「いらっしゃいませ。エスカルへようこそ」
店内には、軽快なクラシック音楽が流れており、音楽にマッチするようなデザインの洋風な家具たち。
古さの中に懐かしさがあるようなアンティーク調のものばかり。
椅子・テーブル・時計。全てが、私が普段目にする物とは、値段も価値も違うのだろう。
洗練された木目が、遠目でもわかってしまうくらい見惚れてしまいそうだ。
「あ、あの。初めてきたんですけど」
「そうですか。それでは、お好きな席にどうぞ」
淡々と話す店員さんだが、どう見たって私と変わらない年頃。
白シャツに黒いエプロンを首からぶら下げ、パーマを緩くかけた茶色い髪、ぱっちりとした二目瞼。
不覚にもかっこいいと思ってしまった。
精々見積もっても、大学生が限度。それなのに、このお店には彼しか人は存在しない。
この時間帯にお店を1人で経営しているなんてあるのだろうか。そもそも、喫茶店は深夜にも営業するものなのか...
不安と警戒心がほんのりと高まる。
お兄さんの甘いマスクに見惚れてしまっていたが、あくまでここは知らない場所。
あれ...そういえば、こんなところに喫茶店なんて...
「座らないのですか?」
凛とした声に促されるまま、お兄さんの向かい側に置かれたカウンター席に腰を下ろす。
ほのかに香るコーヒー豆を引いた香ばしい匂い。普段は滅多にコーヒーを飲まないが、この香りは好きだ。
フワッと鼻を掠める苦味を催す香りが妙に落ち着く。
「あ、あの・・・」
「はい、何でしょう」
一つだけ気になったことがある。このお店に入店した時から気になっていたこと。
それが、私を不安にさせた一つの要因でもある。試しにポケットから携帯を取り出すが、やはりダメだった。
「ここって、時間止まっているんですか?」
一瞬驚いたかと思えば、余裕そうな表情のまま微笑むお兄さん。
予想していない私の発言だったらしいが、即座に表情を変えるあたり、初めて聞かれた質問ではないらしい。
「気付きましたか。そもそも、この住宅街にこのお店が存在した記憶ってありますか?」
「いいえ、ないです」
「そうですよね。実はこのお店は、ある特定の人物にしか見えないし、入れない仕様になっているんですよ。言わば、お店に導かれたものだけが許された場所というわけです」
これは、現実なのだろうか。こんな非現実的なことが起きていいのだろうか。
未だにこの状況を飲み込めずにいると、カランっと氷が音を立てたグラスがテーブルに置かれた。
「どうぞ」
差し出されたのは、コーヒーではなく普通のオレンジジュースだった。
「あ、ありがとうございます」
色々と今の状況が飲み込めないが、ひとまず落ち着くために、飲もうとグラスにストローをさす。
掻き回すとカランカランと氷がグラスとぶつかり合う音が響く。
夏を彷彿させる心地のいい音。
かき混ぜたことでフワッと鼻を掠めるオレンジの甘い香り。
下唇にストローを乗せ、オレンジジュースを口に含む。
スーッと爽やかな甘酸っぱい風味が口に広がる。
口当たりは、そのまんまオレンジに齧り付いたかのような感覚。
「え、美味しい・・・」
「無添加の100%オレンジジュースですから。作るのに時間がかかる分、味にも磨きがかかってますよ」
「初めて飲みました。こんなにも違うんですね」
「そうでしたか。全然違いますよね。僕もこれを飲んでからは、無添加以外の物は飲めなくなりましたよ」
確かに、こんなに美味しい者を飲むのが当たり前になってしまったら、舌が肥えて模倣された物は飲めなくなってしまう。
和やかな雰囲気のお兄さんに、落ち着く空間のお店。一体ここは何なのだろうか。
まだ答えを聞けてはいない分、興味が湧いてくる。
数ヶ月間、こんな気持ちになることなんてなかったのに。
「少しは落ち着きましたか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
お兄さんの微笑む顔が優しい顔すぎて直視するのが難しい。きっと、お兄さんはモテるだろうなと思ってしまう。
整った容姿に加え、落ち着いた雰囲気。それに、どこか安心感のあるようなオーラ。
世の女性たちが放っておくはずがない。
「聞きたいことありますか?」
「あ、ありすぎます!」
「お、お兄さんのお名前を教えてください!」
自分でも予想外の発言だった。それ以上に聞かなければいけないことの方が、山ほどあるというのにどうして名前を聞いてしまったのだろうか。
自分でもよくわからない。ただ、お兄さんのことを知りたくなったということだけは確かなこと。
「僕の名前は、綺世っていいます。綺麗の綺に、世界の世と書いて綺世です。失礼ですが、あなたのお名前を聞いてもよろしいでしょうか」
「あ、はい! 私は、風梨。星池風梨と言います。漢字は・・・」
「風に果物の梨ですよね?」
「え、どうして知ってるんですか・・・」
「ごめんなさい。ここはそういう場所なのです。来店されるお客様は事前に把握済みなのです。確認ってことでお聞きしたんですよ」
何もかも見透かしたような目で見つめる綺世さん。でも、なぜだろう。初めて会ったはずなのに、どこか懐かしいような...
