人気のない廊下から彼女と教室を覗く。
想像通り神楽と白石、二人だけの空間が広がっていた。そして一つの机で向き合い楽しげな雰囲気を醸し出している。
邪魔をしてしまうことに申し訳なさを感じながらもタイミングを見計らい、彼女と教室へ入る。
「神楽、ちょっと話がある」
「想と楪さんまで……改まってどうしたんだよ」
「神楽君、急でごめんね。それと寧々ちゃんも一緒に来てほしいの」
「私も聴いていいの?ちょっと怖いけど……わかった」
放課後、施錠のできる空き教室へ二人を連れて歩く。
緊迫感に支配されている中、僕は二人へ彼女との関係を告げた。
もちろん、僕と彼女の間にある秘密は隠したまま。
「想と楪さんが付き合った……!?」
「神楽、そんな大きい声で言ったら外に聞こえるだろ」
「叶愛ちゃんおめでとう!久遠君、叶愛ちゃんのこと絶対に泣かせちゃダメだからね」
「白石に心配されなくてもそんなことしないよ」
「想もやる時はやるんだな、どんな感じで告白したの」
「いや、それは……」
「恥ずかしがらないの!久遠君らしくないじゃん」
言えない。
まさか『彼女の方から告白されました』なんて、本当のことを言うわけにはいかない。
嘘はつきたくないけれど、彼女からの告白という事実へ二人が『情けない』と咎めることくらい目に見えている。
「えっと……」
「花火を観てる時に、想君が告白してくれたんです!」
「えっ……」
「想にそんな勇気があったなんて……俺ちょっと想のこと見直したかも」
「失礼なやつだな、本当に」
「叶愛ちゃんは迷わず頷いた感じ?」
「そうですね、すごく嬉しかったので」
『契約』という設定はおろか、告白した日の配役まで彼女の機転によって逆転してしまった。
全く嘘と感じられない彼女の口調と表情に言葉が出ない、肯定も否定もし難い状況に僕は情けなく困惑する。
「夏祭りが始まりなら……デートとかもまだだよね」
「そうですね、いつかできたらいいなって……」
「いつかなんて言ってられないでしょ!そういうのは行ける日に行くの!」
「行ける日……」
「誘うのはもちろん、わかってるよね?」
神楽からの圧を受ける、心なしかいつもより圧が強い気がする。
白石の微笑みからも同じものを感じる。日を重ねるごとに、この二人は良くも悪くも双方に似てきている。
「叶愛さん、今から何か予定あったりする?」
「帰るだけで何もないよ」
「じゃあもしよかったら……」
初めてにしては敷居の高い場所かもしれないけれど、契約的に付き合ってしまった以上お互いのことを深く知らないままでは危険な気がする。
時間と周囲の目を気にせずに話ができる場所は、そこしかない。
「僕の家に来ませんか」
「えっ……」
「想、初デートが家は楪さんも緊張するんじゃないか……?」
「嬉しい、誘ってくれてありがとう」
困惑気味な二人に見送られながら僕達は校舎を出た。
怪しまれないように距離感には気を遣ったけれど、まだ手を繋ぐなんて器用なことはできなかった。
「どうして、家に招いてくれるって言ったの?」
「もしかして嫌だった……?」
「そうじゃなくて、断れない雰囲気だったから想君が無理したんじゃないかなって思って」
「無理なんてしてないよ。僕はただお互いのこと少しでも知っておきたくてさ」
「……お互いのこと?」
「契約的な関係だけど今の僕達は付き合ってる、だから二人で話をする時間が欲しくて」
「そういうことだったんだね、ありがとう」
「こちらこそ」
ー*ー*ー*ー*ー
運よく母が外出中、父が自室で眠っているというタイミングで彼女を誘導することができた。
部屋は普段から整頓していることもあり今のところ何一つ問題はない。
「飲み物を持ってこようと思うんだけど、何がいい?」
「お茶をお願いしようかな」
「緊張するかもしれないけど気は遣わなくていいからね」
「人のお家に入るの初めてて結構緊張してるんだよね、ありがとう」
