今日も、月が夜空に輝いていた。
肌寒い気候も、星空を流れる薄い雲も、人ひとり通らない静まり返った住宅街も、何もかもがいつも通りだった。
そう、ここ数日と、何も変わっていない。
違うのは、私の心の中くらいだ。
「小鳥遊、くん……」
月光が照らす夜道には、私ひとりの足音だけが響いている。
向かう先は、いつもの公園。
兄が私を見つけてくれた公園で、小鳥遊くんと初めてまともに話した公園だ。
……本当に?
本当にあれは、小鳥遊くんなのだろうか。
今日の放課後に、私は小鳥遊くんとキャットフードを買いに行った。楽しく話せるだけで良かった。夜の時みたいに、昼間でもお話ができるようになれたら、嬉しかった。
でも、現実は想像とまったく異なっていた。
「夜中に公園で会ったことない、か……」
小鳥遊くんは、確かにそう言っていた。
驚いた顔をしていた。もしくは、恐怖かもしれない。
当然だ。これまでクラスでしか会ったことない女子から、真夜中の公園で話したことあるよねとか言われたら、誰だって驚くし、怖くなる。何言ってんのこいつ、って思うのも当たり前。初めて教室で話しかけた時に言われたのは、知らないふりなんかじゃなくて、素直な反応だったわけだ。
結局、ショッピングモールでキャットフードを買ったあとは気まずくなって、なんとなく解散になった。もう少し詳しく話を聞きたい気持ちもあったけど、私自身、頭の中が混乱していて独りになりたかった。小鳥遊くんも、私の様子を察してか深くは追求してこなかった。
それからは、家に帰ってひたすら考えを整理していた。宿題なんかそっちのけで、夕ご飯も何を食べたか覚えていない。ベッドの上で毛布を被り、足を抱えてあれこれ考え込んでいたら、いつの間にか深夜になっていた。
そして毎度のごとく、考えのまとまらないまま私は真夜中の町を徘徊している。足の先が、いつの間にかあの公園へと向かっているのは、無意識のうちに「彼」に会いたいと思っているからだろう。会ってどうするのかは、何も決まっていないのに。
ただ、今日彼に会えば、何かが変わってしまう。
それだけは、確かだった。
彼は、いったい何者なんだろうか。
少なくとも、昼間私と一緒にクラスで授業を受けている小鳥遊くんではない。それは、今日の小鳥遊くんの反応が証明している。
じゃあ、いったい誰なのか。
よく笑うところ以外、外見は瓜二つだ。背格好も声も変わらない。
まるで双子。
一番可能性があるとすれば、その辺りだろう。双子とか、兄弟とか、親戚とか。
でも、彼はクラスでの私のことを知っている。しかも、小鳥遊くん自身のこともよく知っている。本人しか知りえないような、細かいことまで。
「っ……はぁー」
わからないし、怖い。
……本当に、いいのだろうか。
ようやく、心安らぐ時間が見つけられたのに。
まだ3日間しか会っていないけれど、私は彼と過ごす時間が楽しかった。
今日も、普通に会って、普通に話して、普通にバイバイして。そんなふうに、過ごせたら……。
「……あ」
公園の入り口に立つ街灯の下で、ひとりの人が佇んでいた。
遠目でもわかる。あれは、間違いなく。
「こんばんは、雪城」
「小鳥遊、くん……」
毎晩会って、話していた、彼だ。
「ん? どうかした? なんか顔真っ青だけど、大丈夫?」
「え、ああ、うん。大丈夫」
大丈夫なわけがない。既に、私の心臓はバクバクと大きな音を立てている。
何を、何を話せば……。
頭がぐるぐるする。春、というかほとんど冬に近い気温なのに、手汗がにじむ。背中にも、変な汗が流れていて気持ち悪い。
そんな私の心境をよそに、目の前に立つ彼は朗らかに笑っていた。
「今日さ、猫、見に来てくれてありがとうな。あいつ、人懐っこくて寂しがり屋だから、時間空いた時にでも来てくれると助かる」
「う、うん」
話の内容は、今日小鳥遊くんと一緒にお世話をした猫のこと。昼間は表面的なことしか話せなかったけど、今は猫の性格とか好きなおやつとか、いろんなことを話してくれた。本当に、いつもと変わらない。
