「叶愛」
あれから一年経った僕たちは、変わらず隣で、同じ今を生きている。
叶愛の髪はすこしだけ伸びて、僕の身長も止まる前の悪あがきとして二センチほど伸びた。
その僕の声に向けて笑う叶愛の顔は変わらなく可愛い、無邪気さも残したまま、大人になっている。
「想君」
優しくて、暖かくて、そんな叶愛に名前を呼ばれながら自然と微笑んでいる僕自身が日常になった。
失ってしまうなんて影を感じなくなった。
いや、正確に言うなら失ってしまう恐怖を遥かに超える幸せを手にしたのかもしれない。
きっと、そうだ。
「叶愛、忘れ物はない?」
「じゃあ行こうか」
少しだけ主張の強い青空の下を汽車で走っていく。
粗い線路の上を揺られながら、僕たちはある場所へ向かう。
初めて旅行での新幹線内を思い出す、叶愛の声で特別に変わっていく景色が脳裏に浮かぶ。
そしてまた今日も、切り取られていく車窓からの風景が僕たちの中で忘れられない特別へ変わっていく。
降車して肌に触れた生ぬるさも、少し湿気っぽい海風も、そのすべてが心地いい。
「綺麗な海だね」
「人も少なくて景色も良くて、話をするには最適だよね」
叶愛が纏っているスカートの裾が風に揺れる。
砂浜には二人の足跡が残っていく、僕より少し小さい足と歩幅。可愛らしさは残っているけれど、一年前に比べてここでも叶愛は遥かに大人になった。砂浜を少し歩いて、ちょうどよく窪んだ岩に並んで腰掛ける。
「ねぇ想君」
「ん?」
「あれから一年なんて早すぎると思わない?」
「すごく圧倒いう間だった、お互い受験で忙しかったこともあって数えるのも間に合わないくらい早く時間が過ぎていったよね」
僕たちが卒業するまでの数ヶ月は奇妙な程に早かった。
毎日教室で隣の席に座って、くだらない話を数えきれないほどして、卒業式でツーショットを撮って、それを思い出として交わして。
流れゆく瞬間を切り取ると、そこには十分すぎるほどの大切が詰まっている。
神楽は卒業して調理関係の職場へ就職し、白石は志望していた大学へ無事合格。二人は、二人での生活を始めた。忙しそうでなかなか会うことはできないけれど時々送られてくるツーショットを叶愛と見ては「相変わらず仲良いね」と微笑む種になっている。
僕たちは、誰一人取り残されずに幸せな今を歩んでいる。
「ねぇ想君」
「どうしたの?」
「あの話を聴いた時、正直どう思った?」
叶愛はすこしだけ怯えた様子で、僕にそう尋ねた。
あの話を聴いた時、正直どう思った、か。
避け続けていた兄の最期の真相を知った時の衝撃は忘れることができない。
僕と同じ過去を背負っていた人間が、叶愛だったことへの衝撃。
僕とは反対側の立場で、大切を失った叶愛への衝撃。
僕の記憶にあった過去がひっくり返っていく目まぐるしさによる衝撃。
本当に逃げてしまいたいくらいだった。
それでも僕はそのすべてを受け入れて、今、叶愛の隣にいることを選んでいる。
その選択をした理由は明確で、今でも鮮明に覚えている。
「正直少し怖かった、でもそれ以上に安心したのかもしれない」
「安心?」
「いつも笑ってて僕なんかとは釣り合わないって思っていた叶愛と僕に似てるところがあって、もっと僕たちは分かり合える何かがあるのかもしれないって嬉しかったのかも。僕もこんなふうに、叶愛みたいに、生きていいんだって、教えられたような気がしたんだよ」
「そう、だったんだ」
「叶愛は?」
「え?」
「僕にあの話をした時、どんな気持ちになったの」
僕の問いに、久しぶりに難しそうな表情をする叶愛。
懐かしい雰囲気だなとその沈黙に浸りながら、言葉を待つ。
「私は話した瞬間はすごく怖かった、人生で一番鼓動が早くなってた気がする。でも、想君が受け入れてくれてから……その怖さが暖かさに変わったんだ、話せてよかったって思えるようになったの」
「叶愛がそう思えているなら本当によかった」
「私も想君に本当のことを話せてよかった、話せないままだったら今もまだずっと苦しいままだったと思うから」