三年間ほとんどの時間を共にした神楽ですら招いたことがないというのに、契約的に付き合った異性を招き、僕は今、手際よくお茶を差し出している。
改めて、異性を自分の部屋へ招いている僕自身の行動に疑いが止まない。
「いきなり誘っちゃてごめんね」
「大丈夫、私も想君と話す時間が欲しかったし」
お互いを知ると言っても、どこから話し始めるべきか切り出し方に迷う。
今の僕にはあまりにも、彼女について知らないことが多すぎる。好きな食べ物や趣味なんて初歩的なこと、これまでの異性関係やどんな性格をしているかという踏み入ったなんて当然僕は知るはずもない。
きっとそれと同じように、彼女も僕のほとんどを知らないままでいる。
「ねぇ想君」
「ん?」
「私の呼び方、呼び捨てにしてほしいな」
「呼び捨てに……?」
「うん、いつまでもかしこまった感じだと想君も疲れるでしょ」
「お気遣いありがとう、じゃあ叶愛って呼ばせてもらうね」
呼び方が変わった、僕は何も知らないまま彼女を呼び捨てにするほどの距離になることを許されてれてしまった。
「ねぇ叶愛」
「ん?」
「好きな食べ物……何?」
「すごい初歩的な質問だね、好きな食べ物か……たこ焼きとかかな」
「たこ焼きか……いいね」
自分でも何が『いいね』なのか全くわかっていない。
ただ返す言葉と、会話を続ける方法がわからなかった。この調子だと、はやいうちに契約的な付き合いすら終わってしまうような気がする。
「想君は何が好きなの?」
「僕は……うどんかな、蕎麦よりうどん派」
「私も!っていうより私は蕎麦が苦手なだけなんだけどね」
彼女の弾いたような語尾と、それにつられるように上がった口角に僕の心が和んだ。
思っていた以上に緊張感が解れている彼女をみて、どこか安心感を覚える。
何かを探しているような、そして何かを発しようとしているような素振りのあと彼女が思いついたように僕へ向かって目を輝かせた。
「想君の写真とかみてみたいな、私は一年生と二年生の想君を知らないから」
「それなら印刷したものが何枚かあったはず……ほらこれとか……」
まだ袖の余っている入学式の立て看板前での写真、神楽の横でぎこちない表情で映っている部活動での集合写真、そして数十枚の多くを占める修学旅行での写真。
学校名が記載された茶封筒から三年分の思い出が映された写真を取り出していく。
「これ……修学旅行の写真?」
「そう、二年の頃だから……ちょうど一年前くらいかな」
「隣が神楽君で、その隣が寧々ちゃんだよね」
「そうそう、観光する時の班が一緒でさ。大体の写真はこの三人で写ってると思う」
「本当に三人は仲良いよね」
「僕の人脈が狭いからこそ仲が深まったのかも」
「三人とも同じ中学校なの?」
「僕と白石が同じで、神楽は高校から。でもクラスは三年間一緒なんだよね」
「そうだったんだ……」
「大丈夫だよ、叶愛もわかってると思うけど一緒にいた時間の差なんて感じさせないくらい楽しくて素敵なメンバーだからさ」
今まで言葉にしたことはなかったけれど、僕は神楽と白石にそんな思いを抱いていたらしい。
僕にない明るさを持つ二人がきっと、僕の中で大切な存在になってしまっているという目を瞑っていた事実が突き刺さって抜けない。
「『類は友を呼ぶ』って言うよね、だからきっと想君も楽しくて素敵な人なんだよ」
「そうなのかな、そうだと嬉しいな」
彼女自身が写っていない写真を、彼女は一枚ずつ手に取りながら丁寧に眺めていく。
どの写真に対しても楽しげな表情を浮かべ、時々『この写真、私好きだよ』と声をかけてくる。契約的な告白を受けた時は、少し計算高さと小賢しさがあるのかと警戒したけれど、きっと彼女は素直でまっすぐな人間なのだと今、確信した。
「想君っていつも笑ってるんだね」
「僕?」
「写真に映ってる想君、見る限り全部笑ってるんだよね」