「それでさ、一応俺、土日は昼だけ見に行ってるんだ。ずっと野良猫してたから多分大丈夫なんだけど、心配だし……」
猫好きなところも変わってないし、優しいところも同じ……。
……あれ。
「そうだ。その、もし雪城が良ければだけど、今週の昼とか見に行ってくれないかな? 俺も遅れてだけど行くから、少しの間だけ猫のこと見ててほしくて」
また、だ。
私は、ぎゅっと手を握った。
小さなことだけど、これもきっと、そういう意味なんだろう。
「……えと、小鳥遊くん」
「うん?」
彼が笑う。柔らかくて、穏やかな笑顔だ。吸い込まれそうなくらいに。
「あのね。もう……いいよ」
私の口からこぼれ落ちたのは、そんな言葉だった。
「えと、もういいっていうのは?」
数十秒ほどの間をあけて、彼はようやく口を開いた。
私も、意を決して正面から彼を見据える。
「そのままの意味。あなたは、小鳥遊涼くんじゃない。そうでしょ?」
「……なんで、そう思うの?」
彼は問う。もうその問いかけ自体が、答えだ。
「だって、今のあなたは、小鳥遊くんじゃないから。私の様子が変なのを知ってて、そのまま自分の話をするようなこと、しないでしょ。それに、小鳥遊涼くんは、自分のことを『僕』って呼んでるよ」
ついさっき、気づいたことだ。
小鳥遊くんは、昼間、自分のことを「僕」と呼んでいた。でも、彼は自分のことを「俺」と呼ぶ。すごく単純なことだけど、一人称が同じ人で違うなんてことは少ない。
そしてなにより、今の彼は、どうしようもなく「らしくなかった」んだ。
「私ね。ずっと小鳥遊涼くんのことが気になってた。まるで、自分の姿を見てるみたいで。ずっと不機嫌そうにしてるのは、自分に怒っているみたいで。そしてそれは、私にとってもすごくわかる気持ちだったんだ……」
心の奥底に溜まり続けている罪悪感。
兄の人生を犠牲にして生きている限り、この感情はきっとこれからも消えてくれないのだろう。
「でもね。真夜中に会った小鳥遊くんは別人みたいだった。明るくて、笑顔に溢れてて、自分の好きなものを好きと言える、普通の高校生だった」
あの時は、本当に心底驚いた。
わずか3日前の出来事なのに、遠い過去のように思えた。
「羨ましかったなー。どうしたら、私も小鳥遊くんみたいに笑えるようになるんだろうって。どうしたら、私も変われるかなって。小鳥遊くんと一緒にいたら、それがわかるかもって、思ってた。最低だよね」
もちろん、それだけじゃない。
小鳥遊くんと一緒にいる時間が楽しくて、心の中にわだかまっている嫌な感情を忘れて、ただお喋りに夢中になれる、そんな時間が好きだった。
だけど。一番の理由はやっぱり、どうしようもなく打算的で、自分勝手なものだった。
「本当に自己中で、ごめんなさい。でも、そんなわがままを通すなら、最後まで貫かせてほしい。あなたが小鳥遊くんじゃないなら、やっぱり小鳥遊くんは、笑えてないってことなのかな? やっぱり私は、いつまでも笑えないって、ことなのかな……? この気持ちは、罪悪感は……いつまでも、ずっと、消えてくれないって……そういう、こと」
「違うっ!」
真夜中の公園に、ひときわ大きい声が響いた。
「そんなことない! 違う! まったく違う! ちげぇよ! 雪城も、涼も、ぜんぜん違うんだよっ……!」
「え、え?」
彼の、今まで見たことないほどの形相に、思わず後ずさる。その表情は強張っていて、怖くて、とても悲しそうで……。
「他人のためじゃねえ。自分の、自分のために生きろよ。何勝手に、自分のせいだって決めつけてんだよ!」
その勢いのまま、彼は手を大きく振り払った。
「……え?」
男子高校生らしい力強い腕は、私の右腕に当たることなく、そのまま通り抜けて空を切った。
衝撃も、感触すらなかった。
呆然と、私は彼を見上げていた。
「……ハッ。ようやく、か」
そこで、彼はふっと息をついた。今ほどまで浮かんでいた怖くて悲しい表情が抜け、穏やかな笑顔が戻る。
その視線の先は、私……ではなく、その後ろ。
「もしかして……翔、か?」
振り返ると、小鳥遊くんがいた。
息が、つまりそうだった。