が口を開く。

「だよな。本当僕も驚いたよ。あの……もし良かった……その、ここ座ってもいいかな?」

視線だけ俊哉に向ければ俊哉がベンチの端を指さしている。

「……はい」

私が答えると俊哉ができるだけ私に近づかないようにベンチの端ギリギリに座るのが分かった。そして手に持っていたビジネスバッグとコンビニの袋を地面に置いた。

私はベンチの端に座る俊哉にちらりと目を遣った。

サラサラの少し長めの髪の毛は後ろを刈り上げていて清潔感がある。身長は百八十くらいだろうか。シロクマ先生と名乗っているくらいだから、その名前の通りクマさんみたいに少しお腹がぽっこりしてて、ポロシャツにチノパンみたいな格好の人の良さそうなオジサンを勝手に想像していたのに全然ちがう。

「あの……俊哉先生……」

私の言葉に一瞬、俊哉が目を見開いてキョトンとした。

「あ、あの……?」

「……えっとごめんな。俊哉(としや)じゃなくて俊哉(しゅんや)って読むんだ」

「えっ、そうなんですか」

俊哉から名前を教えて貰った時、ルビはついていなかったため私は『としや』と読み、おじさんを想像していたが、俊哉(しゅんや)と呼ぶのなら、確かにこうして直接会うことがなくても私の中の想像するシロクマ先生の年齢はもう少し若かかったかもしれない。

「なぁ、そういえばマサル、腹減ってないか?」

俊哉がコンビニの袋から肉まんと温かいレモンティーを取り出すとこちらに向かって差し出した。

「あ……大丈夫、です」

「えっと……そうだよな……見ず知らずの人から貰ったモノなんて気持ち悪くて食べれないよな。無神経でごめんっ」

慌てて私に向かって頭を下げる俊哉を見て私は首を振った。

「ち、がうんです……その……肉まん、先生が食べようと思ってたものじゃないのかなって」

「そうか。マサルは本当に優しいな。僕のことはいいから、遠慮だけって言うなら食べて」

俊哉は私の膝の上にまだ温かい肉まんを乗せるとレモンティーを私のすぐ横に置いた。

「ありがとう……ございます」

「あ、いやこんなもので丁寧にお礼を言われてしまうと困るから……」

まだ俊哉に出会ってから数十分程度だが、俊哉は人の良さがにじみ出てていて私は何だかほっとする。そして空腹だった私はすぐに肉まんにかぶりついた。

「おいしい……」

私は俊哉の買ってきてくれた肉まんを夢中で頬張った。こんなに美味しいと感じる肉まんは初めてだった。そして食べ終わると、私は疑問に思っていたことを口にした。

「あの……聞いても……いいですか?」

「ん? 何かな?」

「どうして……私が……マサルって男の子のフリをしてるってわかったんですか?」

私が俊哉に送ったメッセージに記載した公園が偶然にも俊哉の住んでいる家のすぐ近くで、それを見た俊哉が駆けつけてくれたのだとしても、ベンチに座ってるのが女の子だったなら普通ならマサルはいないと思って帰るんじゃないだろうか。

「あ。うん……さっき、マサルからメッセージ貰った時だけど……一度だけ一人称が『私』になってたから……あとここ数カ月やりとりさせて貰ってる中で職業柄、女の子なのかもしれないなって思うことが時々あったから」

「え? 俊哉先生の職業って?」

「あぁ、大学の非常勤講師として働いてるんだ。日々若い生徒たちと接するからね。うまく言えないけど……なんとなく分かっちゃうときがあって……」

「あの、だから……私が公園に泊まるって言ったとき女の子だって気づいてたから慌てて返信してくれたんですか?」

「そうだよ。一応教師の端くれなんだ、生徒の一大事、それも女の子が公園で一晩夜を明かすなんて知ってしまったからには居てもたってもいられなくて……それにまさかマサルのいる公園が僕のアパートのすぐ近くだとは思わなかったしね。マサルに公園の名前を聞いたのは、何とか場所さえ特定できたら警察に様子を見に行ってもらえないか問い合わせしてみようと思ったんだ……」