「あんまり意識はしてなかったけど……写真を撮られるって思うと反射的に笑っちゃうのかな」
指摘されて初めて気づいた僕自身の笑った表情。
僕の表情を指差しながら褒める彼女の言葉に、少し照れ臭くなり顔を背けてしまう。
「人から表情のことを言われるなんて滅多にないから恥ずかしいな」
「表情が豊かっていいことだと思うよ、羨ましい」
「羨ましい……?」
「なんでもない!変なこと言っちゃってごめんね」
焦った様子で訂正し、僕に写真を返す。
和んできた雰囲気に流されて踏み入ってはいけないことを聞き返してしまったのかもしれないと申し訳なくなる。
「せっかく話してくれてたのにごめんね、何か違う話をしようか」
「大丈夫、想君が悪いわけじゃないからさ」
「そういえば、叶愛さんの通っていた学校は修学旅行でどこに行ったの?」
重さで傾いてしまいそうな雰囲気を、質問で強引に打ち砕く。
きっとぎこちなく上がっている口角と無理矢理な無邪気さを含ませた声のトーンを彼女へ向ける。
そんな僕の様子に戸惑いながらも、彼女は唇に当てていたコップを置き口を開く。
「私は行けてないんだよね、小学校も中学校も高校も修学旅行は誰かの写真を後から見る担当なんだ」
「そうだったんだ……それって楽しいものなの?」
「案外楽しいよ、みんなが笑ってるから実際に行った気分になれるし」
「もしかして叶愛、旅行とか遠出は苦手……?」
「旅行自体は好きなんだけど、たくさんの人と何日も一緒ってなると少しきついかな」
「そうだったんだ、じゃあ普通の旅行とかは好きなの?」
「最近は行けてないけど、小さい頃はよくお父さんとお母さんと一緒に家族旅行に行ってたよ」
「家族旅行か……楽しそうだね!今まで行った中でどこが一番楽しかった?」
「アニメーション映画が大好きなんだけど、その映画のテーマパークが期間限定で日本に上陸して……そこに連れて行ってもらった時は本当に楽しかったな」
「映画か……僕あんまり映画に詳しくないからさ、今度一緒に見に行った時に色々教えてくれたら嬉しいな」
「それなら任せて!映画館は一時期週一で通ってたからベテランだよ」
冗談まじりに話をする今の彼女の表情に先ほどの影はない。
数分前、写真を返された時に感じた影は、僕の勘違いだったのかもしれない。
「お父さんとお母さんってことは叶愛、一人っ子?」
「そうそう、お母さんもお父さんも兄弟が多い環境で育ったから子供は一人がいいって話になったんだって」
「そうなんだ、なんとなく叶愛にはお姉ちゃんがいるのかなって思ってた」
「本当になんとなくだね」
「そうだね、本当になんとなくね。強いて言うなら僕の勘かな、当たらなかったけど」
「何それ、想君面白いね」
知り合ったばかりとは思えないほどの自然な距離感と口調、それとは対照的な神楽への人見知りの仕方、白石への甘え方、愛想のない僕への距離の詰め方。その全てからなんとなく、僕は彼女の妹気質を感じていた。
僕は僕なりに、無意識のうちに、彼女のことを知ろうとしていたのかもしれない。
「想君も一人っ子?」
「今は一人だけど、本当はお兄ちゃんもいるんだ」
「お兄さんか……想君が弟っていうイメージないかも」
「そうかな」
「うん、想君は頼り甲斐のあるお兄さんってイメージ」
「頼り甲斐のあるお兄さんか……」
「ねぇ想君のお兄さんってどんな人?」
「そうだな……改めて説明するってなると少し難しいけど……」
一回り以上歳が離れていて、低身長の父と母とは似つかないほどの高身長で、騙されやすくて痛い目を見ることもあるけれど、それ以上にたくさんの人に恵まれてきた。
愛想がよく、人に優しい、僕とは正反対の人間。
そして僕が大好きで、大切な人。
「僕と一回り近く歳が離れてて、すごく優しい人だよ。簡潔にまとめるとね」
「そんなに歳が離れているなら想君が小さい時はたくさん遊びに行ったんじゃない?」