一年前、僕たちはお互いにすべてを明かしたと思っていた。
それでも僕たちが一年前に知ったことは、二人の過去に秘めていた真実だけだったということを知った。
そして今、僕たちは一年越しにお互いの当時の感情を明かしあっている。
僕たちはまた時間を重ねていく度に、秘密を重ねていくのだろう。それをまた笑いながら二人で包んで次の秘密をつくっていく。
実はあの時言えなかったけど、そんな言葉を幸せな意味で伝え合いたい。
例えば「実はあの時言えなかったけど、付き合って一年目の夏が言い表せないくらい幸せだった」とか。
すべてを知らないことが、僕たちの永遠なのかもしれない。
「ねぇ想君」
「ん?」
「付き合ってもう一年が経つけどさ、これから二人でどんなことをしたい?」
「どんなことか……旅行にも行きたいし、お揃いの服を着て出かけたりもしたい、一緒に美味しいものを食べて「美味しいね」って笑ってたい」
「絶対全部叶えようね、今から楽しみ」
「叶愛は?」
「え?」
「叶愛は一緒にどんなことをしたいの?」
「まだまだ話し足りたいこともたくさんあるだろうから……時間が許す限りお話がしたいな、何年経ってもくだらないことで笑える仲でいたいし、お互いの写真を溢れるくらい撮りたい」
「絶対幸せだね、叶愛のそういう少しロマンチックなところ好きだよ」
「ロマンチックか……あんまり自覚はしてないけど、ありがとう」
あの日、叶愛からの着信を断っていたら、こんなにも明るい未来は訪れていなかったと思う。
隣で笑う顔も、心地いい高さの声も、想像力豊かな未来の話も聴けぬまま、重苦しいもどかしさを抱えていたかもしれないと考えると言い表せない恐怖心に襲われる。
「僕ね、叶愛と出逢えていなかった自分を想像するとすごく怖くなるんだ」
「そうなの?」
「きっとそれなりに生きてはいられていると思うんだけど、どこか空っぽで虚しいような気がして」
「私もその感覚わかるかも」
「叶愛も……?」
「想君に出逢ってから、私は新しい私に出逢えた気がしてるんだよね」
叶愛は照れ臭そうに笑いながら、爪先で海の水面を蹴る。
恥ずかしさを誤魔化しながら「出逢ってくれてありがとう」と呟く。
それは僕のセリフだよと思いながら、今はただ頷くだけという選択肢をとった。今の感情を僕の秘密にした。
またここへ二人で来た時に、叶愛へ伝えられるように。
「叶愛、そろそろ行こうか」
「私が行って本当にいいの?」
「叶愛だから一緒に来てほしいんだ」
熱すぎる太陽に照らされながら、石段を登っていく。
夏の終わりを知らせる蜩の声を掻き分けるように進む。
「ここがお兄さんの今の居場所なんだね」
「もう十一回目の夏になるね……」
今日は兄に、僕の大切な人の話をする。
囚われ続けた過去から僕自身の足で踏み出したことを、そしてその時に僕の手を繋ぎ止めてくれた人が彼女だということを兄に伝えたい。
友達と呼べる存在すらいなかった当時の僕の隣にいてくれた兄へ。
「お兄ちゃん、僕はやっと大切を認めることができたよ」
「初めまして、想君とお付き合いさせていただいている楪叶愛です」
数分前まで少し緊張した表情を浮かべていた叶愛の顔には笑みが溢れていた。そして頬には綺麗な滴が伝っている。
僕たちは隠して、失って、怯えていた十年前のあの夏をすべて打ち明けた。
傷ついたことも、傷つけことも、救われたことも、救ったこともすべてを超えて今の僕と彼女がいる。
恐れていたすべてを明かした後の世界は、想像以上に明るく希望に満ちていた。
叶愛と、僕と、あの夏のすべてが明かされたとしても、僕は僕のままで、叶愛は叶愛のままだった。
この夏が、いつかのあの夏になったら、僕たちはなにを思うのだろう。
「想君」
「ん?」
「いや、やっぱり、今はいいかな」
そう言って笑っている、叶愛はなにを思っているのだろう。
いつかの夏、僕は今呑み込んだ叶愛の言葉を聴きたい。
それはきっと、幸せで溢れた言葉だと思うから。
