たまに訪れる沈黙でさえ、気まずいとは感じられない。

この沈黙でさえ、居心地がいいと感じてしまうのは、私たちの相性がいいからなのか、それともこの場所がそうさせているのかは定かではない。

店内のbgmも私好みのゆったりとした曲調のものばかりで、ついつい勘違いをしてしまいそうになる。

昨日から来てはいるが、私以外にお客さんは見当たらない。

もしかすると、お客さんは1人限定なのかと思ったが、それは違うらしい。

「あの、綺世さん」

「何でしょう?」

「私の話も聞いてもらえますか?」

「もちろんですよ。僕でよければですけど」

首を縦に振る。彼が良かった。弱音を吐くなら、友達よりも彼の方が安心できる気がするから。

「私、妹がいるんですけど、その妹が優秀なんです。歳は一つしか変わらなくて、ついつい姉妹でも比べられてしまって、息苦しいんです。何をするにも私は妹に勝つことはできなくて、いつも両親から褒められるのは妹ばかり。『どうして、あなたはできないの』って罵られるのが、辛いんです。高校も本来は行かせたかった高校に落ちてしまって、今は私立に通っています。翌年、妹はその高校に首席で合格しました。それによって、より私の家での立場がなくなったんです。学校には友達もいたんですけど、気付けば学校に行く元気すらなくなってしまって。私が学校に行ったところでって考えるようになってしまうんです」

チラッと綺世さんの方を見ると、真っ直ぐな瞳が向けられたままだった。

何かを話すわけでもなく、「最後まで聞かせて」と伝えてきている気がした。

彼なら私を...

「最近では、家にいるのですら辛くて、こうして夜に逃げるのが日課になってしまいました。自分でも分かってはいるんです。何かをしないと、私にできる何かを見つけないとって。でも、探しても探しても私にできることは当然のように妹もできてしまって、私には何も残されていないくらい空っぽなんです」

「そんなことない!」

「え」

初めて彼が語気を強めた。落ち着いた雰囲気の彼が、こうして感情を露わにしている。

「風梨さんは、空っぽなんかじゃないです。あなたは優しい人だ。どんな時も自分よりも他人を優先して、自分が苦しいのにそれでも助けようとしてくれる。僕はそんなあなたがすごいと思います」

「ど、どうしてそんなこと知ってるんですか・・・」

「え、あ、それは・・・」

急に先ほどまでの威勢がかき消され、しどろもどろになってしまった彼。

一体どうしたというのだろうか。

bgmも終盤を迎え、曲調が滑らかで落ち着いてきたものへと変化する。

そのせいか、彼の呼吸音までもが静かに耳へと流れてくる。

一定のリズムで淡々と。

「綺世さん、何か隠してますか?」

確実な根拠はなかった。でも、なぜか彼は何かを隠している気がした。

お店の条件はそこまで難しくはない。真夜中と言っても、高校生が誰も通らないわけでもない。

何かしら事情がある高校生だっているかもしれない。それなのに、1人もやってこないのはおかしい。

それに、違和感は最初からあった。

綺世さんは、初対面のはずなのに、私の名前を知っていた。それも名前だけではなく、風梨という漢字さえも。

それが、何を意味するのか私にはわからないが、少なくとも秘密を抱えているということだけは確かだった。

じっと見つめる私に観念したのか、両手を顔の横にあげ、降参のポーズをとる彼。

「流石に鋭いですね」

その言葉で私の答えは確信に変わった。

彼は私に何かを隠しているのだと。それが何かなのかはまだわからない。

ただこれから話す彼の嘘が、私にとって関わりがあることだということは、彼の様子を見た限り伝わってくる。

「どこから話せばいいんですかね。まず、このお店の名前の由来からいきましょうか」

「名前の由来?」

「そうです。『エスカル』という言葉は、ある言葉から抜粋したものなのです。『エスパス デュ カルム』フランス語で、「癒しの空間」という意味です。母はこの言葉を気に入っており、この場所を心に傷を負った者たちにとって癒しの場所にしたいという理由から、店の名前を決めたと聞いています」

素敵な理由だった。心に傷を負った者たちの憩いの場。会った事がなくても、彼の母親がどんな人物だったのか想像できてしまう。

きっと、誰よりも強く、そして心優しい人物だったに違いない。

「癒しの空間。このお店にぴったりすぎますね」

「そうですよね。僕もそう思いますよ。彼女が僕の母親で本当に良かったと」

「会ってみたかったです。綺世さんのお母さんに・・・」

「・・・もし、母に会う事ができたら、伝えておいてください。僕を産んでくれてありがとう。最後まで愛してくれてありがとうと」

「え、でも・・・」

そこまで言って、私は口を静かに閉じた。今の雰囲気に水をさす言葉は必要ないのだから。

「もうひとつ、嘘をついていました。このお店を目視する事ができるのは、高校生だからと言いましたが、それは違います。このお店を目視したり、入店したりできるのは、『真夜中を彷徨う心に傷を負った者』だけになります。嘘をついていて申し訳ないです」