「そうだね、遠くに行くことはできなかったんだけど、よく一緒に遊んでくれたよ」
「何をして遊んだ時が一番楽しかった?」
「お花の名前とか花言葉を教えてもらっていた時かな、兄はすごく物知りでさ」
「そういう時間もいいね」
「ありがとう」
「二人で撮った写真とかある?」
「そんなに多くは持ってないけど……これとかわかりやすいかな」
「確かに目元がそっくりだね、この笑った時の感じが特に似てる」
大半の時間を病院で過ごしていた僕にとって、兄との遊びは院内の中庭を車椅子で散歩することだった。睡眠、食事、運動、生きるための行為全てに、先の見えない制限が課せられていた僕の生活にとって、兄と言葉を交わす時間は光であり希望そのものだった。
「もし叶愛に兄弟がいたとしたら何がしたい?」
「私はお姉ちゃんになってみたいってずっと思っているんだけど、もしその夢が叶っていたら妹をたくさん可愛がりたい」
「可愛がる?」
「髪を結ってあげたり、お揃いの服で出掛けたり、可愛いスイーツを一緒に食べたり、恋話したり!たくさん甘やかしたいな」
「叶愛は、すごくいいお姉さんになりそうだね」
ありもしない空想の話が膨らんでいく。
途切れることなく続いていく会話に少し違和感を覚えるけれど、どこかそれが心地よかった。必要以上に空気を読んで気を遣う感覚が、今の僕の中にはない。
「ねぇ想君」
「ん?」
「想君のお兄さんは今どこにいるの?」
「……え?」
「今は一緒にいないってことは歳も離れてるし、違うところに住んでるのかなって思って」
「お兄ちゃんは今……」
真実を告げるべきか、それとも嘘で誤魔化すべきか。知らないとしらを切るべきか、無理矢理にでも話を逸らすべきか。
数秒間で無数の選択肢が脳を駆け巡る、きっと兄の本当のことなど彼女には関係のないことで聞き流せる程度のこと。契約的に付き合った異性の親族のことなんて数ヶ月すれば忘れる、そうであってほしい。
「事故で亡くなったんだよ」
「事故……?」
「ちょうど十年前にね、交通事故で亡くなっちゃて」
「ねぇ想君」
「ん?」
「答えたくなかったら答えなくて大丈夫なんだけどね」
「……うん」
彼女の顔色が曇る。
動揺したように、こころなしか少し顔色もよくないような気がする。彼女は躊躇いながらも深く息を吸い、僕へ問う。
「その事故が起きた場所って、どこ?」
「確か……ここからすぐ近くの大学病院前の大通りだった気がするよ、僕も小さかったから正確には分かってないんだけどね」
「そうだったんだ、ごめんね、突然変なこと訊いて」
「僕は全然大丈夫だけど、その事故がどうかしたの?」
「なんでもないよ。ただ最近に起きた事故だったら、余計に思い出させちゃってないかなってちょっと心配になったの。最近もこの辺りで事故があったみたいだからさ」
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ、最初にも言ったけどもう十年も前の話だからね」
「そうだよね、最初に話してくれていたのに言葉の衝撃が強くて頭から抜けちゃってた。ごめんね」
『もう十年も前のこと』と僕自身が言葉にしてしまった。
何年経っても、あの日の、あの瞬間を引きずっている僕が、その場を逃げるためにそんな言葉を発している。きっと今日は上手く眠れない、目を瞑ることすら億劫な夜になってしまうかもしれない。
目を瞑った暗さの中に、記憶の中の兄の影が映ってしまう夜が来る。
「そろそろ外も暗くなってきたし帰ろうか、叶愛が嫌じゃなければ駅まで送るよ」
「長居しちゃってごめんね……でも色々話せて良かった、ありがとう」
母が帰ってくる前に、父が目を覚ます前に、彼女を家へ返す。なるべく街頭の多い通りを選び駅へ向かう。
電車が到着するまで待ち、車窓越しに手を振る彼女に手を振り見送る。
送り出した後、僕は原因のわからない寂しさに襲われた。