あれから一年経った僕たちは、変わらず隣で、同じ今を生きている。
叶愛の髪はすこしだけ伸びて、僕の身長も止まる前の悪あがきとして二センチほど伸びた。
その僕の声に向けて笑う叶愛の顔は変わらなく可愛い、無邪気さも残したまま、大人になっている。
「想君」
優しくて、暖かくて、そんな叶愛に名前を呼ばれながら自然と微笑んでいる僕自身が日常になった。
失ってしまうなんて影を感じなくなった。
いや、正確に言うなら失ってしまう恐怖を遥かに超える幸せを手にしたのかもしれない。
きっと、そうだ。
「叶愛、忘れ物はない?」
「じゃあ行こうか」
少しだけ主張の強い青空の下を汽車で走っていく。
粗い線路の上を揺られながら、僕たちはある場所へ向かう。
初めて旅行での新幹線内を思い出す、叶愛の声で特別に変わっていく景色が脳裏に浮かぶ。
そしてまた今日も、切り取られていく車窓からの風景が僕たちの中で忘れられない特別へ変わっていく。
降車して肌に触れた生ぬるさも、少し湿気っぽい海風も、そのすべてが心地いい。
「綺麗な海だね」
「人も少なくて景色も良くて、話をするには最適だよね」
叶愛が纏っているスカートの裾が風に揺れる。
砂浜には二人の足跡が残っていく、僕より少し小さい足と歩幅。可愛らしさは残っているけれど、一年前に比べてここでも叶愛は遥かに大人になった。砂浜を少し歩いて、ちょうどよく窪んだ岩に並んで腰掛ける。
「ねぇ想君」
「ん?」
「あれから一年なんて早すぎると思わない?」
「すごく圧倒いう間だった、お互い受験で忙しかったこともあって数えるのも間に合わないくらい早く時間が過ぎていったよね」
僕たちが卒業するまでの数ヶ月は奇妙な程に早かった。
毎日教室で隣の席に座って、くだらない話を数えきれないほどして、卒業式でツーショットを撮って、それを思い出として交わして。
流れゆく瞬間を切り取ると、そこには十分すぎるほどの大切が詰まっている。
神楽は卒業して調理関係の職場へ就職し、白石は志望していた大学へ無事合格。二人は、二人での生活を始めた。忙しそうでなかなか会うことはできないけれど時々送られてくるツーショットを叶愛と見ては「相変わらず仲良いね」と微笑む種になっている。
僕たちは、誰一人取り残されずに幸せな今を歩んでいる。
「ねぇ想君」
「どうしたの?」
「あの話を聴いた時、正直どう思った?」
叶愛はすこしだけ怯えた様子で、僕にそう尋ねた。
あの話を聴いた時、正直どう思った、か。
避け続けていた兄の最期の真相を知った時の衝撃は忘れることができない。
僕と同じ過去を背負っていた人間が、叶愛だったことへの衝撃。
僕とは反対側の立場で、大切を失った叶愛への衝撃。
僕の記憶にあった過去がひっくり返っていく目まぐるしさによる衝撃。
本当に逃げてしまいたいくらいだった。
それでも僕はそのすべてを受け入れて、今、叶愛の隣にいることを選んでいる。
その選択をした理由は明確で、今でも鮮明に覚えている。
「正直少し怖かった、でもそれ以上に安心したのかもしれない」
「安心?」
「いつも笑ってて僕なんかとは釣り合わないって思っていた叶愛と僕に似てるところがあって、もっと僕たちは分かり合える何かがあるのかもしれないって嬉しかったのかも。僕もこんなふうに、叶愛みたいに、生きていいんだって、教えられたような気がしたんだよ」
「そう、だったんだ」
「叶愛は?」
「え?」
「僕にあの話をした時、どんな気持ちになったの」
僕の問いに、久しぶりに難しそうな表情をする叶愛。
懐かしい雰囲気だなとその沈黙に浸りながら、言葉を待つ。
「私は話した瞬間はすごく怖かった、人生で一番鼓動が早くなってた気がする。でも、想君が受け入れてくれてから……その怖さが暖かさに変わったんだ、話せてよかったって思えるようになったの」
「叶愛がそう思えているなら本当によかった」
「私も想君に本当のことを話せてよかった、話せないままだったら今もまだずっと苦しいままだったと思うから」