「先生……」

こんな私でも俊哉の生徒の一人として心配してくれた優しさに目の奥が勝手に熱くなる。私はそれを誤魔化す様に鼻を啜った。

「あ……っ、寒いよな。えっと僕のスーツのジャケットで本当に申し訳ないけど……寒いよりはマシだと思うから……」

「えっ、あのっ、全然大丈夫です……くしゅんっ」

俊哉の親切を受け取るのがなんだか申し訳なくて速攻で断ったのに空気の読めないくしゃみのせいで、俊哉がさっとジャケットを脱ぐと私に手渡した。

「いや、あの私……」

「ほんと嫌じゃなかったら使って。一応……先週末にクリーニングから戻ってきたばっかりだから……あと寒いの僕こそ、気が付かなくてごめんね」

私は俊哉のジャケットを羽織ると、少し迷ったが俊哉に向かって頭を下げた。

「先生……謝るのは私の方です……」

「え?」

「嘘ついて……本当にごめんなさい……」

さっきから、いや俊哉は『マサル』と声をかけてきた時から私の服装を見て気づいている筈なのに何も言わない。

「私……男の子でもなければ、大学生でもないんです。高校三年生で十八歳です」

「……うん。マサルが高校生だってのはその制服見て……すぐに分かった。内心驚いたけど……嘘をついてでも誰かに『寂しい』を聞いて欲しかったんだよね」

俊哉の優しく穏やかな声に私の両目からはまた涙が溢れ出す。今ここで言葉にしないと本当に心が死んでしまいそうだったから。

「うん……っ、もう限界だった……っ。毎日お父さんとお母さんが言い争って……憎み合って……それだけでも嫌で嫌でたまらなかったのに……離婚するからどっちか選べって言われて……家飛び出しちゃったの……」

私は堰を切ったようにずっと辛くて苦しくて寂しかったことを心の中から全部吐き出すように言葉に出していく。

俊哉は私が全部吐き出し終わって涙が止まるまで自分の膝を見つめたまま、ただ黙って傍にいてくれた。

「マサル……落ち着いた?」

私は俊哉から貸してもらった水色のハンカチを俊哉の大きな手のひらに返しながら小さく口を開いた。

「優です」

「ん?」

「私の名前、春野優(はるのゆう)です。優は優しい、一文字です」

「そっか。そうなんだね、いい名前だ。えっとちなみに僕の本名は神代俊哉(くましろしゅんや)。神様の神に、代理の代で神代って読むんだ」

「あ……だから文字入れ替えてシロクマなんだ」

「そう。マサ……あ、いや優の名前の付け方と似てるな」

「ほんとだ」

私たちは顔を見合わせるとふふっと笑い合った。

そして俊哉がかけている黒縁メガネを押さえてから私を真っすぐに見つめた。

「実はね……僕も優と同じで家出したことがあったのを思い出した。ちょうど高三のときかな」

「え? そうなの?」

「うん。僕の家はちょっと他の普通って呼ばれる家と違ってね、母親と呼ぶ人とは血が繋がってなかったから」

俊哉は義理の母との関係がうまくいかなかったこと。やがて生まれた年の離れた弟が出来てから家で疎外感を味わっていたことを淡々と私に話した。私は黙って聞いていただけだったけど、時折横目に見た俊哉の横顔は少しだけ寂しそうに見えた。