想像通り神楽と白石、二人だけの空間が広がっていた。そして一つの机で向き合い楽しげな雰囲気を醸し出している。
邪魔をしてしまうことに申し訳なさを感じながらもタイミングを見計らい、彼女と教室へ入る。
「神楽、ちょっと話がある」
「想と楪さんまで……改まってどうしたんだよ」
「神楽君、急でごめんね。それと寧々ちゃんも一緒に来てほしいの」
「私も聴いていいの?ちょっと怖いけど……わかった」
放課後、施錠のできる空き教室へ二人を連れて歩く。
緊迫感に支配されている中、僕は二人へ彼女との関係を告げた。
もちろん、僕と彼女の間にある秘密は隠したまま。
「想と楪さんが付き合った……!?」
「神楽、そんな大きい声で言ったら外に聞こえるだろ」
「叶愛ちゃんおめでとう!久遠君、叶愛ちゃんのこと絶対に泣かせちゃダメだからね」
「白石に心配されなくてもそんなことしないよ」
「想もやる時はやるんだな、どんな感じで告白したの」
「いや、それは……」
「恥ずかしがらないの!久遠君らしくないじゃん」
言えない。
まさか『彼女の方から告白されました』なんて、本当のことを言うわけにはいかない。
嘘はつきたくないけれど、彼女からの告白という事実へ二人が『情けない』と咎めることくらい目に見えている。
「えっと……」
「花火を観てる時に、想君が告白してくれたんです!」
「えっ……」
「想にそんな勇気があったなんて……俺ちょっと想のこと見直したかも」
「失礼なやつだな、本当に」
「叶愛ちゃんは迷わず頷いた感じ?」
「そうですね、すごく嬉しかったので」
『契約』という設定はおろか、告白した日の配役まで彼女の機転によって逆転してしまった。
全く嘘と感じられない彼女の口調と表情に言葉が出ない、肯定も否定もし難い状況に僕は情けなく困惑する。
「夏祭りが始まりなら……デートとかもまだだよね」
「そうですね、いつかできたらいいなって……」
「いつかなんて言ってられないでしょ!そういうのは行ける日に行くの!」
「行ける日……」
「誘うのはもちろん、わかってるよね?」
神楽からの圧を受ける、心なしかいつもより圧が強い気がする。
白石の微笑みからも同じものを感じる。日を重ねるごとに、この二人は良くも悪くも双方に似てきている。
「叶愛さん、今から何か予定あったりする?」
「帰るだけで何もないよ」
「じゃあもしよかったら……」
初めてにしては敷居の高い場所かもしれないけれど、契約的に付き合ってしまった以上お互いのことを深く知らないままでは危険な気がする。
時間と周囲の目を気にせずに話ができる場所は、そこしかない。
「僕の家に来ませんか」
「えっ……」
「想、初デートが家は楪さんも緊張するんじゃないか……?」
「嬉しい、誘ってくれてありがとう」
困惑気味な二人に見送られながら僕達は校舎を出た。
怪しまれないように距離感には気を遣ったけれど、まだ手を繋ぐなんて器用なことはできなかった。
「どうして、家に招いてくれるって言ったの?」
「もしかして嫌だった……?」
「そうじゃなくて、断れない雰囲気だったから想君が無理したんじゃないかなって思って」
「無理なんてしてないよ。僕はただお互いのこと少しでも知っておきたくてさ」
「……お互いのこと?」
「契約的な関係だけど今の僕達は付き合ってる、だから二人で話をする時間が欲しくて」
「そういうことだったんだね、ありがとう」
「こちらこそ」
ー*ー*ー*ー*ー
運よく母が外出中、父が自室で眠っているというタイミングで彼女を誘導することができた。
部屋は普段から整頓していることもあり今のところ何一つ問題はない。
「飲み物を持ってこようと思うんだけど、何がいい?」
「お茶をお願いしようかな」
「緊張するかもしれないけど気は遣わなくていいからね」
「人のお家に入るの初めてて結構緊張してるんだよね、ありがとう」