それに、私を見つめる瞳がただの他人に対する目ではないような気がする。
どこかで会ったことがあるのだろうか。もし、そうだとしたら、私は絶対に忘れないはずなのだが.。
「とりあえず、僕からざっとこのお店について説明しますね」
オレンジジュースを飲みながら、首を縦に振る。
「ここは、真夜中に現れるお店なのです。そして、高校生にしか目視することができない。二つの条件が重ならないと見えないというわけです。だから今日、風梨さんはここを訪れることができたのです。それに、ここは時間の概念が存在しません。ここで過ごした時間は、現実世界には影響されないため、店に入った時刻と店を出た時刻は同じになります。ここまではいいですか?」
もうすでに頭がパンクしてしまいそう。あり得ない現実を目の前にされて、夢でも見ているのかと疑ってしまいそうだ。
「あ、あの他にもおかしなことがあるんですか?」
段々と信じられなくなってきた。お兄さんがではなく、この意味不明な状況が。
「そうですね〜。あとは特にはないですかね。真夜中以外は、この場所にこのお店は存在しなくなるぐらいかな〜。あ、今日はもうすぐお店が消えてしまうので、また明日もどうぞ。ま、来たくなったらでいいですから」
「わ、わかりました」
空になったグラスには、オレンジジュースの影に隠れていた氷が姿を現して、少しずつ溶けかかっていた。
底に残った微量のオレンジジュースと溶けた氷の水が相まって、透明とオレンジの二種類の層が出来上がっている。
それが、綺麗だった。二つの色が混じり合うことなく共存できているのが、私には魅力的に見えた。
決して交わることなく上手くやれているバランス間が羨ましく思えた。
不思議な感覚。席を立っても壁にかけられた時計は、1分も秒針を未来へと進めてはいない。
まるで、この空間だけが時間という流れから隔離されている。
皆に置いて行かれた気持ちが湧き上がるが、今更私にはなんてことはない。
すでに、私は時間に取り残された出来損ないなのだから。
「また明日も来ますか?」
レジから背中に語りかけてきた綺世さんの言葉に返事をしないまま店を出た。
私はきっと明日もここへ足を運ぶだろう。
返事をしなかったのは、私の心の弱さが出てしまったから。
人を信じることができなくなってしまった己の心の弱さ。そして、これ以上他人と関わることで、傷つきたくはないという自己防衛が働いたのだ。
店を出た瞬間に襲いかかってくる冷気。冬の真夜中の風は、肌をチクチクと刺すみたいだ。
温められたはずの体は、あっという間に冷え込み、益々夜が更けるように外気温も下がっていく。
時間は止まっていたはずなのに、なぜか店に入る前とは視界が違って見えるのはどうしてだろう。
若干だが、積雪量も増えているような...
