「どこから話せばいいんですかね」

顎に手を当て考えているだけなのに、様になっているのは彼の生まれ持った容姿と落ち着いた雰囲気が関係しているからなのだろう。

たったそれだけの行動に目を奪われてしまうなんて、恥ずかしいが現状は目を離せない。

「僕は学生時代、毎日生きるのが辛かったんです。何度も消えていなくなりたいと願って夜を彷徨った日がありました」

声にはならない驚きが私を貫いた。

まさか、自分と同じ境遇の人がこんな身近にいたなんて。

それも、全くそのような過去を持っているとは思えないような人から。

誰が想像できるだろう。昔とはいえ、心に深い闇を抱えていたなんて、今の彼からは微塵も感じられない。

「僕は友人関係にも恵まれて、唯一他人と違うことは、片親だったことぐらいです。僕の父は、僕が生まれてすぐに過労死によって亡くなりました。原因は、僕らを養うために遅くまで働いた結果、睡眠もろくに取れず、そのまま・・・僕も小さかったですから、父のことは母から見せてもらった写真でしか覚えていません。もちろん、悲しかったですが、僕には愛してくれる母親がいました。だから、寂しくなんかなかったですし、母を常に誇りに思ってました」

懐かしむように話す綺世さんだが、私は心臓がギュッてなってしまうほど辛い。

もし、自分が彼の立場だったらと思うと、毎日が苦しくてたまらないだろうし、父親がいない自分を憐んでしまうに違いない。

みんなにはいるのに、どうして自分だけはいないのと...

彼がそうならなかったのは、母親の愛情が強すぎたんだろう。心配をかけないように、息子が寂しくならないように愛したのだ。

彼の母親を見たことはないが、どんな人なのか想像できてしまう。

きっと、どんな困難にも負けずに立ち向かい、強い心を持った女性だったのだろう。

私とは正反対の女性像で、憧れを抱いてしまいそうになる。

私も彼女のような女性になれていたら、現状も少しは変わったのかもしれないのに。

「そうだったんですね」

かける言葉が見当たらなかった私の未熟さに、まだまだ子供なのだと認識させられる。

もう少し大人だったら、かける言葉も変わっていただろうに。

初めて己の未熟さを実感した。

「母は若い時から、独立をしてカフェを経営していました。都心の一等地に位置していたおかげで、売り上げもよくお金には困ってはいませんでした。僕は、母が作ってくれるドリンクが大好きだったんです。他の人には出せないような温かみを含んだ気がして・・・今思うと僕に向けられた愛だったようにも感じます」

「お母さんのこと大好きなんですね」

「もちろんです。母は僕にとって、親だけではなく恩人でもありますから」

「素敵です。あの、お母さんは今でもカフェを経営しているのですか?」

「いえ、母も僕が高校生の時に亡くなってしまいました」

自分を恨んだ。軽はずみな言動によって、今度は彼を傷つけてしまう。

なんで私はいつもこうなんだろうか。

良かれと思って発した言葉もその時には、不正解な答えになるものが多い。

「ご、ごめんなさい!」

「謝ることはないんだよ。知らなかったのだから、仕方のないことだしね」

フッと笑う彼から目が離せない。悲しいはずなのに、笑う彼が私には理解できない。

どうして笑っていられるの?

聞きたかった。でも、二の舞になるのが怖くて聞くことはできなかった。

これだけ話しても私たちの時間が進むことはない。

たった1秒でさえも。

でも、それはいいことなのだろうか。時間に取り残されるということは、孤独になるということではないのだろうか。

人は必ず死ぬ。そう考えると、彼も寂しい人なのかもしれない。

愛するものに置いていかれた結果、彼は選んだのだろうか。

この先、悲しいことに直面しないように、時間の中に取り残されるという選択を。

「話に戻ってもいいかい?」

「は、はい」

「それでね、僕が高校生の時に母が亡くなったってのは話しましたよね?」

「はい、聞きました」

「ちょうど、風梨さんくらいの年齢の時でした。だからなのか、とても懐かしく感じます。まだ母と別れてから、3年ほどしか経っていないのに・・・」

3年...ということは、綺世さんの年齢は20歳くらいということになる。

私と3個しか離れていない事にも驚いたが、それよりも20歳にして両親を失っていることの方がショックだった。

20歳といえど、年齢的に見ると大人の仲間入りを果たす年齢。しかし、社会的に見るとまだまだ20歳は子供でもある。

親の支えなしでは、生活にですら困ってしまう人だってこの世にはたくさんいる。

それなのに、もうすでにそのどちらもが他界しているなんて、辛すぎる上に強制的に独り立ちさせられるということ。

今の私が、仮に1人になったら怖くて何もできやしないだろう。

もしかすると、軽はずみに『死』という選択すらよぎってしまうかもしれない。

「綺世さんはすごいです・・・私と3つしか変わらないのに」

「違いますよ。僕はすごくも何ともないです。もし、僕がすごく見えるのなら、それは母のおかげなんです」

「母のおかげ?」

「はい。母は事故で亡くなったんです。僕が小さい頃から好きだったラベンダーティーを買いに行く途中に、信号無視をした車に轢かれてしまって・・・僕は自分を恨みました。何度も何度も体を殴りつけて、自傷行為もしました。でも、全然痛くはなかった。痛み続けるのは、体ではなくてずっと心だったんです」

「綺世さん・・・」

「そんな時、僕を救ってくれたのは、やはり母でした。ある日、母の遺品の整理をしていた時に見つけたんです。母が残していたもう一つのお店を。昔から気付いてはいたんです。母が夜な夜などこかへと出掛けているのは」

「そ、それって・・・」

「そうです。このお店、『エスカル』は母が僕に遺してくれたお店でした。数々の説明事項と共に手紙が入ってたんです。『エスカルをよろしく。このお店は私が大切な出会いをした場所なの。だから、私が愛するあなたに託します。このお店が存在し続ける限り、私と綺世の絆が切れることはないからね。愛してる』と書かれた手紙を読んだ瞬間涙が止まりませんでした。僕はこんなにも母に愛されているのだと実感できたんです」

「お二人にとって大切な場所だったんですね。まだあ2回しか来たことがないですけど、何だか懐かしい感じがします。それに、私にとっても大切な場所になりそうです」

グラスに入った氷が溶け、お店の気温とグラスの温度の差異によってグラスの表面に水滴がつく。

グラスに触れる手は、ひんやりと心地よく水っぽさを含んでいた。

まるで、彼の冷え切った心を母の愛によって溶かした彼自身の心のように、泣いているように思えた。

そっと両手でグラスを包み込み、私の熱も加えていく。

どうか、これ以上彼が悲しむことがありませんようにと願って。