三年間ほとんどの時間を共にした神楽ですら招いたことがないというのに、契約的に付き合った異性を招き、僕は今、手際よくお茶を差し出している。
改めて、異性を自分の部屋へ招いている僕自身の行動に疑いが止まない。
「いきなり誘っちゃてごめんね」
「大丈夫、私も想君と話す時間が欲しかったし」
お互いを知ると言っても、どこから話し始めるべきか切り出し方に迷う。
今の僕にはあまりにも、彼女について知らないことが多すぎる。好きな食べ物や趣味なんて初歩的なこと、これまでの異性関係やどんな性格をしているかという踏み入ったなんて当然僕は知るはずもない。
きっとそれと同じように、彼女も僕のほとんどを知らないままでいる。
「ねぇ想君」
「ん?」
「私の呼び方、呼び捨てにしてほしいな」
「呼び捨てに……?」
「うん、いつまでもかしこまった感じだと想君も疲れるでしょ」
「お気遣いありがとう、じゃあ叶愛って呼ばせてもらうね」
呼び方が変わった、僕は何も知らないまま彼女を呼び捨てにするほどの距離になることを許されてれてしまった。
「ねぇ叶愛」
「ん?」
「好きな食べ物……何?」
「すごい初歩的な質問だね、好きな食べ物か……たこ焼きとかかな」
「たこ焼きか……いいね」
自分でも何が『いいね』なのか全くわかっていない。
ただ返す言葉と、会話を続ける方法がわからなかった。この調子だと、はやいうちに契約的な付き合いすら終わってしまうような気がする。
「想君は何が好きなの?」
「僕は……うどんかな、蕎麦よりうどん派」
「私も!っていうより私は蕎麦が苦手なだけなんだけどね」
彼女の弾いたような語尾と、それにつられるように上がった口角に僕の心が和んだ。
思っていた以上に緊張感が解れている彼女をみて、どこか安心感を覚える。
何かを探しているような、そして何かを発しようとしているような素振りのあと彼女が思いついたように僕へ向かって目を輝かせた。
「想君の写真とかみてみたいな、私は一年生と二年生の想君を知らないから」
「それなら印刷したものが何枚かあったはず……ほらこれとか……」
まだ袖の余っている入学式の立て看板前での写真、神楽の横でぎこちない表情で映っている部活動での集合写真、そして数十枚の多くを占める修学旅行での写真。
学校名が記載された茶封筒から三年分の思い出が映された写真を取り出していく。
「これ……修学旅行の写真?」
「そう、二年の頃だから……ちょうど一年前くらいかな」
「隣が神楽君で、その隣が寧々ちゃんだよね」
「そうそう、観光する時の班が一緒でさ。大体の写真はこの三人で写ってると思う」
「本当に三人は仲良いよね」
「僕の人脈が狭いからこそ仲が深まったのかも」
「三人とも同じ中学校なの?」
「僕と白石が同じで、神楽は高校から。でもクラスは三年間一緒なんだよね」
「そうだったんだ……」
「大丈夫だよ、叶愛もわかってると思うけど一緒にいた時間の差なんて感じさせないくらい楽しくて素敵なメンバーだからさ」
今まで言葉にしたことはなかったけれど、僕は神楽と白石にそんな思いを抱いていたらしい。
僕にない明るさを持つ二人がきっと、僕の中で大切な存在になってしまっているという目を瞑っていた事実が突き刺さって抜けない。
「『類は友を呼ぶ』って言うよね、だからきっと想君も楽しくて素敵な人なんだよ」
「そうなのかな、そうだと嬉しいな」
彼女自身が写っていない写真を、彼女は一枚ずつ手に取りながら丁寧に眺めていく。
どの写真に対しても楽しげな表情を浮かべ、時々『この写真、私好きだよ』と声をかけてくる。契約的な告白を受けた時は、少し計算高さと小賢しさがあるのかと警戒したけれど、きっと彼女は素直でまっすぐな人間なのだと今、確信した。
「想君っていつも笑ってるんだね」
「僕?」
「写真に映ってる想君、見る限り全部笑ってるんだよね」