一年前、僕たちはお互いにすべてを明かしたと思っていた。
それでも僕たちが一年前に知ったことは、二人の過去に秘めていた真実だけだったということを知った。
そして今、僕たちは一年越しにお互いの当時の感情を明かしあっている。
僕たちはまた時間を重ねていく度に、秘密を重ねていくのだろう。それをまた笑いながら二人で包んで次の秘密をつくっていく。
実はあの時言えなかったけど、そんな言葉を幸せな意味で伝え合いたい。
例えば「実はあの時言えなかったけど、付き合って一年目の夏が言い表せないくらい幸せだった」とか。
すべてを知らないことが、僕たちの永遠なのかもしれない。
「ねぇ想君」
「ん?」
「付き合ってもう一年が経つけどさ、これから二人でどんなことをしたい?」
「どんなことか……旅行にも行きたいし、お揃いの服を着て出かけたりもしたい、一緒に美味しいものを食べて「美味しいね」って笑ってたい」
「絶対全部叶えようね、今から楽しみ」
「叶愛は?」
「え?」
「叶愛は一緒にどんなことをしたいの?」
「まだまだ話し足りたいこともたくさんあるだろうから……時間が許す限りお話がしたいな、何年経ってもくだらないことで笑える仲でいたいし、お互いの写真を溢れるくらい撮りたい」
「絶対幸せだね、叶愛のそういう少しロマンチックなところ好きだよ」
「ロマンチックか……あんまり自覚はしてないけど、ありがとう」
あの日、叶愛からの着信を断っていたら、こんなにも明るい未来は訪れていなかったと思う。
隣で笑う顔も、心地いい高さの声も、想像力豊かな未来の話も聴けぬまま、重苦しいもどかしさを抱えていたかもしれないと考えると言い表せない恐怖心に襲われる。
「僕ね、叶愛と出逢えていなかった自分を想像するとすごく怖くなるんだ」
「そうなの?」
「きっとそれなりに生きてはいられていると思うんだけど、どこか空っぽで虚しいような気がして」
「私もその感覚わかるかも」
「叶愛も……?」
「想君に出逢ってから、私は新しい私に出逢えた気がしてるんだよね」
叶愛は照れ臭そうに笑いながら、爪先で海の水面を蹴る。
恥ずかしさを誤魔化しながら「出逢ってくれてありがとう」と呟く。
それは僕のセリフだよと思いながら、今はただ頷くだけという選択肢をとった。今の感情を僕の秘密にした。
またここへ二人で来た時に、叶愛へ伝えられるように。
「叶愛、そろそろ行こうか」
「私が行って本当にいいの?」
「叶愛だから一緒に来てほしいんだ」
熱すぎる太陽に照らされながら、石段を登っていく。
夏の終わりを知らせる蜩の声を掻き分けるように進む。
「ここがお兄さんの今の居場所なんだね」
「もう十一回目の夏になるね……」
今日は兄に、僕の大切な人の話をする。
囚われ続けた過去から僕自身の足で踏み出したことを、そしてその時に僕の手を繋ぎ止めてくれた人が彼女だということを兄に伝えたい。
友達と呼べる存在すらいなかった当時の僕の隣にいてくれた兄へ。
「お兄ちゃん、僕はやっと大切を認めることができたよ」
「初めまして、想君とお付き合いさせていただいている楪叶愛です」
数分前まで少し緊張した表情を浮かべていた叶愛の顔には笑みが溢れていた。そして頬には綺麗な滴が伝っている。
僕たちは隠して、失って、怯えていた十年前のあの夏をすべて打ち明けた。
傷ついたことも、傷つけことも、救われたことも、救ったこともすべてを超えて今の僕と彼女がいる。
恐れていたすべてを明かした後の世界は、想像以上に明るく希望に満ちていた。
叶愛と、僕と、あの夏のすべてが明かされたとしても、僕は僕のままで、叶愛は叶愛のままだった。
この夏が、いつかのあの夏になったら、僕たちはなにを思うのだろう。
「想君」
「ん?」
「いや、やっぱり、今はいいかな」
そう言って笑っている、叶愛はなにを思っているのだろう。
いつかの夏、僕は今呑み込んだ叶愛の言葉を聴きたい。
それはきっと、幸せで溢れた言葉だと思うから。