「……あまり聞いていて楽しい話じゃなかったね。ごめん」

私は黙ったまま首を振った。俊哉はそんな私を見ながら頷くとしばらく黙ったまま夜空を見上げた。

どのくらいそうしてただろうか。

「……さっきの優のご両親の話だけど……大人になればなるほど気づかないうちに自分勝手になってしまうんだよ、というよりも大人であろうとするが故に間違えてしまうのかもしれないね。大人っていう固定概念で、いつの間にか窮屈で偏った枠に自分を当てはめて、まるで自分のことが全て正しいなんて思ったり、時に意図せず自分の意見を優先するが故に誰かを傷つけてしまったり」

「パパもママも本当に自分勝手なの。私の為っていうなら……どうして仲良くしてくれないんだろうって」

「夫婦の問題は難しいよ。僕の話で申し訳ないけど……うちも離婚して再婚だったから」

「そうなの? 俊哉先生は離婚も再婚も反対しなかったの?」

「そうだね……反対してたらなにか変わってたかなって思うことはあるけどね。でも金銭的な事情から僕を手放した母親とはもうずっと会えてないし、向こうから連絡もないよ。本当かどうかわからないけど父親が言うには母親も再婚していまは新しい家族と仲良く暮らしてるみたいだしね……」

「寂しく……なかった?」

自分の寂しさは結局のところ自分にしかわからない。けれど寂しさに形があるのなら、その寂しさの端っこにある傷ついた部分に一緒に絆創膏を貼ってあげることはできるのかもしれないな、なんて思った。

「今思えば寂しかったんだろうね……だからあのサイトを立ち上げたんだ……誰かの『寂しい』を落とせる場所と『寂しい』を聞いてあげる場所を作ってあげたくて……あの頃の僕のために」

「…………」

全く同じ種類の痛みはないけれど、似たような種類の痛みなら互いに寄り添い、心の中の靄を吐き出すことで、その質量をほんの少しだけ軽くすることができるかもしれない。

「先生のおかげで……私は救われました……『寂しい』をちゃんと落とせたから……」

「優はやっぱり優しいね」

俊哉はそう言うと唇を湿らせてから再び口を開く。

「……あの頃の僕はずっと黙ってることが一番良いんだって思っててさ、自分が我慢すればきっと誰も傷つかないし、いつかきっと元通りになるって思ってた。でも結局……心の中は言葉にしなきゃ誰にもわかって貰えないし、言わなきゃ気づかないんだよね……って、大人と呼ばれるようになって気づいたんだけどね」

俊哉は私の目を見ながら切長の目を優しく細めた。
 
「優。優は優しい。それはすごく素敵なことだけど……もっと自分のことも優しくしてあげて欲しい。もっともっと心を大切にしてあげて欲しい」

「心を大切に……?」

「うん……それにきっと……お父さんもお母さんも優のことが大事じゃない訳じゃないと僕は思うよ。大人だってちゃんとありのまま心を伝えられる訳じゃないと思うし、心を伝えるのが得意な人も苦手な人だっていると思うから……」