「あんまり意識はしてなかったけど……写真を撮られるって思うと反射的に笑っちゃうのかな」
指摘されて初めて気づいた僕自身の笑った表情。
僕の表情を指差しながら褒める彼女の言葉に、少し照れ臭くなり顔を背けてしまう。
「人から表情のことを言われるなんて滅多にないから恥ずかしいな」
「表情が豊かっていいことだと思うよ、羨ましい」
「羨ましい……?」
「なんでもない!変なこと言っちゃってごめんね」
焦った様子で訂正し、僕に写真を返す。
和んできた雰囲気に流されて踏み入ってはいけないことを聞き返してしまったのかもしれないと申し訳なくなる。
「せっかく話してくれてたのにごめんね、何か違う話をしようか」
「大丈夫、想君が悪いわけじゃないからさ」
「そういえば、叶愛さんの通っていた学校は修学旅行でどこに行ったの?」
重さで傾いてしまいそうな雰囲気を、質問で強引に打ち砕く。
きっとぎこちなく上がっている口角と無理矢理な無邪気さを含ませた声のトーンを彼女へ向ける。
そんな僕の様子に戸惑いながらも、彼女は唇に当てていたコップを置き口を開く。
「私は行けてないんだよね、小学校も中学校も高校も修学旅行は誰かの写真を後から見る担当なんだ」
「そうだったんだ……それって楽しいものなの?」
「案外楽しいよ、みんなが笑ってるから実際に行った気分になれるし」
「もしかして叶愛、旅行とか遠出は苦手……?」
「旅行自体は好きなんだけど、たくさんの人と何日も一緒ってなると少しきついかな」
「そうだったんだ、じゃあ普通の旅行とかは好きなの?」
「最近は行けてないけど、小さい頃はよくお父さんとお母さんと一緒に家族旅行に行ってたよ」
「家族旅行か……楽しそうだね!今まで行った中でどこが一番楽しかった?」
「アニメーション映画が大好きなんだけど、その映画のテーマパークが期間限定で日本に上陸して……そこに連れて行ってもらった時は本当に楽しかったな」
「映画か……僕あんまり映画に詳しくないからさ、今度一緒に見に行った時に色々教えてくれたら嬉しいな」
「それなら任せて!映画館は一時期週一で通ってたからベテランだよ」
冗談まじりに話をする今の彼女の表情に先ほどの影はない。
数分前、写真を返された時に感じた影は、僕の勘違いだったのかもしれない。
「お父さんとお母さんってことは叶愛、一人っ子?」
「そうそう、お母さんもお父さんも兄弟が多い環境で育ったから子供は一人がいいって話になったんだって」
「そうなんだ、なんとなく叶愛にはお姉ちゃんがいるのかなって思ってた」
「本当になんとなくだね」
「そうだね、本当になんとなくね。強いて言うなら僕の勘かな、当たらなかったけど」
「何それ、想君面白いね」
知り合ったばかりとは思えないほどの自然な距離感と口調、それとは対照的な神楽への人見知りの仕方、白石への甘え方、愛想のない僕への距離の詰め方。その全てからなんとなく、僕は彼女の妹気質を感じていた。
僕は僕なりに、無意識のうちに、彼女のことを知ろうとしていたのかもしれない。
「想君も一人っ子?」
「今は一人だけど、本当はお兄ちゃんもいるんだ」
「お兄さんか……想君が弟っていうイメージないかも」
「そうかな」
「うん、想君は頼り甲斐のあるお兄さんってイメージ」
「頼り甲斐のあるお兄さんか……」
「ねぇ想君のお兄さんってどんな人?」
「そうだな……改めて説明するってなると少し難しいけど……」
一回り以上歳が離れていて、低身長の父と母とは似つかないほどの高身長で、騙されやすくて痛い目を見ることもあるけれど、それ以上にたくさんの人に恵まれてきた。
愛想がよく、人に優しい、僕とは正反対の人間。
そして僕が大好きで、大切な人。
「僕と一回り近く歳が離れてて、すごく優しい人だよ。簡潔にまとめるとね」
「そんなに歳が離れているなら想君が小さい時はたくさん遊びに行ったんじゃない?」
