真夜中の公園を、月明かりばかりが照らしていた。
 風はなく、音もない。
 ただ静かに、寒さをまとう春の夜の時間が、そこにはあった。

「どうして? なんで、翔が……。だって、翔は、翔は……」

「死んだはずなのに、ってか?」

 目の前に立つ彼が、ニカッと笑う。快活な笑顔。言葉とのミスマッチが激しい。

「って、ええっ!? 死んだはずって、えっ? えぇ?」

「はははっ、雪城も相変わらずいい反応するなあ。ほんともったいない。でもまぁ、ここまで来たら話すよ、全部。嘘ついてた理由も」

 あけすけに笑ってから、彼は私のほうに向かって歩いてきた。びっくりして避けるも、彼は私の腕と足を通り抜け、そのまま公園の入り口付近で立ち尽くす小鳥遊くんの前まで歩を進めた。

「涼、最初に言っておくが、俺は死んだ。10年前にな。理由もお前の記憶通り、飼い猫だった"みーた"が脱走して俺とお前で探しに出て、その途中で俺はこの近くの交差点で車に撥ねられた。それで死んだ」

「……だよ、な。じゃあ、なんで……?」

「なんでもなにも、お前がだらしないからだ」

 夜でもわかるくらい真っ青な小鳥遊くんに、彼はぴしゃりと言い放った。

「お前さ、何様のつもりなんだよ。確かにあの時、みーたはお前がドアを開けた隙に逃げ出した。でもそれだけで、なんでお前がそこまで自分を責めてんだよ。悪いのは、みーたを見つけて道路に飛び出した俺だろーが」

「違うっ! 悪いのは僕だっ! 僕が、あの時、みーたを逃さなかったら……翔が車に撥ねられることも、なかったんだ……」

 小鳥遊くんの悲痛な叫びが耳を衝いた。胸の前で、思わず手を握る。
 ようやくわかった。
 そうだったんだ。だから小鳥遊くんは、あんなに自分に怒っていたんだ。
 小鳥遊くんの瞳から涙が伝った。
 気持ちが、痛いほどに伝わってきた。
 誰かの人生を犠牲にして、自分が生きる。大切な人の人生が、自分のせいで狂わされる。それは、生き地獄そのものだ。

「まあ確かに、その可能性はある。もしあの時、涼がドアを開けるのを待っていれば、みーたは逃げなかったかもしれない。そして俺は、確かに轢かれなかったかもしれない」

「だ、だろ。だったら……」

「ハッ。だからどうしたってんだ」

 彼が、嫌味っぽく笑った。

「思い上がりも大概にしろ。そんなたられば言ってても仕方ねーだろーが」

 さらに数歩、彼は小鳥遊くんとの距離を詰めた。その表情には、怒りがこもっていた。

「どこの世界に、最善手だけ選んで生きてる人間がいるんだよ。神様じゃねーんだよ。まして、死んで幽霊になってても無理なくらいなんだよ。傲慢すぎるんだよ、お前は」

 怒涛の勢いで、彼は小鳥遊くんに詰め寄った。さすがに、これは……。

「で、でも……僕が」

「でももだってもねーよ。うだうだ悩んでる暇があったら、少しでも有意義に楽しく毎日を過ごせよバーカ。はっきり言ってな、お前みたいなの見てるとイライラするんだよ。ほんと何様だよ、まったく」

「……い、言い過ぎだよ!」

 私は、思わず声をあげた。土を蹴って小鳥遊くんに駆け寄ると、彼との間に割って入った。もう聞いていられなかった。

「あ、あなたに、小鳥遊くんの何がわかるの! 小鳥遊くんは、ずっと悩んでたんだよ! 授業中も、休み時間も、放課後も、大好きな猫と一緒にいる時だって! すごく、苦しそうにしてたんだから!」

 感情が口から漏れ出す。言葉を考える前に、こぼれ落ちて音になる。もう、止められなかった。

「大切な人の人生を犠牲にして、それでも生きないといけないって、すごく苦しいんだから。自分の気持ちとか全部押し殺して生きていくって、すごく辛いんだから。あなたに生きてほしいって、自由に生きてほしかったって、いつもいつも、思ってて。それなのに、小鳥遊くんは優しくて、私なんかよりもっと苦しんでるのに、そんな酷いこと言わないで!」

 息が切れる。冷たい空気ばかりを吸い込んで、喉が、肺が痛い。ヒリヒリと胸も焼けている気がする。
 嘘だ、と思った。
 同時に、嘘じゃない、とも思った。
 これは、確かに私が思っていたことだ。気持ちだ。
 でも、本当は、私が聞きたくなかっただけだ。
 彼の、小鳥遊翔くんの言葉は、そのどれもが私にも向けられている気がしてならなかった。
 痛かった。
 苦しかった。
 そんなこと、言わないでほしかった。