「そうかな……パパもママも私のことなんて……どうでもいいのかなって」

その時だった──スカートの中のスマホが震える。すぐにスマホを取り出せば液晶画面には『ママ』と浮かんでいた。

「優、出たら?」

俊哉はそう言ってくれたけど私は首を振った。

そして今度は続けざまに液晶画面には『パパ』の文字が浮かぶ。何十コールも震えて、留守電に切り替わると諦めたように電話は切れた。

「何よ……いっつもほったらかしのくせに……」

隣に俊哉がいるからそう口に出したが、両親がちゃんと私のことを心配してくれていることにほっとした。

パパとママにとって本当は私なんかいらない存在だと思っていたから。私がいるせいで世間体を気にしてなかなか離婚に踏み切れない両親の気持ちも勘づいていたから。

目の前がすぐに霞んで滲んでいく。

「優、どうぞ」

「ありがとう……」

私は俊哉がハンカチを受け取り目元に押し当てると、両親それぞれに『もう少ししたら帰るから』とだけ送った。 

「先生、ハンカチありがとう……」

「構わないよ。さてと優、ご両親も心配してるしそろそろ帰ろうか?」

俊哉が鞄を抱えようとするのを見ながら私は小さく首を振った。

「先生もう少しだけ。一つだけ教えて欲しいことあるの」

「ん? なに?」

「先生、美術教えてるんでしょ? どこの大学?」

「え? あ……。うーん……」

すぐに答えてくれると思ったのに俊哉は返事をすることを迷っているように見える。

「私……進路迷ってて。パパもママもこれからは女性も社会で活躍する時代だから経済学部にしたらって言うの。でも私……本当は美大に行きたい……でも私友達できないし……大学でもできるかわかんないし……誰も知らないとこよりは先生のとこに通えたらなって」

「うん……そうかもしれないなって思って、すぐに答えなかったけど、その……僕を理由に優の大事な進路先を決めるのは違うかなって思ってね……」

俊哉は鞄からスケッチブックを取り出すと私の方に差し出した。

「え?」

「描いてごらん。見てあげるよ」

「え?何を?」

「優は大学で何を描きたいの?」

「……笑わない?」

俊哉は困ったような顔をした。

「笑ったりしないよ、僕だって教師の端くれだよ、大事な生徒の話を笑ったりなんかしないさ」    

私は俊哉から大事な生徒と言われてなんだか嬉しかった。

「先生、あのね。私……いつも身の回りものを模写ばかりしてるんだけど……本当は生きてるものを描いてみたいの」

「例えば?」

「花とか、鳥とか、……人間とか」

「お。いいね。じゃあ、俺描いてみてよ」 

そう答えた後にすぐに俊哉が、しまったという顔をしたのを私は見逃さなかった。

「先生って普段、俺?呼びなの?」

すかさず聞き直した私に、はははっと俊哉が笑った。

「恥ずかしいな。先生ぶってるけど、実は僕まだ三年目だから」

「え? じゃあ……」

「今年二十五歳だよ。優からしたら、おじさんだな」

私が宙で年齢を計算しようとしたら先に俊哉が年齢を答えた。おじさんなんかじゃない。今まで接したことがない大人の男の人に、私は無意識に鼓動が少し早くなった。

「では、いつでもどうぞ」

そう言うと俊哉は恥ずかしいのか私から顔を逸らし、夜空のオリオン座に視線を向けた。

私はベンチの上の電灯の明かりを頼りにスケッチブックを広げる。

そして鉛筆を寝かせるように持つとゆっくり少しずつ俊哉の輪郭を描いていく。

「……優はさ、デッサンのどういうところが好きなの?」

「うんと……書いてると……嫌なことも寂しいことも何も考えなくていいから。白と黒と自分だけの世界だから」

「驚いた。同じだな。俺、いや、僕もキャンバスとただ向き合ってる時間が1番好きだな」

私は生真面目に一人称を言い直す俊哉が可笑しくてクスっと笑った。

誰かの前でこうやって笑うのは本当に久しぶりだ。

そして気づけば私は夢中で鉛筆を走らせていた。俊哉の長めの前髪から切長で目尻だけほんの少し下がった目。センスの良い黒淵メガネ。睫毛が長くて鼻筋が通っていて形の良い薄い唇。

俊哉を構成しているモノたちを鉛筆に乗せて指に乗せて、私は何も考えずただスケッチブックに向き合っていく。

ようやく三十分程かかって、ひと通り俊哉を描き終わった私がふぅっと息を吐き出せば、俊哉とふいに目があって俊哉があっという顔をした。

「先生?」

「あ、いや、そのモデルって滅多にしないから。ていうかしたことないから。思ったより恥ずかしいな。もう終わりそう?」

「うん、もうちょっと。陰影つけたら完成なんで」

私がふっと笑うと俊哉が恥ずかしそうに頭を掻いた。

私は消しゴムで鉛筆の線をぼかしながら指の腹で摩って、肌のグラデーションを立体化していく。この瞬間が絵を描いていて私が一番好きな瞬間だ。自分の中から命を生み出して、吹き込んでいくような心地よい感覚が芽生えていく。私は最後に俊哉の唇の陰影をつけ終わると鉛筆を置いた。

