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 あれから1年の月日が流れたが、私は今も夜の学校に忍び込み、ピアノを弾いている。月の光を見れば、私の人生はいくらかマシだと思えるようになった。
 でも、いつも胸を巣食っているのは、日の光の下で歩くことができなくなった自分の惨めな未来だ。いくら夜の時間を満喫しても、私は昼間、友達と遊びに行くことができない。もし好きな人ができても、昼間デートにも行けない。そもそも、こんな私を好きになってくれる人なんていないだろう。
 感傷に浸りながら、いつものように学校で「月の光」を弾いたあと、私はピアノの蓋を閉めて、音楽室から出ようとした。時刻は夜中、12時を回っていた。
「わっ」
 教室から一歩踏み出した時、私は誰かの驚く声を聞いて、心臓が飛び跳ねた。
 暗闇の中、扉の向こうに立っている少年を目にして、幽霊でも見てしまったのかという錯覚に陥る。
「え、あの、誰……?」
 はっきりと顔が見えない。見えたとしても、去年この学校からフェードアウトした私に、彼の正体が分かるとは思えなかった。
 少年は一歩、二歩、と後退り、気まずそうに「えっと」と口籠る。
 良かった……少なくとも幽霊ではないみたいだ。幽霊だったら、喋るなんてできないもんね。
「こ、こんばんは」
 だんだんと目が暗闇に慣れてきて、相手の顔がさっきよりもはっきりと見えるようになった。切れ長の瞳に、マッシュルーム頭をしたその人は、私服姿で飄々と佇んでいる。うーん、見たことないなぁ。去年同じクラスだった人ではなさそうだ。同じ学年かどうかも分からない。そもそも、この学校の生徒なのかさえも。
「こんばんは。あの、ここで何をしてるんですか?」
 相手からすれば、私の方こそ何をしているのかと問いたいだろうけれど、私は今まで夜の学校で人に出会したことがなかったので、少年にそう聞いた。
「ああ、僕は、今日久しぶりに学校に来たら、宿題を忘れてしまって。取りに戻ったら校門の横の扉が開いてて、中に入れたんです。それで、教室で宿題のノートを回収したあと、音楽室からピアノの音が聞こえてきたので、気になって」
「なるほど……?」
 そういえば今日、私は扉の鍵をかけ忘れていたことに気がついた。たまにこういうことがある。鍵を開けっぱなしにしていて、不審者が侵入してきたら私はもう夜の学校を使わせてもらえなくなるかもしれない。今後は気をつけよう。
 それにしても、いくら宿題を忘れたからと言って、こんな夜中に学校に宿題を取りにくるなんて、彼はとても真面目な人なのだろうか。
 と、一人考え込んでいると、少年が「あの」と顔を覗き込んできた。
「さっきの曲、『月の光』ですよね。めちゃくちゃ綺麗でした。僕も、好きなんです」
 どうしてだろう。
 少年の顔は、暗い夜の学校だというのに、明るい笑顔が輝いて見えた。
「そうなんですか!? 私、この曲がいちばん好きで、いつもここで弾いてるんです」
 『月の光』が好きだと言う人に、私は初めて出会った。同世代の友達はみな、流行りのJ-POPやK-POPばかり聞いていて、クラシックを好む人間はほとんど皆無と言っても過言ではない。それなのに目の前にいるこの人は、『月の光』が好きだと笑っている。
「はい。あの、星が降るようなメロディーが好きで。きらっと光るのが、目に浮かぶというか」
 星が降る。
 なんて素敵な表現なんだろう。
 私は未だかつて『月の光』について語り合えた友達がいないので、心臓の鼓動は自然と速くなっていた。
「分かります。私は、波の音だと思っていました。星が降るって、素敵ですね」
 この、年上なのか同級生なのか、年下なのかも分からない少年と、私は一気に打ち解けたような気がして、心が弾んでいた。
 それから私たちはひとしきり『月の光』について語ったあと、「忘れてた」とどちらからともなく吐息を漏らした。