「もっと、小鳥遊くんの気持ち、考えてよ……」

 本当は、私が私のために言った言葉だった。
 どこまでもズルい女だな。そう思った。
 一通り叫び終えると、静けさが辺りに満ちていった。
 小鳥遊くんも、翔くんも、何も言わない。
 心が、頭が、冷えていく。
 ……これ、どうしたらいいんだろう。

「……くっ」

「え?」

 笑い声が聞こえた気がして、私は顔を上げた。

「ははははははははっ!」

「え、ええっ!?」

 突然、翔くんが笑い出した。今までで、一番大きくて楽しそうな笑い声だ。私は戸惑った。

「ははははっ、あーおかしいっ。ククッ、やっぱ雪城、面白いよ。ほんと」

「お、面白いって、私は本当に……」

「あぁ、出せたじゃん。本当の自分」

「え?」

 彼の言葉に、首を傾げる。

「雪城も、涼と同じでずっと何かに悩んでたみたいだったからな。放っておけなかった。少し笑ってくれたり、ちょっとだけ話してくれたりはするけど、自分のことは全然言わないじゃん。こっそり盗み見てた涼と同じ顔してたから、同じようなことで悩んでるんだろうなって思ってさ」

「え、同じようなことって……雪城、それほんと?」

「え、あ、えと……まあ」

 しまった。勢いでいろいろ言ってしまったけど、自分のことを話す心の準備はしていなかった。私の場合、兄は生きているし、さすがにこの場で言えるようなことじゃない。

「おい、涼。そういう詮索はもっと仲良くなってからだろ。それより、もっと大事なことに気づけよな」

「大事な、こと?」

「え? なに?」

 思わず私も訊いてしまう。え、なに、怖い。

「雪城は、どうやら授業中も休み時間も放課後も涼のこと見てたらしいぞ〜。それも、表情がわかるくらいには真剣に」

「え?」

「あ、あーーーっ!」

 しまった! そうだ! そういえば私、そんなこと言ってた!

「ちょっ、なし! あれは、なんというか、そう、勢いで!」

「本当の気持ちを言ってしまった、と」

「ちっがーう!」

「ははははっ!」

 大失態だ。勢い余って、盛大に誤爆してしまった。しかも本人を前にして口にしてしまうとか、公開処刑そのものだ。
 もう小鳥遊くんのほう見れない……。
 私が右往左往していると、ようやく意地悪そうに笑うのをやめた翔くんが小さくため息をついた。

「まっ、つまり、そんくらいでいいんだよ。そんくらい肩の力抜いて適当に、そして自分のために真剣に生きろよ。お前らが思ってるように、俺だってさ、涼や雪城には自由に楽しく生きていてほしいんだ」

「あ……」

「翔……」

 翔くんの身体が、透けていた。
 向こう側には、白んだ空が見えた。

「ははっ。まぁ、今すぐにってわけじゃない。ゆっくりでいい。自分のペースで、ゆっくり自分を許してやってほしい。少なくとも俺はそう思ってるし、きっと雪城が考えてる相手も、同じだと思うぞ」

「え、なんで……」

「だって、雪城が罪悪感を持ってしまうほど、大切に思ってる人なんだろ? だったら相手も同じくらい大切に思ってるはずだ。そんな人が、雪城に楽しく自由に生きてほしくないわけがない、だろ?」

「あ……」

 随分と薄くなった翔くんの顔が、いつの日かの兄の笑顔と重なった。
 確かにあの日、私を迎えにきてくれた兄も、優しく笑っていた。

「じゃあな、涼。ずっと見てるからな。雪城の笑顔を最初に引き出したのは俺だけど、その先は任せた。泣かすんじゃねーぞ!」

「うっせ。……その、ありがと、翔」

「ああ」

 二人が笑い合う。心が暖かくなった。
 もう、翔くんの姿はほとんど見えない。

「んじゃな、雪城。たった4日だけど、いろいろ話せて楽しかった。ありがとな」

「私も楽しかったよ。こちらこそ、ありがと……」
 
 お礼を言い切る前に、翔くんは朝日の中に溶けていった。
 夜が、明けた。
 
「……小鳥遊くん」

「……なに?」

「途中まで、送ってくれないかな?」

「……ああ、もちろん」

 私たちの夜明けも、そう遠くない。
 そんな気がした。