「そうだね、遠くに行くことはできなかったんだけど、よく一緒に遊んでくれたよ」
「何をして遊んだ時が一番楽しかった?」
「お花の名前とか花言葉を教えてもらっていた時かな、兄はすごく物知りでさ」
「そういう時間もいいね」
「ありがとう」
「二人で撮った写真とかある?」
「そんなに多くは持ってないけど……これとかわかりやすいかな」
「確かに目元がそっくりだね、この笑った時の感じが特に似てる」
大半の時間を病院で過ごしていた僕にとって、兄との遊びは院内の中庭を車椅子で散歩することだった。睡眠、食事、運動、生きるための行為全てに、先の見えない制限が課せられていた僕の生活にとって、兄と言葉を交わす時間は光であり希望そのものだった。
「もし叶愛に兄弟がいたとしたら何がしたい?」
「私はお姉ちゃんになってみたいってずっと思っているんだけど、もしその夢が叶っていたら妹をたくさん可愛がりたい」
「可愛がる?」
「髪を結ってあげたり、お揃いの服で出掛けたり、可愛いスイーツを一緒に食べたり、恋話したり!たくさん甘やかしたいな」
「叶愛は、すごくいいお姉さんになりそうだね」
ありもしない空想の話が膨らんでいく。
途切れることなく続いていく会話に少し違和感を覚えるけれど、どこかそれが心地よかった。必要以上に空気を読んで気を遣う感覚が、今の僕の中にはない。
「ねぇ想君」
「ん?」
「想君のお兄さんは今どこにいるの?」
「……え?」
「今は一緒にいないってことは歳も離れてるし、違うところに住んでるのかなって思って」
「お兄ちゃんは今……」
真実を告げるべきか、それとも嘘で誤魔化すべきか。知らないとしらを切るべきか、無理矢理にでも話を逸らすべきか。
数秒間で無数の選択肢が脳を駆け巡る、きっと兄の本当のことなど彼女には関係のないことで聞き流せる程度のこと。契約的に付き合った異性の親族のことなんて数ヶ月すれば忘れる、そうであってほしい。
「事故で亡くなったんだよ」
「事故……?」
「ちょうど十年前にね、交通事故で亡くなっちゃて」
「ねぇ想君」
「ん?」
「答えたくなかったら答えなくて大丈夫なんだけどね」
「……うん」
彼女の顔色が曇る。
動揺したように、こころなしか少し顔色もよくないような気がする。彼女は躊躇いながらも深く息を吸い、僕へ問う。
「その事故が起きた場所って、どこ?」
「確か……ここからすぐ近くの大学病院前の大通りだった気がするよ、僕も小さかったから正確には分かってないんだけどね」
「そうだったんだ、ごめんね、突然変なこと訊いて」
「僕は全然大丈夫だけど、その事故がどうかしたの?」
「なんでもないよ。ただ最近に起きた事故だったら、余計に思い出させちゃってないかなってちょっと心配になったの。最近もこの辺りで事故があったみたいだからさ」
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ、最初にも言ったけどもう十年も前の話だからね」
「そうだよね、最初に話してくれていたのに言葉の衝撃が強くて頭から抜けちゃってた。ごめんね」
『もう十年も前のこと』と僕自身が言葉にしてしまった。
何年経っても、あの日の、あの瞬間を引きずっている僕が、その場を逃げるためにそんな言葉を発している。きっと今日は上手く眠れない、目を瞑ることすら億劫な夜になってしまうかもしれない。
目を瞑った暗さの中に、記憶の中の兄の影が映ってしまう夜が来る。
「そろそろ外も暗くなってきたし帰ろうか、叶愛が嫌じゃなければ駅まで送るよ」
「長居しちゃってごめんね……でも色々話せて良かった、ありがとう」
母が帰ってくる前に、父が目を覚ます前に、彼女を家へ返す。なるべく街頭の多い通りを選び駅へ向かう。
電車が到着するまで待ち、車窓越しに手を振る彼女に手を振り見送る。
送り出した後、僕は原因のわからない寂しさに襲われた。