「先生っ! できた!」

「お、どれどれ?」

俊哉がすぐに私からスケッチブックを受け取るとじっと覗き込んだ。

少しだけ間があった。その間が何を意味するのか分からなくて、私はそわそわしてしまう。他人との関りが苦手な私は美術部に入っておらず美術の先生に添削してもらうのは初めてだった。 

「……あ、やっぱ先生から見たらイマイチ?だよね」

無言の空間に耐え切れず先に声を発した私に向かって、俊哉が大きく首を振った。

「違うよっ! すげぇな! 優!」

切長の目を子供みたいにキラキラさせて目尻を下げながら俊哉が笑った。

「……ちゃんと心が乗っかってる! 命が入ってんだよ!……優、凄いよ!」

「あ、ありがとう……」

いつの間にか俊哉がタメ口になってることに可笑しくなったのと、子供みたいに興奮しながら私の絵を褒めてくれたことがすごく嬉しかった。

大きくなってから親にも誰にもちゃんと褒められたことなんて一度もなかった気がするから。

「あ……ごめん! つい良い作品だったから興奮したけど……大人気なかった。一瞬、教師の立場忘れてたし、そもそもこれ僕の顔だし」

俊哉が恥ずかしそうに笑って、私もつられて大きな口を開けて笑った。 

「ええっと……じゃあ優……そろそろ帰ろうか。途中まで送るから」

「あ、うん……」

夢中で描いていて時間を忘れていたが、公園の背の高い時計の針は二十一時を回っている。

俊哉はスケッチブックをさっと鞄に仕舞った。

「あの、俊哉先生」

「どうした?」

「先生また会える? また絵見てくれる?」

俊哉はすぐに眉を下げた。

「うーん、会うのは今日で最後かな。僕は教師だからね。これも所謂世間でいう、大人の事情ってヤツだけど」

「じゃあシロクマ先生のメールは? 答えてくれる?」

「そうだな。まさか優が年齢を偽ってたとは思わなかったから本当はダメだけどね、聞かなかったことにするよ」

「ありがとう」

「『寂しい』はいつでも落として構わないから。でもね、……家出は今日で最後にしてもらえたら、教師の身としては安心するだけどね」

俊哉が確認するように私の目を覗き込んだ。その真剣な確かめるような視線に心臓がとくんと跳ねた。

「……わかった。家出したくなったら、家出する前に『寂しい』を書き込むから」

「うん、なるべくすぐ返事する。あと……ご両親とも一度優の思ってることちゃんと言葉にしてみるんだよ。僕みたいに後悔しないように」

「そうする」

「うん、えらいね」

そして私たちは月あかりの下を並んで歩いていく。背の高い俊哉の影を見ながら私はずっとこのまま家につかなきゃいいのになんて邪な思いが何度もよぎった。


「あ、先生。あそこだから」

私は自宅の手前で足を止めると羽織っていた俊哉のスーツのジャケットを脱いで畳んでから返した。

「いや、やっぱり僕、ご両親に事情説明してから帰るよ」

「ダメだよっ、さっきも言ったけど……そうすると私が嘘ついてサイトに登録したことバレちゃって親に怒られるから」

私は最後の最後にもう一つ嘘をついた。

うちの親はもともと私に甘い。私が二十歳だと偽り、男の子だと嘘をついて俊哉とやり取りしていたことは恐らく頭ごなしに怒ったりはしないだろう。

それよりも俊哉が私と今まで一緒にいたことが両親にバレて、そのことで親が俊哉を責めて大学講師という立場の俊哉に迷惑をかけるかもしれない方が嫌だった。

「わかった……。じゃあ、ここで優が玄関に入るの見届けたら帰るな」 

「うん」

本当はもっと俊哉と話したい。
もっともっと俊哉のことが知りたい。
そう思って名残惜しい気持ちは膨らむばかりだが、高校生の私はもう家に帰らなければいけない。私はゆっくりと俊哉に背を向けた。