「あ、そういえば・・・」
お店が消えてしまうのを思い出し、後ろを振り返る。
未だに信じられなかったが、確信に変わるまで時間は必要なかった。
私が先ほどまで温まっていた場所は、足跡が一つもついていない真っ白な更地だった。
店内には、軽快なクラシック音楽が流れており、音楽にマッチするようなデザインの洋風な家具たち。
古さの中に懐かしさがあるようなアンティーク調のものばかり。
椅子・テーブル・時計。全てが、私が普段目にする物とは、値段も価値も違うのだろう。
洗練された木目が、遠目でもわかってしまうくらい見惚れてしまいそうだ。
「あ、あの。初めてきたんですけど」
「そうですか。それでは、お好きな席にどうぞ」
淡々と話す店員さんだが、どう見たって私と変わらない年頃。
白シャツに黒いエプロンを首からぶら下げ、パーマを緩くかけた茶色い髪、ぱっちりとした二目瞼。
不覚にもかっこいいと思ってしまった。
精々見積もっても、大学生が限度。それなのに、このお店には彼しか人は存在しない。
この時間帯にお店を1人で経営しているなんてあるのだろうか。そもそも、喫茶店は深夜にも営業するものなのか...
不安と警戒心がほんのりと高まる。
お兄さんの甘いマスクに見惚れてしまっていたが、あくまでここは知らない場所。
あれ...そういえば、こんなところに喫茶店なんて...
「座らないのですか?」
凛とした声に促されるまま、お兄さんの向かい側に置かれたカウンター席に腰を下ろす。
ほのかに香るコーヒー豆を引いた香ばしい匂い。普段は滅多にコーヒーを飲まないが、この香りは好きだ。
フワッと鼻を掠める苦味を催す香りが妙に落ち着く。
「あ、あの・・・」
「はい、何でしょう」
一つだけ気になったことがある。このお店に入店した時から気になっていたこと。
それが、私を不安にさせた一つの要因でもある。試しにポケットから携帯を取り出すが、やはりダメだった。
「ここって、時間止まっているんですか?」
一瞬驚いたかと思えば、余裕そうな表情のまま微笑むお兄さん。
予想していない私の発言だったらしいが、即座に表情を変えるあたり、初めて聞かれた質問ではないらしい。
「気付きましたか。そもそも、この住宅街にこのお店が存在した記憶ってありますか?」
「いいえ、ないです」
「そうですよね。実はこのお店は、ある特定の人物にしか見えないし、入れない仕様になっているんですよ。言わば、お店に導かれたものだけが許された場所というわけです」
これは、現実なのだろうか。こんな非現実的なことが起きていいのだろうか。
未だにこの状況を飲み込めずにいると、カランっと氷が音を立てたグラスがテーブルに置かれた。
「どうぞ」
差し出されたのは、コーヒーではなく普通のオレンジジュースだった。
「あ、ありがとうございます」
色々と今の状況が飲み込めないが、ひとまず落ち着くために、飲もうとグラスにストローをさす。
掻き回すとカランカランと氷がグラスとぶつかり合う音が響く。
夏を彷彿させる心地のいい音。
かき混ぜたことでフワッと鼻を掠めるオレンジの甘い香り。
下唇にストローを乗せ、オレンジジュースを口に含む。
スーッと爽やかな甘酸っぱい風味が口に広がる。
口当たりは、そのまんまオレンジに齧り付いたかのような感覚。
「え、美味しい・・・」
「無添加の100%オレンジジュースですから。作るのに時間がかかる分、味にも磨きがかかってますよ」
「初めて飲みました。こんなにも違うんですね」
「そうでしたか。全然違いますよね。僕もこれを飲んでからは、無添加以外の物は飲めなくなりましたよ」
確かに、こんなに美味しい者を飲むのが当たり前になってしまったら、舌が肥えて模倣された物は飲めなくなってしまう。
和やかな雰囲気のお兄さんに、落ち着く空間のお店。一体ここは何なのだろうか。
まだ答えを聞けてはいない分、興味が湧いてくる。
数ヶ月間、こんな気持ちになることなんてなかったのに。
「少しは落ち着きましたか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
お兄さんの微笑む顔が優しい顔すぎて直視するのが難しい。きっと、お兄さんはモテるだろうなと思ってしまう。
整った容姿に加え、落ち着いた雰囲気。それに、どこか安心感のあるようなオーラ。
世の女性たちが放っておくはずがない。
「聞きたいことありますか?」
「あ、ありすぎます!」
「お、お兄さんのお名前を教えてください!」
自分でも予想外の発言だった。それ以上に聞かなければいけないことの方が、山ほどあるというのにどうして名前を聞いてしまったのだろうか。
自分でもよくわからない。ただ、お兄さんのことを知りたくなったということだけは確かなこと。
「僕の名前は、綺世っていいます。綺麗の綺に、世界の世と書いて綺世です。失礼ですが、あなたのお名前を聞いてもよろしいでしょうか」
「あ、はい! 私は、風梨。星池風梨と言います。漢字は・・・」
「風に果物の梨ですよね?」
「え、どうして知ってるんですか・・・」
「ごめんなさい。ここはそういう場所なのです。来店されるお客様は事前に把握済みなのです。確認ってことでお聞きしたんですよ」
何もかも見透かしたような目で見つめる綺世さん。でも、なぜだろう。初めて会ったはずなのに、どこか懐かしいような...