「あの、どうしてそんな嘘をつく必要があったのですか?」

純粋な疑問だった。初めから嘘をつく必要などない気もする。こちら側に何かしらの代償があるならまだしも、今のところそれといった害は見当たらない。

それならばなぜ、彼は嘘をつく必要があったのだろうか。

「初めから心に傷を負っている人と説明すると、中には「自分って病んでいるの?」と勘違いをしてしまうお客様が増えてしまうので、あえて本当のことは伝えず、徐々に来店してもらいつつ心を癒していくというのが、このお店のモットーなのです。自分が傷ついていることを認めたくない人も中にはいますからね」

「だから、嘘をついていたんですか?」

「はい」

どこまでが本当でどこからが嘘なのか全くわからない。

彼は嘘だったと言ってはいるが、どうも私は信じられない。まだ彼は重大な何かを私に隠しているような。

でも、こちら側から聞くことはできない。

これ以上、余計なことを口にして彼を傷付けてしまうことだけは何としてでも避けたい。

「私はこれからどうやって生きていけばいいんでしょうか」

口から出たのは、誰かに向けた言葉ではなく弱々しい独り言のようなものだった。

何でもいいから答えが欲しかった。私がこれからも進んでいけるための大きな一歩を。

「大丈夫だよ」

優しい声だった。私の体を包んでくれるかのような柔らかな声色。

「風梨さんなら、絶対に大丈夫。この先辛いこともあるだろうけれど、あなたにはきっといい未来が待っていますよ。それに、未来は変えられる。僕が話した未来ではなくて、もっと明るい未来が待っているから・・・だから、また会おうね」

「え?」

彼に腕を掴まれ、先導される形でドアの方へと向かう私たち。

突然の出来事に頭だけではなく呼吸もままならない。

一体何が起きているのだろうか。彼の発した言葉の意味を理解するのに、時間がかかってしまうのはどうしてなの。

非現実的な体験をしているってことは理解できた。それなのに、どうしてもある一つの結論だけは受け入れる事ができない。

もう答えは導き出せているのに...

「さ、ここを超えたらもう僕らは会うことはないと思う。たった二日間だけだったけれど、見違えるくらい顔色が良くなった気がするよ。久しぶりって言っても、こんなに若い姿を見たのは初めてだったけれど、会えて良かった。あの日、伝えられなかった感謝の気持ちを伝える事ができて、僕は・・・僕は本当に良かった」

涙ぐみながら話す彼の頬をそっと撫でるように、人差し指で頬を伝う涙を拭き取る。

分かってしまった。私の目に映るこの少年と私がどういった関係性なのか。

綺世...いい名前だね。この名前を付けてくれた両親に感謝だね、綺世。

「お別れになっちゃうね。せっかくまた会えたのに」

「うん。そうだね。僕の世界の母さんは事故で亡くなってしまったけれど、未来は変えられる。だから、そっちの僕のことを悲しませないでね。よろしく頼むよ・・・お母さん」

「うん。私は絶対にあなたを置いて行ったりしないから安心して。綺世が私の息子で、私は誇らしいよ。生まれてきてくれてありがとう。私をあなたの母親にしてくれてありがとうね。って、まだ私は母親ではないけれどね」

「笑わせないでよ。せっかくの感動シーンだったのに!」

「じゃあ、また未来で会おうね」

「うん。またね、母さん」

涙を流す私よりも年上の息子に別れを告げ、私はお店の扉を開けた。

止まっていたはずの時間が、未来へと向けて再び刻み始める。

今度は、絶望ではなく胸に確かな希望を抱いて私は未来へと足を進める。

夜なら逃げられると思っていた。でも、実際は私1人では逃げる場所さえ見つけられなかった。

今は違う。私にはもう逃げる場所なんて必要ない。生きていくための確かな目的が見つかったんだ。

私はいつか出会う未来の我が子のためならいくらでも頑張れる。

例え、家族に罵られようと、妹と比べられようと、私の心の中にはもっと大切な人が存在しているのだから。

今の家族が好きじゃなくてもいい。だから、私が作る家族だけは温かな笑顔が溢れる家族にしたい。

私は迷ったりなんかしないよ。あなたは私のおかげと言ったけれど、私もあなたのおかげで生きる希望を見つける事ができたの。

ありがとう。そして、また会える日を願って、私は大きな一歩を踏み出す。

真っ暗な夜に一筋の光が差した気がした。