「優。待って」

「え?」

「……言い忘れた進路のことだけど〇△芸術大学が良いかもしれない。あそこは美術、とくにデッサン画に力を入れていて全国大学美術展での評価も高いから」

「もしかしてそこが俊哉先生の働いてる大学?」

「いや、僕が働いてるところは別だよ。まぁ非常勤講師って一年縛りだから、また来年はどこで美術教えてるかわからないけどね」

「そっか……」

「大丈夫。ご両親もきっとわかってくれる。それに優は自分が思ってる以上に生きた絵を描けるから。将来を考えたら僕の今いる大学は勿体ないよ」

俊哉がにこりと笑うと「じゃあ」と手を振った。私もその笑顔にとびきりの笑顔を返すとゆっくりと家に向かって歩いていき、俊哉のことを振り返ることなく玄関の扉を開けた。

「優!」
「待ってたんだぞ……」

私の姿を見た両親はそう言うと、すぐに駆け寄ってきて私を二人してぎゅうっと抱きしめてくれた。

すごくあったかくて嬉しくて私は暫く涙が止まらなかった。

そしてその夜、両親とはたくさん話し合った。その中で両親が自分たちは好きなことを優先して大学を出たが、社会に出たときに天文の知識がまるで役に立たず、働きながら経営や営業のノウハウを勉強したこと、私の為を思って経済学部を勧めてくれていたことを話してくれた。

その上で私はやっぱり絵を専門的に学びたいこと、できたら絵を描くことを職業にしたいと思っていることも包み隠さずに話した。

「そんなに絵が好きだったなんて……気づかなくてごめんね」

「わかった……優の人生だ。やりたいことをやってみなさい」

「パパ……ママ……ありがとう……」

私はそう言うと泣きすぎて真っ赤になった目で両親の顔をそれぞれ見つめた。

「パパ、ママあのね……」

両親は私の続く言葉をじっと黙って待っている。

私は両の手のひらを握るとようやくその言葉を口にする。

「私……パパとママどっちかなんて選べない……どっちもそばにいてほしい……小さかったときみたいに……仲良くして欲しい……私ももっといい子になるから……もっと勉強も頑張るから……っ……だからね……家族やめないで……っ」

私はそう言うと子供みたいに泣きじゃくった。こんな風に両親の前で泣いたのは、きっと欲しかったぬいぐるみを買ってもらえなくて駄々を捏ねた時以来かもしれない。

確かそのときも──結局パパとママは。

長い長い沈黙があって、私の涙がいよいよ枯れて泣き疲れて眠ってしまいそうになった時だった。

父がボソリと呟いた。

「分かった……努力してみる」

その言葉を聞いて隣の母を見ると、母は泣いていた。母の涙は初めてだった。

「……ママも……わかったわ……ごめんね、優」

「パパも悪かった……ごめんな」

私は首をぶんぶん振ると枯れたと思った涙は今度は嬉し涙となって、私の頬を優しく濡らした。


そしてその言葉通り、あの夜を境に両親が激しく喧嘩をすることはなくなった。私のために我慢をさせてしまったかな、とはじめは少し罪悪感に駆られたこともあったが、時が経つほどに夫婦の仲が少しずつ修復されていくのを感じて私はすごく嬉しかった。

喧嘩になりそうなときは、私が間に入ればすぐに二人が「ごめんね」の言葉を口にしてくれるようになり、月に一度は家族で外食したり、プラネタリウムを観に行ったりと、私は二人が私の為に互いに寄り添い歩み寄る努力してくれていることが本当に嬉しかった。