それに、私を見つめる瞳がただの他人に対する目ではないような気がする。
どこかで会ったことがあるのだろうか。もし、そうだとしたら、私は絶対に忘れないはずなのだが.。
「とりあえず、僕からざっとこのお店について説明しますね」
オレンジジュースを飲みながら、首を縦に振る。
「ここは、真夜中に現れるお店なのです。そして、高校生にしか目視することができない。二つの条件が重ならないと見えないというわけです。だから今日、風梨さんはここを訪れることができたのです。それに、ここは時間の概念が存在しません。ここで過ごした時間は、現実世界には影響されないため、店に入った時刻と店を出た時刻は同じになります。ここまではいいですか?」
もうすでに頭がパンクしてしまいそう。あり得ない現実を目の前にされて、夢でも見ているのかと疑ってしまいそうだ。
「あ、あの他にもおかしなことがあるんですか?」
段々と信じられなくなってきた。お兄さんがではなく、この意味不明な状況が。
「そうですね〜。あとは特にはないですかね。真夜中以外は、この場所にこのお店は存在しなくなるぐらいかな〜。あ、今日はもうすぐお店が消えてしまうので、また明日もどうぞ。ま、来たくなったらでいいですから」
「わ、わかりました」
空になったグラスには、オレンジジュースの影に隠れていた氷が姿を現して、少しずつ溶けかかっていた。
底に残った微量のオレンジジュースと溶けた氷の水が相まって、透明とオレンジの二種類の層が出来上がっている。
それが、綺麗だった。二つの色が混じり合うことなく共存できているのが、私には魅力的に見えた。
決して交わることなく上手くやれているバランス間が羨ましく思えた。
不思議な感覚。席を立っても壁にかけられた時計は、1分も秒針を未来へと進めてはいない。
まるで、この空間だけが時間という流れから隔離されている。
皆に置いて行かれた気持ちが湧き上がるが、今更私にはなんてことはない。
すでに、私は時間に取り残された出来損ないなのだから。
「また明日も来ますか?」
レジから背中に語りかけてきた綺世さんの言葉に返事をしないまま店を出た。
私はきっと明日もここへ足を運ぶだろう。
返事をしなかったのは、私の心の弱さが出てしまったから。
人を信じることができなくなってしまった己の心の弱さ。そして、これ以上他人と関わることで、傷つきたくはないという自己防衛が働いたのだ。
店を出た瞬間に襲いかかってくる冷気。冬の真夜中の風は、肌をチクチクと刺すみたいだ。
温められたはずの体は、あっという間に冷え込み、益々夜が更けるように外気温も下がっていく。
時間は止まっていたはずなのに、なぜか店に入る前とは視界が違って見えるのはどうしてだろう。
若干だが、積雪量も増えているような...
「あ、そういえば・・・」
お店が消えてしまうのを思い出し、後ろを振り返る。
未だに信じられなかったが、確信に変わるまで時間は必要なかった。
私が先ほどまで温まっていた場所は、足跡が一つもついていない真っ白な更地だった。